第16話
翌日、神崎隼人は、いつもの新宿ではなく、山手線の反対側、上野の街にいた。
JRの駅を降りて、人の波に乗り、向かう先はアメヤ横丁。年の瀬でもないのに、そこは、まるで祭りのような喧騒と熱気に包まれていた。威勢のいい乾物屋の掛け声、香ばしいケバブの匂い、多国籍の言葉の洪水。日本の日常が、良くも悪くも、ごちゃ混ぜになったエネルギッシュな通りだ。
隼人は、その人波を、まるで魚のように巧みにすり抜けながら、脇道へと逸れた。一本、また一本と、表通りから離れていくにつれて、喧騒の種類が変わっていく。観光客や買い物客の明るい声が遠ざかり、代わりに、もっと荒々しく、どこか切羽詰まったような、独特の空気が肌を刺し始めた。
そして、彼は、目的の場所にたどり着いた。
JRの高架下。太陽の光がほとんど届かない、薄暗い一角。
そこは、公式には存在しない、探索者たちのための、巨大なフリーマーケットだった。
ギルド公認の、清潔で、明るい専門店とは、何もかもが違う。ここは、混沌そのものだった。
地面に敷かれたブルーシートの上には、錆びついた剣や、凹んだ鎧が無造作に山積みになっている。古びた長机には、色の濁った、得体のしれない液体が満たされたポーション瓶が、怪しげに並べられていた。リヤカーを改造した屋台では、ゴブリンの肉を焼いた串焼きが、香ばしい(あるいは、鼻をつく)煙を上げている。
ベンダーたちの怒号、値切り交渉をする探索者たちの真剣な声、そして、時折響き渡る、試し斬りでもしているのか、金属と金属がぶつかり合う、甲高い音。
それら全てが混じり合い、まるで、地上に出現した、もう一つの、より危険で、より生々しい「ダンジョン」を形成していた。
隼人は、その光景を前にして、しかし、怯むことはなかった。
むしろ、彼は、この胡散臭く、危険な空気に、不思議なほどの居心地の良さを感じていた。
ここは、騙される方が悪い、自己責任の世界だ。商品の価値を見抜く「目」と、相手の嘘を見破る「洞察力」、そして、有利な取引を引き出す「交渉術」。それらを持たない者は、容赦なく搾取される。
そのルールは、彼がこれまで生きてきた、裏社会の賭場と、驚くほどよく似ていた。
(…なるほどな。こっちの方が、よっぽど、俺の性に合ってる)
換金所の、あの清潔で、礼儀正しい世界では、彼は、常に借りてきた猫のように、息苦しさを感じていた。だが、この場所では、違う。
彼は、自分のギャンブルの腕…人間の「癖」と「嘘」を見抜く力が、ここでは、どんな高価な武器よりも、優れた交渉の武器になることを、直感していた。
彼は、深く、息を吸い込んだ。様々な匂いが混じった、混沌の空気が、彼の肺を満たす。
そして、彼は、配信者「JOKER」の仮面ではなく、裏社会で生き抜くための、冷徹なギャンブラーのポーカーフェイスを、その顔に貼り付けた。
彼の鋭い目が、獲物を探す鷹のように、露店に並べられたガラクタの山を、値踏みし始めた。
三万二千円の軍資金。
この限られたチップで、最強のデッキを組み上げる。
彼の、新たなギャンブルが、今、始まった。
神崎隼人の「デッキ構築」は、まず、最も重要なパーツである「足」装備から始まった。
SeekerNetの聖書に曰く、『足は速さが命。お前の命綱だ』。
彼は、マーケットに足を踏み入れると、他の商品には目もくれず、ひたすら、ブーツや革靴を扱っている露店だけを探し始めた。
いくつかの店を回り、彼は、山のように積まれた中古ブーツの中から、一つの品を見つけ出した。見た目は、泥と傷にまみれた、ただの汚い革ブーツ。だが、隼人の目には、そのブーツが、ごく微かな魔力のオーラを放っているのが、見えていた。
「お、兄ちゃん、目が高いね!」
露店の主である、小太りの中年男が、にやにやと下品な笑みを浮かべて話しかけてくる。
「そいつは、なかなかの掘り出し物だぜ。『俊足の革靴』って言ってな、移動速度が10%もアップする優れもんだ。普通なら2万は下らない代物だが、兄ちゃんには、特別に、1万5千円で譲ってやろう!」
男は、そう言って、古びた魔力測定器をブーツにかざして見せた。測定器の針は、確かに「+10%」という数値を指し示している。
だが、隼人は、その測定器の、わずかな違和感を見逃さなかった。針の動きが、不自然に滑らかなのだ。おそらく、細工がされている。
そして、何より、目の前の男。彼の目は、笑っていなかった。獲物を前にした、 predatoryな光が、その奥にちらついている。典型的な、カモを狙う三流詐欺師の「癖」だった。
隼人は、冷たく、言い放った。
「そのおもちゃ、仕舞いなよ、オヤジ」
「な、なんだと!?」
「そのブーツから感じる魔力は、そんなに強くない。それに、あんたの目、泳ぎすぎだ。俺を、何も知らない素人だとでも思ったか?」
隼人の、全てを見透かしたような視線に、男は、たじろいだ。
「そのブーツの本当の効果は、せいぜい+5%ってところだろ。5000円なら、買ってやる」
「ご、5000円だと!?ふざけるな!」
「じゃあ、いらない。他を当たる」
隼人が、あっさりと背を向けて立ち去ろうとした、その時だった。
「ま、待て、兄ちゃん!」
男は、慌てて、隼人の腕を掴んだ。彼のブラフは、完全に見破られていた。
「…わ、分かったよ!8000円!いや、7000円でどうだ!」
「8000円だ。ただし、そっちのブーツじゃない」
隼人は、男が最初に提示したブーツではなく、その隣に、無造作に置かれていた、さらにみすぼらしい、別のブーツを指さした。
「そいつを、8000円で売れ」
男は、きょとんとした顔で、そのブーツを見た。それは、誰が見ても、ただの履き古されたゴミにしか見えない。
「こ、こっちでいいのか?こいつは、魔力反応もねえ、ただの…」
「いいから、それにしろ」
隼人は、有無を言わさぬ口調で、言い放った。
男は、訳が分からない、という顔をしながらも、金をせしめることができるなら、と、その取引に応じた。
隼人は、8000円を支払い、そのゴミ同然のブーツを受け取ると、すぐにその場を離れた。
男の店から十分離れた場所で、彼は、ブーツの性能を、自分のARシステムで鑑定する。
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アイテム名: 使い古された革のブーツ
種別: 足装備
装備レベル: 1~
効果: 移動速度 +8%
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やはりな、と隼人はほくそ笑んだ。
男が最初に提示したブーツは、確かに+5%の効果があっただろう。だが、隼人は、その横にあった、この、一見すると何の変哲もないブーツから、より強く、安定した魔力のオーラを感じ取っていたのだ。おそらく、前の持ち主が、特殊なエンチャントを施したか、あるいは、奇跡的なドロップ品だったのだろう。男は、その価値に気づかず、ただのゴミとして、そこに置いていた。
隼人は、自らの「目」の確かさに、改めて自信を深めた。
最初の、そして、最も重要なピースは手に入れた。
残りの軍資金は、二万四千円。
彼は、次に、【掟その4】に従い、残りのスロットを埋めるための「保険」を探し始めた。
彼の向かう先は、マーケットの中でも、ひときわ雑然とした一角。そこは、「ジャンク品」「ワケあり品」と書かれた札が掲げられた、巨大なゴミの山だった。
様々な探索者が、ダンジョンから持ち帰った、売り物にならないガラクタを、二束三文で、ここに捨てていくのだ。店主である、巨大な体躯の、オークのような男は、そのゴミの山を、客に自由に漁らせ、重さに応じて、わずかな金を取る、という商売をしていた。
隼人は、その、文字通りの、宝の山(あるいは、ゴミの山)へと、躊躇なく足を踏み入れた。
彼は、新品や、見た目が綺麗なものには、一切目もくれない。彼が探すのは、壊れていても、汚れていても、ほんのわずかでも、 полезный(パレーズノ)な魔法の効果が残っている、奇跡のガラクタだ。
彼は、まず、兜の山を漁り始めた。
何時間、そうしていただろうか。彼は、ついに、一つの兜を、その山の中から見つけ出した。
それは、ひどく錆びつき、額の部分には、大きな剣の傷が残っている、見るからに縁起の悪い鉄の兜。だが、その内側には、前の持ち主が刻んだのであろう、小さな守りのルーン文字が、かろうじて残っていた。
彼は、それを、他のガラクタ数個と合わせて、店主の元へ持っていく。店主は、無愛想に、それらを秤に乗せると、「はい、3000円」とだけ言った。
隼人は、黙って金を支払い、兜を手に入れる。鑑定結果は、彼の予想通りだった。
【傷だらけの鉄兜】HP+20
次に、彼は、胴装備の山を漁る。
そこで彼が見つけたのは、一部が、ドラゴンのブレスか何かで、黒く炭化してしまっている、革の胸当てだった。ほとんどの部分は、ボロボロで、防御力など期待できない。
だが、隼人は、その胸当てに、ごく微かな、火の属性に対する抵抗の魔力が、宿っているのを感じ取っていた。おそらく、高レベルの探索者が、火竜と戦うために、特殊な耐火処理を施したのだろう。その効果が、奇跡的に、ほんのわずかだけ、残っていたのだ。
彼は、それを、4000円で手に入れた。
【焼け焦げた胸当て】火耐性+5%
最後に、彼は、最も時間のかかる、アクセサリーの探索へと移った。
指輪、首輪。これらの小さな装飾品は、時に、強力な効果を秘めている。だが、このゴミの山の中から、有用なものを探し出すのは、砂金を探すような、途方もない作業だった。
彼は、残りの予算、一万円を、この三つのスロットに全て投入することを決めていた。
彼は、自分のステータスを、改めて確認する。左腕の【万象の守り】のおかげで、全属性耐性は、すでに+25%という、破格の数値になっている。だが、それでも、上限の75%には、まだ遠い。
そして、特に、このゴブリンの洞窟の、さらに奥にいるであろう、シャーマンが使ってきた、火以外の魔法。あるいは、今後、別のダンジョンに挑むことになった場合、氷や、雷といった、別の属性攻撃に、どう対応するか。
彼は、ただHPが上がるだけの指輪や、筋力が少しだけ上がる首輪には、目もくれなかった。
彼が探すのは、ただ一点。自分の弱点である、「氷耐性」と「雷耐性」を、たとえ1%でもいい、補強してくれる、地味なアクセサリー。
彼の、執念とも言える探索が始まった。
彼は、何百、何千という、ガラクタの指輪や首輪を、一つ一つ、その手に取り、自らの感覚を研ぎ澄ませて、そこに宿る魔力を感じ取っていく。
その集中力は、もはや、常軌を逸していた。雀荘で、全ての牌の行方を記憶し、相手の呼吸すら読み切る、あの時の彼と同じだった。
そして、陽が傾きかけた頃、彼は、ついに、三つの、奇跡のかけらを見つけ出した。
一つは、少しだけひんやりとした感触のする、銀の指輪。
【氷結した指輪(劣化版)】氷耐性+4%
一つは、静電気を帯びているのか、時折、微かに指先が痺れる、銅の指輪。
【帯電した指輪(劣化版)】雷耐性+3%
そして、最後に、ただの、何の変哲もない、革の紐に、小さな獣の牙が一つだけついた、原始的な首輪。だが、その牙には、持ち主の生命力を、わずかに高める、古の呪い(まじない)が込められていた。
【獣の牙の首輪】HP+30
彼は、これら三つのアクセサリーを、予算ぴったりの、一万円で手に入れた。
振り返れば、彼のプライベートな「仕入れ」は、数時間にも及んでいた。
この間、彼は、一度も配信をつけていない。
これは、観客に見せるための「ショー」ではない。ショーを成功させるための、舞台裏の、地味で、孤独な「準備」だ。マジシャンが、そのトリックの仕込みを、決して観客に見せないのと同じように。
彼は、自らの手の内を、不特定多数のライバルたちに、見せる必要など、全くないと考えていた。
ポケットの中の軍資金は、残り数千円。
だが、彼のインベントリは、みすぼらしいが、しかし、確かな力を持つ、「保険」のパーツで、埋め尽くされていた。
残る、最後のピースは、一つ。
彼の、新たな「牙」となる、武器だった。