第163話
その日の午後、神崎隼人――“JOKER”は、A級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】の攻略で得た新たな「賭け金」を手に、もはや彼の第二のホームとも言えるあの場所へと向かっていた。
新宿のギルド本部ビル。
その一階にある、関東探索者統括ギルド公認新宿第一換金所。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れたカウンターへと向かう。彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンだった。彼は、その視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!今日の配信、拝見しましたよ!また、とんでもないものをドロップされたのですね!」
その声は、弾んでいた。彼の幸運を、自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。その純粋な反応に、隼人の口元がわずかに緩んだ。
「…まあな。今日のテーブルは、少しだけ俺に微笑んでくれたらしい」
隼人は、ぶっきらぼうにそう答えながら、インベントリから今日の成果である大量の魔石と、そしてあの禍々しいオーラを放つユニークガントレット【ヘモフィリア】を、カウンターのトレイの上に置いた。
「魔石の換金と、こいつの出品を頼む」
雫は、そのガントレットが放つ確かな魔力と、血の匂いを纏うかのような不吉なオーラに、プロの顔つきで息を呑んだ。
「…【ヘモフィリア】ですか。これは、素晴らしい一品ですね」
彼女は、そのガントレットを丁寧に鑑定機へとかけていく。その高性能な機械が、アイテムに込められた魔力の質と量を、正確に分析し始める。
その鑑定を待つ、わずかな時間。
それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。
「確かに、これは優秀なユニークです」
雫は、鑑定機のモニターに表示された詳細な性能を確認しながら、語り始めた。彼女の瞳は、もはやただのファンではない。彼のビルドの可能性を共に模索する、最高の軍師のそれだった。
「高い物理耐性と回避力。そして、筋力+30という破格のステータスボーナス。これだけでも、A級の腕装備としては、十分に一線級の性能です」
「ああ」
「ですが、この装備の真価は、そこではありませんよね」
彼女は、そのテキストを指でなぞりながら、続けた。
「『アタックは、25%の確率で出血させる』『出血状態の敵に対するアタックダメージが、40%増加する』。そして極めつけは、『あなたが出血状態の敵を倒した時、その敵は爆発し、最大ライフの5%にあたる物理ダメージを周囲に与える』…。まさに出血という状態異常に、全てを特化させた、極めて攻撃的な設計思想です」
「じゃあ、よろしく頼む」
雫は、元気よく返事をする。
「はい、出品の手続きを進めますね」
ギルド本部ビルの最上階。
『公式オークションハウス』。
そこは、静かだった。だが、その静寂の中には、一触即発のピリピリとした緊張感が、常に張り詰めている。
隼人は、その独特の空気にもはや完全に馴染んでいた。
彼は、フロアの隅に設置された検索用の端末へと向かうと、雫に依頼した出品が無事にリストに載っていることを確認する。
そして、彼はそのまま帰ることはしなかった。
彼は、ギャンブラーだ。
自らが張ったカードが、どのようなドラマを生み出すのか。
それを、この目で見届けないわけにはいかない。
彼は、フロアの片隅にある目立たないソファに深く腰を下ろした。そして、彼の視線は、フロアにいる他の「プレイヤー」たちを、静かに、そして鋭く観察し始めた。
彼の目に、二つのグループが映った。
一つは、高級なブランドスーツに身を包んだ、いかにもエリートといった雰囲気の男女二人組。その胸元には、北欧神話をモチーフにした、世界樹のピンバッジが輝いている。おそらくは、雫が言っていた海外のトップギルド…【オーディン】の関係者だろう。
そして、もう一つのグループ。
こちらは、黒一色の機能的な戦闘服に身を包んだ、東洋系の顔立ちの男たち。その佇まいは、まるで影のように静かだが、その瞳の奥には、確かな実力と、そして勝利への渇望が宿っている。彼らの腕には、青い龍をかたどったタトゥーが彫られていた。中国か、あるいは韓国のギルドだろうか。
彼らは、互いに視線を合わせることはない。
だが、その間には、目に見えないほどの激しい火花が散っていた。
そして、その火花が現実の炎となって燃え上がったのは、オークションハウスの巨大なモニターに、あの赤黒いガントレットの画像が映し出された、その瞬間だった。
【出品アイテム:ヘモフィリア】
【開始価格:10,000,000円】
【残り時間:30分】
モニターにその情報が表示された、そのコンマ数秒後。
二つのグループの代理人たちが、同時に手元の端末を操作した。
彼らの、目の色が変わった。
ただのビジネスマンの顔から、獲物を狩る狩人の顔へ。
隼人は、その変化を見逃さなかった。
彼は、自らの聴覚を極限まで研ぎ澄ませる。
そして、彼の耳は、二つのグループの間で交わされるひそやかな、しかし熾烈な会話を捉えていた。
最初に口を開いたのは、東洋系のギルドのリーダー格の男だった。
「…ほう、【ヘモフィリア】か。良いタイミングで、良い品が出てきたな」
その声は静かだったが、その奥に確かな自信が滲んでいた。
「前回は、おたくの所が落札したし、今回はうちが落札する番じゃないか?」
彼は、隣に座る【オーディン】の代理人である、冷たい目をした女性にそう語りかけた。
それは、牽制だった。
だが、その女性は、その挑発に一切乗らなかった。
彼女は、その美しい顔に氷のような笑みを浮かべると、冷たく言い放った。
「は?公式オークションだし、番なんてない。欲しい奴が、買う。それが、ルールだ」
「あなたたちが、我々と同じテーブルに着けるだけのチップをお持ちならの、話ですけれど」
その、あまりにも傲慢な、そして絶対的な強者の言葉。
それに、東洋系の男の眉が、ピクリと動いた。
彼は、ちっと苛立たしげに舌打ちすると、その瞳に闘志の炎を燃え上がらせた。
「…面白い」
「じゃあ、今回はどうしてもうちが落札させてもらう」
その宣言と同時に、オークションの火蓋は切って落とされた。
モニターの価格表示が、凄まじい勢いで跳ね上がっていく。
1100万、1200万、1300万…。
100万単位のチップが、まるでポーカーのレイズ合戦のように飛び交っていく。
オークション開始から、わずか10分。
価格は、あっさりと1500万円の大台を突破した。
だが、まだ誰も降りない。
1700万、1800万、1900万…。
そして、ついに2000万円という、有識者たちが予想したラインに到達した。
だが、それでも戦いは終わらなかった。
二つのギルドは、互いに一歩も引く気はない。
それは、もはやただの装備の奪い合いではない。
ギルドのプライドを賭けた、代理戦争だった。
隼人は、その光景をただ静かに、そしてどこか楽しそうに眺めていた。
自らが投げ込んだ一枚のカードが、世界のトッププレイヤーたちをここまで熱狂させている。
その事実に、彼は最高の快感を覚えていた。
やがて、価格は2300万円を超え、その勢いがわずかに鈍り始めた。
東洋系のギルドの男の額に、じわりと汗が滲む。
彼らの予算の限界が、近いのだろう。
そして、その一瞬の躊躇を、氷の女が見逃すはずもなかった。
彼女は、その美しい指先で、端末に一つの数字を打ち込んだ。
ノックアウトブロー。
完璧なタイミングでの、最後の一撃。
【現在価格: 25,000,000円】
その、キリの良い、しかし絶対的な数字。
それに、東洋系の男は、ついに観念したように、深くため息をついた。
そして、運命のカウントダウンがゼロになる。
【【ヘモフィリア】は、Guild_Odin_Asset様によって、25,000,000円で落札されました】
モニターに、その無慈悲な、しかし彼にとっては最高のファンファーレとなる文字が表示された。
「…よしっ」
隼人は、思わず小さなガッツポーズを決めた。
手数料を差し引いても、2375万円。
彼の資産は、これでまた大きく膨れ上がった。
彼は、満足げに立ち上がると、その場を後にした。
彼の心には、確かな手応えと、そしてわずかな、しかし無視できない一つの感情が生まれていた。
彼は、換金所の出口で西新宿の夜景を見下ろしながら、独り言のように呟いた。
「まあ、日本の冒険者に分けて上げたい気持ちはないから、別に良いが」
「なんか、海外勢ばかりが買ってるのは、なんだかなぁ」
その言葉。
それは、愛国心ではない。
ただ、一人のプレイヤーとして。
自らが属する「サーバー」の優秀なプレイヤーが、次々とその最高のカードを、他のサーバーのプレイヤーに奪われていく。
その光景に対する、漠然とした、しかし確かな「悔しさ」のようなものだったのかもしれない。
彼のギャンブルは、もはや彼一人のものではない。
知らず知らずのうちに、彼はこの「日本」というチームを背負う、代表選手の一人となっていたのだ。
その自覚が、彼の心に新たな、そしてより大きな闘志の炎を灯した。
彼の次なる戦いは、もはや個人的な金策ではない。
世界の頂点を目指す、本当の戦いの始まりだった。