第162話
A級中位ダンジョン、【機鋼の都クロノポリス】。
その黒曜石の道と真鍮の摩天楼が織りなす無機質な風景は、神崎隼人――“JOKER”にとってもはや見慣れた日常の一部と化していた。
彼の配信チャンネルにログインした数十万人の視聴者たちが目にするのは、もはや手に汗握る死闘ではない。それは、絶対的な王者が自らの支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的に安定しきったショー。
彼の耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは、彼が最近「思考をクリアにするためのBGM」と称して好んで聴いている現代音楽の巨匠、フィリップ・グラスのミニマルなピアノ曲が、静かに、そして延々と流れていた。
「…この同じ音型の反復。一見、単調に聞こえるだろ?だが、違うんだ。この反復の中に生まれるほんのわずかな音色の変化、リズムの揺らぎ。その差異にこそ、この世界の不確実性と美しさが凝縮されてる。分かるか?お前らには、まだ早いか」
彼のそのあまりにも高尚で、そしてどこか眠気を誘う音楽談義に、コメント欄がいつものように和やかなツッコミと笑いに包まれる。
『出たwwwww JOKERさんのミニマル・ミュージック講座wwwww』
『もう何言ってるか全然分かんねえけど、とりあえずJOKERさんが楽しそうなのは伝わってくる』
『この無敵の王者が、退屈そうに高尚な雑談しながら敵を蹂躙していくスタイル、最高にクールで好きだわ』
彼がそう語りながら、ひょいと摩天楼の谷間を曲がった、その瞬間。
彼の目の前に、カシャカシャカシャッという鋭い駆動音と共に、数体の機械兵士が現れた。
青銅色の重厚な装甲に身を包み、右腕には鋭利なブレード、左腕には円形のシールドを構えた人型のオートマタ…【警邏式オートマタ・ホプロン】。
彼の右手は、もはや彼の意識とは別の生き物のように滑らかに動き、その腰に差されたユニーク長剣【憎悪の残響】を抜き放つ。そして、ただピアノのミニマルなフレーズに合わせるかのように、優雅に、そして無駄なく一閃。
ザシュッ!
彼の長剣が通り過ぎたその軌跡上の全てのオートマタが、その硬い装甲を青黒い霜で覆われながら、一瞬で砕け散り、光の粒子となって消えていく。
【憎悪のオーラ】がもたらす、追加冷気ダメージ。
【脆弱の呪い】が作り出す、絶対的な防御の穴。
そして、【オーラマスタリー】による48%のダメージ増加。
その全ての相乗効果は、A級中位の雑魚モンスターですら、彼に一太刀浴びせることすら許さない。
もはや、敵の姿を見るまでもない。
ただ、歩き、語り、そして時折剣を振るうだけ。
それだけで、このA級中位ダンジョンは、彼の独壇場と化していた。
『うわ、また一瞬で終わったw』
『もはや、JOKERさんにとってオートマタは道端の空き缶と変わらんな』
『この無敵感、最高だぜ…。家賃400万、余裕で稼げるわこれ』
コメント欄もまた、彼のそのあまりにも圧倒的な強さに、もはや驚愕ではなく、心地よい安心感すら覚えていた。
JOKERの配信は、安全だ。
JOKERの配信は、負けない。
その絶対的な信頼感が、彼のチャンネルを数十万人が集う巨大なコミュニティへと押し上げていた。
そんな、あまりにも平和で、退屈な、しかし確実な「作業」の時間が、どれほど続いただろうか。
隼人が、この日の目標としていた周回数を終え、最後のオートマタの部隊を殲滅した、その時だった。
彼が、一体のひときわ巨大で、そして指揮官機であることを示す金色の装飾が施された【オートマタ・センチュリオン】を、いつものように【衝撃波の一撃】で粉砕したその足元。
これまで見慣れた魔石の紫色の光や、ガラクタの鈍い輝きとは明らかに違う、一つの強烈な光が生まれた。
それは、まるで心臓が脈打つかのように、どくどくと濃密で、力強い、血のような赤黒い光だった。
ユニークの輝き。
だが、その輝きは、彼がこれまで見てきたどのユニークアイテムとも違う。
もっと、禍々しく、そしてどこまでも攻撃的なオーラを放っていた。
その光が生まれた、瞬間。
それまで彼の音楽談義に相槌を打っていたコメント欄の空気が、一変した。
全ての雑談がぴたりと止み、代わりに画面を埋め尽くしたのは、驚愕と熱狂の絶叫だった。
『!?』
『うおおおおおおおおおおおおおおおお!』
『光った!光ったぞ!なんだ、あの赤黒い光は!』
『またユニークかよ!嘘だろ!この男のドロップ運、マジでどうなってんだ!』
『今日のテーブルは、大当たりだったな、JOKERさん!』
コメント欄が、一瞬にして爆発的なお祭り騒ぎへと変わった。
隼人もまた、その予期せぬ「当たり」に、その眠たげな瞳を大きく見開いた。
彼は、思わず口元を緩ませる。
「ほう…」
「退屈なテーブルだと思ってたが、最後の最後で最高のカードを配ってくれるじゃねえか」
彼は、その神々しくも禍々しい光の元へと、ゆっくりと歩み寄っていく。
そして、その光の中心に静かに横たわる一つの腕装備を、拾い上げた。
それは、蛇の鱗を編み込んだかのような、しなやかで、しかしどこまでも頑強な、深紅のガントレットだった。
ARシステムが、その詳細な性能を表示する。
名前: ヘモフィリア (Haemophilia)
種別: ユニーク・腕装備
物理耐性: 87
回避: 87
装備条件: レベル 43, 筋力: 34, 敏捷: 34
性能:
筋力 +30
継続ダメージが25%増加する
アタックは、25%の確率で出血させる
出血状態の敵に対するアタックダメージが40%増加する
あなたが出血状態の敵を倒した時、その敵は爆発し、最大ライフの5%にあたる物理ダメージを周囲に与える
出血の持続時間が25%減少する
フレーバーテキスト:
一つの傷は、やがて千の傷口へと変わる。
戦場に、血の華を咲かせるがいい。
その、あまりにも攻撃的で、そしてピーキーな性能。
それを目にした隼人は、思わず感嘆の声を漏らした。
「…ほう。出血特化のガントレットか」
彼は、その性能を吟味しながら呟いた。
その声には、確かな興奮の色が宿っていた。
「継続ダメージ増加に、出血確率、出血中の敵へのダメージアップ。そして、出血した敵が爆発ね…。面白い。面白いじゃねえか」
彼は、そのアイテムが持つ明確な「コンセプト」を瞬時に理解していた。
「なるほどな。こいつは…」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、問いかけるように言った。
「――戦士出血ビルド用の、装備か…?」
その彼の的確な分析。
それに、コメント欄の有識者たちが、待っていましたとばかりに、その豊富な知識を披露し始める。
元ギルドマン@戦士一筋:
うむ。JOKER、その通りだ。
そいつは、物理攻撃の中でも特に「出血」という状態異常に特化した、極めて攻撃的なビルドの中核をなす装備の一つだ。
まさに、血の華を咲かせるためのガントレットよ。
ハクスラ廃人:
そうだぜ!そのビルドの強みは、その圧倒的な殲滅力にある!
まず、パッシブスキルや他の装備で、出血確率を100%まで引き上げる。
そうすりゃ、てめえの一撃一撃が、敵に致命的な継続ダメージを与えるようになる。
そして、その出血状態の敵に対するダメージが40%も増加するんだから、火力は爆発的に跳ね上がる。
硬いボス相手でも、面白いようにHPが溶けていくぜ。
ベテランシーカ―:
ええ。そして何よりも、この装備の真価は、その最後の効果にあります。
『あなたが出血状態の敵を倒した時、その敵は爆発し、最大ライフの5%にあたる物理ダメージを周囲に与える』。
これこそが、このビルドが「雑魚掃除の神」と呼ばれる所以です。
一体の敵を倒せば、その爆発が隣の敵に出血を与え、そしてまた爆発する。
連鎖反応です。
敵の群れが密集していればいるほど、その効果は指数関数的に増大し、戦場は文字通り、血の華が咲き乱れる地獄絵図と化すでしょう。
その、あまりにも鮮やかで、そして完成されたコンボの思想。
隼人は、ただ感心するしかなかった。
この世界には、まだ俺の知らない無数の狂気が眠っている。
『強い!強いぞ、このガントレット!』
『JOKERさん、これ使おうぜ!絶対強いって!』
『血の爆発とか、ロマンありすぎるだろ!』
コメント欄が、その新たな可能性に熱狂する。
だが、その熱狂の中で、一人の視聴者が冷静な質問を投げかけた。
『で、これいくらくらいすんの?』
その問いかけに、有識者たちが答える。
元ギルドマン@戦士一筋:
うむ。こいつは、A級ダンジョンではそこそこドロップが報告されている部類のユニークだ。
決して、超絶レアというわけではない。
だが、その分かりやすい強さと、何よりその爽快感から、常に一定の需要がある。
俺が知る限り、前の相場だと、1000万円から1500万円ってところだったな。
ベテランシーカ―:
ええ。ですが、最近は状況が少し変わっています。
あのアメリカのトップギルド、『ヴァルキリー・キャピタル』。
彼らが、この出血爆破ビルドの亜種をギルドの主力戦術の一つとして採用したという噂が流れてから、状況は一変しました。
ハクスラ廃人:
そういうことだ!
特に、海外の攻撃的なビルドを好む連中が、こぞってこのガントレットを買い漁ってるんだよ!
おかげで、今のマーケットじゃ、完全に品薄状態だ。
もし、オークションに出せば…
――2000万円は、硬いんじゃないか?
2000万円。
その、あまりにも具体的で、そして重い数字。
それに、コメント欄が再び爆発した。
『に、にせんまん!?』
『家、買えるじゃねえか!』
『JOKERさん、またとんでもないお宝引き当てちまったな!』
その熱狂を背中に感じながら、隼人は、完成したばかりの神のガントレットを静かに見つめていた。
そして彼は、冷静に自らのビルドとの相性を分析する。
「なるほどね」
彼の口から、感嘆の息が漏れる。
「出血確率を高めて100%まで引き上げて、出血状態の敵へのダメージアップ。そして、雑魚掃除用の爆破効果。これが、便利ということだな」
彼は、その性能に深く頷いた。
そして、彼は決断した。
その声は、どこまでもドライだった。
「だが、今の俺のビルドとは合わねえな」
「俺は、出血のノードは一つも取ってない。これを活かすには、パッシブツリーを大幅に振り直す必要がある。それは、面倒だ」
彼はそこで一度言葉を切ると、最高のギャンブラーの笑みを浮かべた。
「――それに、金も必要だしな。売るか」
その、あまりにも潔い決断。
それに、コメント欄が再び沸き立った。
『潔い!w』
『それでこそ、JOKERだ!』
『2000万ゲット!おめでとう!』
彼は、そのガントレットをインベントリの奥深くへと仕舞った。
彼の資産は、また大きく膨れ上がった。
そして、その莫大な軍資金を元に、彼が次に為すべきことは、ただ一つ。
彼の脳裏には、すでにオークションハウスの光景が浮かんでいた。
その、温かい祝福ムードの中で。
コメント欄に、ぽつりぽつりと、これまでとは少し違う種類のコメントが流れ始めた。
投稿主は、JOKERと同じようにA級のテーブルで戦う、名もなき探索者たちだった。
名もなきA級冒険者A:
いいなあ、JOKERは。
俺なんか、もう一ヶ月ユニークの光を見てねえぞ。
名もなきA級冒険者B:
分かる。
A級って、確かに魔石のドロップは美味い。
だが、こういうデカい一発があるかないかで、精神的な余裕が全然違うんだよな。
名もなきA級冒険者C:
ああ、全くだ。
このユニークドロップっていう名の、月一の楽しみ。
これがあるから、俺たちはこのクソみてえに単調な周回作業を続けられるんだよな。
その、あまりにもリアルで、そして切実なA級探索者たちの本音。
それに、隼人はふっと息を吐き出した。
そして彼は、呟いた。
その声は、どこか彼らへの共感を込めているようだった。
「…まあ、お互い楽な仕事じゃねえってことだ」
彼のA級での戦いは、まだ始まったばかりだ。
そして、その先には、もっと大きな、そしてもっと甘美な「配当」が待っている。
その確かな予感が、彼の心をこれ以上ないほど高揚させていた。