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第159話

 西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしている。

 神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された自らの銀行口座の残高を、静かに、そしてどこか他人事のように眺めていた。

 桁がおかしい。

 数ヶ月前まで、その数字は常に数万円のラインをうろついていた。妹・美咲の治療費の支払日が近づくたびに、その残高は容赦なくゼロに近づき、彼の心を締め付けた。

 だが、今の彼の口座には、もはや金の心配などこの世に存在しないとでも言うかのような、圧倒的な数字が並んでいた。


 A級中位ダンジョン、【機鋼の都クロノポリス】。

 あの日、あの場所の主【クロノス・センチネル】との死闘を制して以来、そこは彼の新たな「庭」と化していた。

 彼のビルドは、あの場所において完全な最適解へと到達している。

 初手【衝撃波の一撃】四連打で、敵の軍勢の半数以上をスタンさせながら、その耐久値を削り取る。

 そして、残った個体を【無限斬撃】で一体、また一体と、確実に処理していく。

 そのあまりにも効率的で、安定しきった「作業」。

 彼の配信は、再び絶対的な王者がその支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的な安心感を誇るショーとなっていた。

 そして、その安定は彼に確実な「資産」をもたらし続けていた。


「…さてと」


 彼は、椅子からゆっくりと立ち上がった。

 その日の周回で、インベントリはおびただしい数のB級、A級の魔石と、いくつかの高価なレアアイテムで満杯になっている。

 それらを、確かな「価値」へと変える時が来た。

 彼はいつものようにアパートを後にし、新宿の喧騒の中を歩いていく。

 向かう先は、ただ一つ。

 もはや彼の第二の我が家とも言える、あの場所。

『関東探索者統括ギルド公認 新宿第一換金所』。


 ◇


 ガラス張りの自動ドアをくぐると、そこにはやはり彼の期待通りの人物がいた。

 艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。

 水瀬雫。

 彼女は隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせ、プロフェッショナルの笑顔の中に隠しきれない温かな歓迎の色を滲ませて、出迎えてくれた。


「JOKERさん!お待ちしておりました!」

 その声は、弾んでいた。

「【機鋼の都クロノポリス】の周回、お疲れ様です!あなたのおかげで、あのダンジョン、今ものすごい人気スポットになっているんですよ?『JOKERルート』をなぞって金策に励むA級探索者の方で、連日大盛況です!」

「…そうか」

 隼人は、そのどこか嬉しそうな報告に、興味なさげに答える。

「だが、俺には関係ねえな。他の連中がどうしようと、俺は俺のやり方でやるだけだ」

「ふふっ、そうですよね。それがあなたという方ですものね」

 雫は楽しそうに笑うと、カウンターのトレイを差し出した。

「さあ、どうぞ。本日の素晴らしい戦果を」


 隼人はぶっきらぼうに頷くと、インベントリからこの数日間の全ての稼ぎである、大量の魔石とドロップアイテムをカウンターのトレイの上に置いた。

 その圧倒的な量に、雫は改めて息を呑む。

「…信じられません…。これ全部、この数日で…?A級中位の周回速度としては、異常ですよ」

 彼女は、手慣れた、しかしどこかうっとりとした手つきで、それらを鑑定機へとかけていく。

 その鑑定を待つ、わずかな時間。

 それは彼らにとって、恒例となった貴重な作戦会議の時間だった。


「A級中位ダンジョン完全クリア、本当におめでとうございます!」

 雫は、鑑定機のモニターを見つめながら、心からの祝福の言葉を口にした。

「あの【クロノス・センチネル】戦、本当に見事でした!特に、最後のクリティカルヒット!あれがなければ、どうなっていたことか…!私、見ていて心臓が止まるかと思いました!」

「…ありがとう」

 隼人は、その手放しの賞賛に、短く礼を言った。

「まあ、運が良かっただけだ」

「運だけじゃ、あんな戦いはできませんよ」

 雫は、きっぱりと言い切った。

「あれは、あなたの力が運命そのものを捻じ曲げた結果です。私は、そう信じています」

 その、あまりにも真っ直ぐな信頼の言葉。

 それに、隼人は少しだけ照れくさそうに視線を逸した。


「それで、」

 雫は、プロの軍師の顔に戻り、問いかけた。

「JOKERさん、しばらくはこのままクロノポリスで金策しつつ、という感じですか?」

 その問いかけに、隼人は静かに頷いた。

「そうだな」

 彼は、どこか遠い目をして答える。

「正直、今の俺には特に欲しい物もないしな。しばらくは金策しつつ金を貯めるよ。あの【原初の調和】で3500万円使ったばかりだしな」

 彼の、そのあまりにも現実的な言葉。

 それに、雫は少しだけ意外そうな表情を浮かべた。

 彼女の知るJOKERは、常に新たなスリルと力を求め続ける、渇望の塊のような男だったからだ。

「それに…」

 隼人は、そこで一度言葉を切った。

 そして彼は、少しだけためらうように、しかし確かな決意をもって続けた。


「そろそろ、新しい家を探さないといけないからな」


 その、あまりにも唐突な、そして彼のこれまでのイメージとはかけ離れた一言。

 それに、雫の時間が止まった。

 彼女の大きな瞳が、信じられないというように、大きく見開かれる。

 家?

 この、常に戦場に身を置き、刹那的な勝利だけを追い求めているように見えたこの男が?

 彼女の脳内に、無数の疑問符が浮かび上がる。

 だが、その全ての疑問を、一つのあまりにも切実な可能性が打ち消した。

 彼女の心に、一人の少女の顔が浮かび上がっていた。

 彼女は、恐る恐る、そしてどこか祈るような気持ちで尋ねた。


「…もしかして…」

 その声は、震えていた。

「もしかして、妹さん…のことですか…?」


 その問いかけに、隼人は一瞬だけ驚いたような顔をした。

 だが、すぐに彼は諦めたようにふっと息を吐き出した。

 そして彼は、これまで誰にも心の奥底を見せたことのない彼が、初めてその素顔を彼女にだけ見せた。

 彼の口元に、これまで見たことのない穏やかで、そして心の底からの嬉しさに満ちた笑みが浮かんでいた。


「――ああ」


 彼は、力強く頷いた。


「ひとまず、退院のめどが立ったんだ」


 その一言。

 それが、雫の心の最後のダムを決壊させた。

 彼女の大きな瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。

 それは、悲しみの涙ではない。

 ただ、ひたすらに温かい、歓喜の涙だった。

「…!…よかった…!本当に、よかったですね…!」

 彼女は、しゃくり上げながら、何度も何度もそう繰り返した。

 その、あまりにも純粋な涙。

 それに、隼人は少しだけ狼狽えた。

「おおい、なんであんたが泣くんだよ…」

「だって…!だって、嬉しいですもの…!あなたがずっと、ずっと頑張ってきたこと、私、知ってますから…!」

 彼女は、制服の袖で乱暴に涙を拭うと、鼻をすすりながら、それでも最高の笑顔で続けた。

「それで、それでお引越しをお考えなんですね!」

「ああ」

 隼人は、どこか照れくさそうに、しかしその声には確かな誇りが滲んでいた。

「俺一人なら、今のあのボロアパートで十分だ。だが、これからは妹がいる。あいつには、もう何の心配もさせたくない。だから、セキュリティのしっかりした家を探さないといけねえ。…A級冒険者向けのタワマンを探す必要があるんだ」


 A級冒険者向けのタワーマンション。

 それは、この世界の成功者の証。

 国家レベルの厳重なセキュリティ。

 ダンジョンで付着した魔素を中和する特殊な空調システム。

 そして、何よりも静かで穏やかな日常。

 それを、彼は自らの力で妹にプレゼントしようとしている。


「…おめでとうございます…!本当に、おめでとうございます、JOKERさん…!」

 雫は、もはや言葉にならなかった。

 ただ、その心からの祝福の言葉だけを繰り返した。

 隼人は、そんな彼女の姿に苦笑いを浮かべながら、窓の外の西新宿の空を見上げた。

 青く、どこまでも澄み渡った空。

 彼は、心の底から思った。


「ああ。冒険者になって、本当に良かったと思うよ」

 その声には、一切の迷いがなかった。

「まだギャンブラーだけをやってたら、ここまでの治療は絶対にできなかった」

 彼は、そこで一度言葉を切った。

 そして彼は、目の前でまだ瞳を潤ませている彼の最初の、そして最高の理解者へと向き直った。

 彼の顔には、これまでにないほどの穏やかで、そして素直な表情が浮かんでいた。

 彼は、少しだけ照れくさそうに頭をかきながら言った。

 その言葉は、彼がずっと彼女に伝えたかった、心からの本音だった。


「――最初に色々と教えてくれたのは、アンタだったな」

「言ってなかったが…」


 彼は、彼女の大きな瞳を真っ直ぐに見つめた。

 そして彼は、その不器用な唇で、最高の感謝の言葉を紡ぎ出した。


「――ありがとう」


 その、たった一言。

 雫の思考が、完全に停止した。

 彼女の心臓が、これまでにないほど高く、そして速く脈打つのを感じた。

 彼女の頬が、夕焼けのように真っ赤に染まっていく。

 そして彼女は、ただその場で固まることしかできなかった。

 彼の、あまりにも不意打ちの、そしてあまりにも優しいその一言に。



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