第160話
西新宿の夜景が、その日いつもよりもどこか優しく、そして祝福に満ちているように見えた。
神崎隼人 "JOKER" は、自室のギシリと軋む古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
彼の目の前のモニターは、暗転したままだ。
だが、彼の脳裏には、数時間前のあのA級ダンジョンでの鮮烈な勝利の記憶が、まだ焼き付いて離れない。
A級下位ダンジョン【星霜の書庫】。
一度は彼に屈辱的な敗北を味わわせたあの場所も、今や彼の日常の一部と化していた。
【鋼鉄の炉心】を身に着け、75%の上限に達した元素耐性。
堅牢化による、鉄壁の防御。
彼のビルドは、A級下位というテーブルにおいて、絶対的な安定性を誇っていた。
その力は、もはやA級中位ダンジョン【機鋼の都クロノポリス】ですら、彼にとっての新たな「庭」へと変えてしまった。
だが、彼は決して満足はしていなかった。
ギャンブラーの魂が、常に囁きかけるのだ。
(この勝利は、誰のためだ?)
(この力は、何のためにある?)
彼は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
そして、部屋の隅に置かれた一枚の写真立てを、その手に取る。
屈託のない笑顔でピースサインをする、ショートカットの少女。
彼のたった一人の妹、神崎美咲。
彼女の笑顔こそが、彼の戦う理由の全てだった。
彼はスマートフォンを取り出し、銀行口座の残高を確認する。
その数字を見つめながら、彼は一つの、そして最も重要な決意を固めた。
それは、どんなダンジョン攻略よりも、どんなボス討伐よりも、彼にとって大きな一歩となる決断だった。
「…行くか」
彼は短く呟くと、よれたTシャツとスウェットという、あまりにもラフな格好のまま、アパートのドアを開けた。
彼の新たな「クエスト」が、今、始まろうとしていた。
◇
彼が向かった先は、ダンジョンではない。
ましてや、上野アメ横の混沌の市場でもなかった。
彼が、その少しだけ場違いな普段着で足を踏み入れたのは、西新宿の超高層ビル群の中でもひときわ静かで、そして重厚な空気が漂う、一つのオフィスビルだった。
そのビルの、大理石でできたエントランスを抜け、専用のエレベーターで最上階へと向かう。
チーンという軽やかな音と共に扉が開くと、そこには彼の想像を絶する、洗練された空間が広がっていた。
床には、足音を完全に吸収する深紅の絨毯。
壁には、有名な現代アートが静かに飾られている。
そして、広大なフロアの中央には、巨大な一枚板で作られた重厚なカウンターと、柔らかな革張りのソファが置かれたいくつもの相談ブース。
空気中には、高級なアロマの香りが、ほのかに漂っていた。
そこは、都内でもごく一部の富裕層だけを顧客に持つ、超高級不動産。
その中でも特に異質な、「探索者向け物件」を専門に扱う特別な場所だった。
隼人は、そのあまりにも場違いな空気に、一瞬だけ気圧されそうになった。
だが、彼はすぐにいつものポーカーフェイスを取り戻す。
ここは、新たなテーブルだ。
そして、俺は客だ。
何も、臆することはない。
彼がフロアへと一歩足を踏み出すと、すぐにスーツを完璧に着こなした一人の初老の男性が、深々と、そして優雅にお辞儀をしながら彼を出迎えた。
「ようこそ、お客様。お待ちしておりました」
その声は静かだったが、その奥に確かなプロフェッショナルの響きがあった。
「…予約はしてないが」
「存じております。ですが、我々は常に最高の顧客の動向を把握しておりますので」
男性は、にこりともせずそう言った。
その瞳は、隼人のそのよれたTシャツやスウェットではなく、その奥にある魂の「格」を、正確に値踏みしているかのようだった。
「A級探索者、JOKER様。ですね?」
「…ああ」
「お話は、個室にて伺わせていただきます。桐山と申します。どうぞ、こちらへ」
桐山と名乗ったその男は、隼人をフロアの最も奥にある、重厚な扉の前へと案内した。
個室の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
柔らかな、間接照明。
そして、窓の外には、西新宿の摩天楼がまるで一枚の絵画のように広がっている。
隼人が革張りのソファに深く腰掛けると、桐山はその向かいに座り、テーブルの上に一枚のガラス板のような、最新鋭のタブレット端末を置いた。
「さて、JOKER様。本日はどのような物件をお探しで?」
その、あまりにも丁寧な、しかしどこまでもビジネスライクな問いかけ。
それに、隼人は少しだけためらった。
彼はこれまで、自分のプライベートな情報を誰かに打ち明けたことなど、一度もなかったからだ。
だが、目の前のこの男は、信頼できる。
彼の、ギャンブラーとしての直感がそう告げていた。
「…セキュリティが、万全なところ」
彼は、短くそう言った。
「そして、駅が近く、交通の便がいい一等地。二人で住む」
「二人…でございますか」
桐山は、その言葉にわずかに反応したが、それ以上深くは踏み込んでこなかった。それもまた、プロの流儀なのだろう。
「承知いたしました。では、まず参考までに、この世界の頂点に君臨する方々が、どのような住居にお住まいか、ご覧になりますか?」
桐山はそう言うと、タブレットを操作した。
すると、テーブルの上に青白い光の粒子が集まり、一つの立体的な建物のホログラムが浮かび上がった。
それは、もはやマンションではなかった。
一つの、「城」だった。
「こちらは、とあるSSS級の方が個人で所有されている、プライベートな『隠れ家』でございます」
その、あまりにも現実離れした光景。
「JOKER様もご存知の、鳴海詩織様が所有されているものと同等の空間ですね。SSS級の方々は、もはや不動産という概念には縛られません。自らの資産を使い、このような自分だけの半永久的な異空間を創造する。それが、彼らの日常です」
「…なるほどな。SSS級は、家ごと持ち運ぶってわけか」
「左様でございます。そして、SS級の方々になりますと、もう少し現実的な選択をされます」
ホログラムが切り替わる。
次に現れたのは、新宿の上空、雲の上に浮かぶ、一つの巨大な天空の城だった。
「SS級の方々の多くは、このように一つのフロア、あるいは数フロアを丸ごと所有されます。住居というより、ギルドの支部機能を持つ『拠点』ですね。月々の維持費だけでも、数億円は下らないと言われています」
億単位の、維持費。
その、天文学的な数字。
それに、隼人はもはや驚きもしなかった。
「そして、S級の方々」
ホログラムは、都心にそびえ立つひときわ豪華で近代的なタワーマンションの映像を映し出した。
「彼らは主に、このようなS級探索者専用のマンションに住まわれます。月額の家賃は、およそ1500万から3000万円。専属のコンシェルジュチームが24時間体制で全ての雑事を代行し、住人専用のプライベート転移ゲートも完備されております」
そして、桐山はそこで一度言葉を切った。
彼は、隼人の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「そしてここからが、JOKER様、あなたにご提案させていただく、現実的な物件となります」
ホログラムが、最後に切り替わった。
そこに映し出されたのは、西新宿の一等地にそびえ立つ、スタイリッシュなガラス張りのタワーマンションだった。
「A級探索者向け分譲賃貸タワーマンション、『アークスタワー新宿』。これこそが、今のあなた様に最も相応しい舞台かと」
桐山は、その流れるような、しかし確かな熱意を込めたセールストークを始めた。
「対象は、あなた様のようなプロとして一流の仲間入りを果たし、莫大な富を稼ぎ始めたエリート層。24時間体制の物理・魔法セキュリティはもちろんのこと、高純度の魔石を動力源とした魔素中和空調システムも完備しております。ダンジョンでその身に付着した微量の有害な魔素も、部屋に入るだけで完全に浄化される。まさに、最高の休息を約束する空間です」
魔素中和システム。
その言葉に、隼人の心臓がドクンと大きく跳ねた。
そうだ、これだ。
これこそが、美咲に必要なものだ。
彼女を苦しめ続けてきた、あの忌々しい病。
その根源を断ち切ることができるかもしれない、唯一の希望。
桐山は、そんな彼の内なる動揺を見透かしたかのように、さらに言葉を続ける。
「各戸には、遮音・防衛結界も標準装備。あなたのプライバシーは、完全に守られます。そして何よりも、我々が誇るのが、このコンシェルジュサービスです」
彼は、胸を張った。
「彼らは、ただのホテルのコンシェルジュではありません。元B級の探索者やギルドの情報分析官で構成された、プロフェッショナル集団。希少な素材の取り寄せ、次なるダンジョンの情報提供まで。あなたの探索者としての活動を、あらゆる面から24時間サポートさせていただきます」
完璧だ。
あまりにも、完璧すぎる。
隼人の心は、すでに決まっていた。
桐山は、とどめとばかりに、最後のセールスポイントを告げた。
彼は、ホログラムの視点を地下へと移動させる。
そこには、広大な、そして厳重なセキュリティゲートに守られた地下駐車場が広がっていた。
「もちろん、駐車場も万全です。探索者の方々は、時に特殊な装甲車両などをお使いになることもあるでしょう。ここの駐車場は、そういった高級車でも安心安全ですよ」
「…車は、持ってないがな」
隼人は、思わずそう呟いていた。
「まあ、良いか」
その素直な反応に、桐山は初めてそのポーカーフェイスをわずかに緩ませた。
「そして、JOKER様。あなた様が最も気にされるであろう立地。もちろん、駅からも近く、交通の便も最高です。都内のどの主要なダンジョンへも、一時間以内でアクセス可能。そして、何よりも…」
彼はそこで一度言葉を区切ると、隼人の心の最も柔らかな部分を、的確に、そして優しく突いた。
「…あなた様の大切な方が、これから通われるであろう学校や病院へのアクセスも、完璧です」
妹の、復学。
その、隼人が誰にも語ったことのない、心の奥底に秘めた願い。
それを、この男は見抜いていた。
おそらくは、雫から事前に情報を得ていたのだろう。
だが、その心遣いが、隼人の心を確かに打った。
「…分かった」
彼は、短くそう言った。
「そのアークスタワーの部屋、いくつか見せてもらえるか」
その言葉に、桐山は満足げに、そして深く頷いた。
「――かしこまりました。最高のお部屋を、ご用意させていただきます」
◇
その日の午後。
隼人は、桐山と共にアークスタワー新宿の内覧をしていた。
彼が最初に案内されたのは、40階にある2LDKの角部屋。
リビングの巨大な窓からは、新宿御苑の緑と都心のビル群が一望できる、絶景が広がっていた。
最新鋭の、システムキッチン。
大理石の、バスルーム。
そして何よりも、隼人の心を捉えたのは、その完璧なまでの静けさだった。
特殊な結界によって、外の喧騒は一切聞こえない。
ここなら、美咲も穏やかに暮らせるだろう。
「…家賃は?」
「はい。こちらのお部屋で、月々250万円となっております」
にひゃくごじゅうまん。
その数字に、隼人は一瞬だけ眩暈を感じた。
だが、彼はすぐに気を取り直す。
今の俺なら、払える。
いや、払ってみせる。
次に案内されたのは、さらに上の階、45階にある3LDKの部屋。
先ほどの部屋よりもさらに広く、そして豪華な内装。
バルコニーからは、遠くに富士山のシルエットすら見える。
「こちらで、月々400万円でございます」
「…なるほどな」
隼人は、その二つの部屋をじっくりと見比べた。
そして、彼は心の中で激しく葛藤していた。
この、あまりにも大きな出費。
だが。
目の前には、美咲の「今」の幸せがある。
病室の冷たいベッドの上ではなく、この温かな陽光が差し込むリビングで笑う、妹の姿。
その光景を想像した瞬間。
彼の心は、決まった。
ギャンブルとは、時に目先の小さな勝ちを拾い続けることよりも、大きな未来の可能性にベットするものだ。
だが、その未来を手に入れるためには、まず守るべき現在がある。
彼は、桐山に向き直った。
その瞳には、もはや一切の迷いはない。
「――決めた」
彼は、力強く宣言した。
「この45階の部屋、借りる」
その、あまりにも潔い決断。
それに、桐山は満足げに、そして深く頭を下げた。
「かしこまりました、JOKER様。これより、契約の手続きに入らせていただきます」
◇
不動産屋を後にした、隼人。
彼の心は、これ以上ないほどの達成感と、そして新たな責任の重みで満たされていた。
彼は歩きながらスマートフォンを取り出し、一人の人物へとメッセージを送る。
それは、彼がこの世界で最も信頼する軍師。
水瀬雫だった。
『家、決めた。アークスタワー新宿の45階だ』
その、短い報告。
それに、雫からの返信は一瞬だった。
画面に表示されたのは、無数の祝福のスタンプと、そしてたった一言。
『――本当の本当に、おめでとうございます!』
その、温かい言葉。
隼人は、それを見つめながら、ふっと笑みを漏らした。
彼は、空を見上げる。
西新宿の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
彼の新たな、そして本当の「生活」という名の物語が、今、始まろうとしていた。




