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第156話

 西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を、淡く照らしている。時刻は深夜一時を少し回ったところ。神崎隼人――“JOKER”の殺風景な自室は、数時間前に届いたばかりの新たな相棒、【静寂の王】が放つ控えめな白いバックライトだけで照らされていた。以前のオンボロPCが断末魔を上げてから三日。視聴者たちと選んだこの新しい心臓は、その名の通り、絶対的な静寂の中で、これから始まる大一番を静かに見守っている。


「……さて、と。始めっか」


 彼はワイヤレスイヤホンから流れるミニマル・ミュージックの反復音に意識を沈めながら、マイクのスイッチを入れた。その瞬間、配信画面の向こう側、数万の人間が見守るコメント欄が、堰を切ったように動き出す。今日の配信タイトルは、【最終決戦】A級攻略、最後のピース。この日のために、彼と視聴者たちは、この一ヶ月という時間を共有してきた。


『キターーーーー!』

『ついにこの日が来たか!』

『JOKER!今日は絶対落とせよ!』

『俺のスパチャ、ちゃんと軍資金になってんだろうな!w』

『今日の主役は、あの指輪だもんな!』


 画面に殺到する、熱狂的なコメントの波。彼は、その光景に苦笑しながら、気だるい声で応えた。


「ああ、分かってる。今日が、その日だ。……長かったようで、短かったな、この一ヶ月」


 彼は、画面の片隅に、ここ一ヶ月の彼の収支グラフを映し出した。A級下位ダンジョン【星霜の書庫】を、ただひたすらに周回し続けた、血反吐が出るほど単調な作業の記録。ユニークブーツ【残響の歩み】の売却益で大きく跳ね上がった資産が、その後、緩やかな、しかし確実な右肩上がりで目標金額へと近づいていく。そのグラフには、おびただしい数のスパチャのログが、支援の光として降り注いでいた。


「お前らのおかげで、どうにか間に合った。今日のオークション、この【原初の調和】を落とすためのテーブルに、やっと着くことができる」


 彼はメインモニターに、SeekerNetの公式オークションハウスのページを最大化して映し出した。黄金の枠で囲まれ、特別な輝きを放つ一つの指輪。コメント欄の誰もが知っている、この一ヶ月の彼の金策の、唯一にして絶対の目標。


 名前: 【原初の調和】


 装備条件: レベル40


 性能:


 HP+200


 MP+50


【元素の盾】のMP予約コストを100%減少させる


【元素の盾】を使用している間、あなたのダメージが10%増加する


 彼は、左手の指にはめられた、一つの古びた指輪をARカメラにアップで見せた。


「こいつが、今の俺の相棒、【元素の円環】。こいつのおかげで、【元素の盾】……俺の防御の要である、全属性耐性+34%のオーラを、MP予約コストゼロで使えてる。こいつがなきゃ、俺はとっくにA級で死んでた。最高のユーティリティリングだ」


 彼は、その功労者である指輪を、どこか名残惜しそうに撫でた。


「だが、こいつには限界がある。こいつが補強してくれるのは、MP効率だけ。火力も、HPも、何も上がらない。A級下位で、ただ生き残るためだけの装備だ。……だが、俺が目指してるのは、その先だ」


 彼は、オークション画面の【原初の調和】にカーソルを合わせた。


「見ての通り、【原初の調和】は、【元素の円環】が持つMP予約コスト減少の効果を完全に内包している。その上で、HP+200、そしてダメージ10%増加。これは、単なる乗り換えじゃねえ。『最適化』だ。守りのための指輪スロット一つを、守りも、耐久力も、そして火力も担う、万能のスロットに変える。この指輪一つで、俺のビルドは、全く新しい次元に移行する」


 彼の解説に、コメント欄の有識者たちが、興奮気味に同意の声を上げる。


『そうだ、それなんだよな。スロット効率が段違い』

『HP200とダメージ10%は、他の装備で稼ごうとしたら、とんでもない金がかかる』

『まさにA級中位への片道切符!』

『問題は値段だ…。海外の富豪ギルドが絶対に参加してくるぞ…』


 彼は、オークション画面の現在価格を指し示した。そこには、彼らの覚悟を試すかのような、無慈悲な数字が冷たく輝いていた。


【現在価格:28,500,000円】


【残り時間:5分】


「全財産、3600万。……まあ、足りるだろ」


 彼は乾いた笑みを浮かべた。だが、瞳の奥の炎は、この極限のギャンブルを前に、より一層強く燃え上がっていた。


「お前らの気持ちも、この軍資金に乗ってる。……負けるわけにはいかねえな」


 残り時間が3分を切ったところで、それまで静かだった入札履歴に、新たな動きがあった。


【入札者:Guild_Odin_Asset】

【入札額:30,000,000円】


『うわあああああ!やっぱり来た!』

『オーディン!マジかよ!』

『JOKERさん、やばいぞ!ギルドの資産力相手じゃ、勝ち目がない!』


 コメント欄が悲鳴に似た声で埋め尽くされる。ギルド・オーディン。S級探索者を複数抱える、世界でも指折りのトップギルド。彼は、その名前を睨みつけながら、静かに呟いた。


「……上等じゃねえか。相手が誰だろうと、やることは変わんねえ」


 彼は、入札額の入力欄に、静かに、しかし迷いのない指つきで、数字を打ち込んだ。


【入札者:JOKER】

【入札額:32,000,000円】


 残り時間は、1分を切っている。

 数十秒の、息が詰まるような沈黙。

 勝ったか?諦めたか?

 そう思った、まさにその瞬間。無情にも、再び入札の通知が画面を揺らした。


【入札者:Guild_Odin_Asset】

【入札額:33,000,000円】


『ああああああああ!』

『まだ来るか!しつこい!』

『JOKERさん、もう無理だ!今回は引こう!』

『そうだ、賢明な判断も大事だ!』


 視聴者たちの声は、もっともだった。だが、彼の心は、もう決まっていた。


「……ギャンブラーはな、降り時を間違えたら、死ぬんだよ」


 彼は、入力欄に、彼の、そして彼ら視聴者の覚悟の全てを叩き込んだ。


【入札者:JOKER】

【入札額:35,000,000円】


 残り時間、10秒。

 これが、彼が出せる最後の金額。


 9。8。7。

 コメント欄が、祈るような言葉で埋め尽くされる。

 6。5。4。

 オーディンの名前は、もう動かない。

 3。2。1。

 ――ゼロ。


 画面に、高らかなファンファーレと共に、「落札」の文字が踊った。


【【原初の調和】は、JOKER様によって35,000,000円で落札されました】


「…………っっっっしゃあああああ!」


 彼は、椅子から転げ落ちそうなほどの勢いで、天に拳を突き上げた。声にならない雄叫びが、喉から漏れる。全身の力が抜け、どっと疲労が押し寄せてくる。背中は、汗でびっしょりだった。


『うおおおおおおおおおおおおおおおおお!』

『勝った!勝った!JOKERがオーディンに勝った!』

『歴史的瞬間だ!個人の夢が、ギルドの資産に勝ったんだ!』

『3500万!漢を見せたな!』

『おめでとう!俺たちのスパチャが無駄にならなかった!』


 コメント欄が、祝福と熱狂の嵐で爆発していた。彼は、その光景をぼんやりと眺めながら、荒い呼吸を整えていた。


「……はぁ……はぁ……。見ての通りだ。勝ったぞ、お前ら」


 彼は、インベントリに転送されてきた指輪を、震える指で取り出した。そして、これまで世話になった【元素の円環】を外し、そっとインベントリの奥にしまう。


「今まで、ありがとな。お前は、最高の相棒だった」


 そして、空いた左手の薬指に、ゆっくりと【原初の調和】をはめる。指輪が、彼の魔力に反応するかのように、淡い光を放った。ステータス画面に表示される、圧倒的な性能向上。


「痛すぎる出費だ……。だが、後悔はねえ」


 彼は、満足げに頷くと、カメラの向こうの観客たちに、不敵な笑みを向けた。


「試金石だ。俺の必殺技、4連撃で敵が4割残るようなら、よし。合格ラインだ。それ以上体力が残るようなら、まだ中位は早い。素直にA級下位を周回して、地力を上げる。次回の配信を楽しみにしてろよ?A級中位ダンジョン、【機鋼の都、クロノポリス】で、この新しい力のデビュー戦を見せてやる」


 その宣言に、コメント欄は、今日一番の盛り上がりを見せた。


『うおおおおお!次回、A級中位確定!』

『クロノポリス!絶対見る!』

『ついに……ついにJOKERがA級中位に……!』


 そんな興奮に満ちたコメントの中に、いくつか、懐かしい名前が並んでいるのに、彼は気づいた。それは、彼がまだF級やE級で、日銭を稼ぐのに必死だった頃から、ずっとこのチャンネルを見守ってくれている、古参の視聴者たちだった。


『JOKERさん、本当に大きくなったな…。F級の頃、ゴブリン相手に苦戦してたのが、昨日のことのようだぜ…』

『分かる。あの頃から、俺はこいつがS級になるって信じてた』

『感慨深いな。この指輪を買うために、この一ヶ月、みんなで応援してきた甲斐があった』

『まあ、なんだ。俺がJOKERを育てた、と言っても過言ではないな』


 最後のコメントに、他の古参たちも「それな」「間違いない」と同意し、一種の「後方彼氏面」のような、温かい空気が生まれていた。


 その、あまりにも親バカならぬ、視聴者バカなコメントの数々。

 それを見た瞬間、彼は、思わず吹き出してしまった。

 いつも浮かべている、ポーカーフェイスの仮面が、一瞬だけ剥がれ落ちる。


「……ははっ、ははははっ!」


 マイクが拾っているのも忘れて、彼は腹を抱えて笑った。

 育てた、ね。彼は、そう思いながら笑う。言ってくれる。


「……ああ、そうだよ。お前らが育てたんだ」


 彼は、照れ隠しのように、しかし、心の底からの本音を口にした。


「だから、これからも見とけよ。俺が、世界の頂点に立つところをな」


 その言葉を最後に、彼は配信終了のボタンを押した。

 静寂を取り戻した部屋で、彼は改めて、指にはめられた【原初の調和】を眺める。その輝きは、まるで、これから始まる新たな戦いを、祝福しているかのようだった。


 A級中位。

 世界のトップランカーたちがしのぎを削る、本物の戦場。

 最高のテーブルが、彼を待っている。



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