第154話
その日、彼の戦いはダンジョンではなく、西新宿の殺風景な自室で、あまりにも唐突に、そして静かに終わりを告げた。
彼の長年の相棒が、死んだのだ。
ブツンという、情けない音。
そして、目の前のモニターに映し出されていたSeekerNetの膨大な情報の海が、永遠の闇へと沈んでいった。
後に残されたのは、無機質なファンの回転音が止まった絶対的な静寂と、そして画面に映り込んだ彼の間の抜けた顔だけだった。
「……………は?」
彼は、数秒間、その現実を理解できなかった。
電源ボタンを押す。反応はない。
ケーブルを抜き差しする。意味はない。
筐体を軽く叩いてみる。ただ、虚しい音が部屋に響くだけ。
何度試しても、彼の愛機…高校を中退する前、なけなしのバイト代をはたいて買ったこの旧式のデスクトップパソコンが、再びその魂の灯火を宿すことはなかった。
10年近く、彼の孤独な戦いを、文句一つ言わずに支え続けてくれた、唯一無二の相棒。
そのあまりにも、あっけない最期だった。
「…クソがっ」
彼の口から、心の底からの悪態が漏れた。
それは、怒りというよりは、むしろ長年連れ添った友を失ったかのような、純粋な喪失感だった。
このPCがなければ、彼は戦えない。
ダンジョンの情報を集めることも、マーケットのトレンドを分析することも、ままならない。
腕をもがれたようなものだ。
いや、それ以上に、脳を半分抉り取られたような、絶対的な無力感。
彼は、深く、そして重いため息をつくと、観念して自らのスマートフォンを取り出した。
そして、その小さな画面で、配信アプリを起動させる。
これは、ショーだ。
彼のこの惨めな敗北すらも、エンターテイメントに変えてやる。
それが、プロのギャンブラーとしての、彼の流儀だった。
配信のタイトルは、シンプルに、そしてどこまでも感傷的に。
『【緊急配信】相棒が死んだ。新しいPC、お前らと選ぶ』
そのあまりにもドラマチックなタイトル。
それが公開された瞬間、彼のチャンネルには、通知を待ち構えていた数万人の観客たちが、津波のように殺到した。
コメント欄は、彼のその唐突な悲劇に、困惑と、そして温かい(あるいは面白がっている)声で、埋め尽くされていく。
『え!?相棒って誰!?』
『まさかJOKERさんに仲間がいたのか!?』
『いや待て、サムネがPCじゃねえかwww』
『PCが死んだだけで、このタイトルwww JOKERさん、大げさすぎだろwww』
『でも、分かる。PCは、男のロマンであり、相棒だからな…。南無三…』
その熱狂をBGMに、彼はスマートフォンのインカメラで、沈黙した相棒の亡骸と、途方に暮れた自分の顔を映し出した。
「…よう、お前ら」
彼の声は、自分でも驚くほど、弱々しかった。
「見ての通りだ。こいつが、逝っちまった。10年、俺の無茶な使い方によく耐えてくれた。最高のダチだったよ」
彼のそのあまりにもわざとらしい追悼の言葉。
それに、コメント欄が爆笑の渦に包まれる。
だが、その笑いの奥に、彼らの温かい同情があることを、彼は知っていた。
「…笑い事じゃねえんだよ」
彼は、本気でそう言った。
「こいつがなけりゃ、俺は情報収集ができねえ。SeekerNetの深淵にダイブすることも、オークションハウスのトレンドを読むこともできねえ。つまり、次のギャンブルのテーブルに座ることすら、できねえってことだ。俺は今、丸裸で戦場のど真ん中に立たされてる」
その彼の切実な訴え。
それに、コメント欄の空気が、少しだけ真剣なものへと変わっていった。
『なるほど…。JOKERさんにとって、PCはただの道具じゃなくて、武器であり、防具でもあるわけか…』
『確かに、情報収集できなきゃ、今の時代のダンジョン攻略は無理ゲーだもんな…』
『分かった!JOKERさん!俺たちに、任せろ!』
『そうだ!俺たちが、JOKERさんの新しい最高の相棒を選んでやる!』
そのあまりにも心強い声援。
それに、彼は少しだけ救われたような気持ちになった。
「…はっ。言ってくれるじゃねえか」
「じゃあ、頼むぜ、お前ら。俺の新しい心臓を、一緒に選んでくれ」
彼は、そう言うと、スマートフォンの小さな画面で、いくつかのPC専門店のサイトを開いた。
そこに表示されたのは、彼がこれまで見たこともないような、神々の領域の戦闘機械たちだった。
◇
「まず、候補はこれだな」
彼が最初に画面に映し出したのは、まるで宇宙船のような流線型のフォルムを持つ、漆黒のゲーミングPCだった。
その筐体は、七色のLEDで妖しく輝き、その内部には、最新鋭のグラフィックボードと水冷式の巨大な冷却ファンが、その存在を主張している。
価格は、150万円。
『うおおおおお!かっけええええ!』
『これだろ!JOKERさんの新しい相棒は、これしかねえ!』
『RGBでピカピカ光るやつ!男のロマンだ!』
コメント欄のミーハーな連中が、興奮気味にそう叫ぶ。
だが、その熱狂に冷や水を浴びせる冷静な声があった。
やはり、あの男だった。
ハクスラ廃人
待て待て、素人が。見た目に、騙されるんじゃねえ。
確かに、GPUは最高レベルだ。だが、よく見ろ。CPUが、一世代古い。メモリのクロック数も、平凡だ。
こいつは、見た目だけを気にするミーハー向けの、典型的な「なんちゃってハイスペックPC」だ。
JOKER、お前が求めてるのは、綺麗な映像でゲームをすることじゃねえだろ?
膨大なデータを、瞬時に処理する計算能力のはずだ。
こいつは違う。パスだ。
そのあまりにも的確な分析。
彼は、静かに頷いた。
「…なるほどな。参考になる」
次に彼が画面に映し出したのは、それとは対照的な、一台のPCだった。
それは、何の飾りもない、ただの無骨な黒い鉄の箱。
だが、その内部に詰め込まれたパーツのリストは、もはや狂気の領域だった。
最新世代の最上位CPU。
テラバイト級の超高速SSD。
そして、サーバー用と見紛うほどの大容量のメモリ。
価格は、300万円。
今度は、あのギルドの旦那が口を開いた。
元ギルドマン@戦士一筋
うむ。こいつは、間違いなくプロの仕事だ。
完全に、実用性だけを追求した、本物のワークステーション。
これなら、SeekerNetの全ての過去ログを、数秒でインデックス化することも可能だろう。
だが、JOKER。お前にとって、これは少しオーバースペックかもしれん。
そして何よりも、この無骨なデザイン。お前の「ショー」の相棒としては、少し華がなさすぎるんじゃないか?
そのプロデューサーのような視点。
それに、彼は思わず苦笑した。
確かに、こいつは強すぎる。そして、地味すぎる。
彼が求めているのは、その中間。
性能と、そして彼の相棒としての「物語性」。
その両方を満たす一台。
彼は、視聴者たちの喧々囂々の議論をBGMにしながら、何十というサイトを渡り歩いた。
そして、彼はついに、それと出会った。
それは、あるBTO(受注生産)メーカーのサイトの片隅に、ひっそりと掲載されていた、一台のカスタムモデルだった。
その筐体は、シンプルだった。
磨き上げられた、黒い一枚のアルミ削り出し。
余計な装飾は、一切ない。
だが、その静かな佇まいには、絶対的な自信と、そして機能美が宿っていた。
そのスペックは、彼が求める全てを満たしていた。
高速なCPUと、大容量のメモリ。
そして、4Kの高精細な映像を滑らかに映し出す、十分すぎる性能のGPU。
何よりも、彼の心を掴んだのは、そのコンセプトだった。
『静寂の王:最高のパフォーマンスを、最も静かな環境で。プロフェッショナルのための、沈黙の仕事道具』
「…これだ」
彼の口から、確信に満ちた声が漏れた。
これこそが、彼の新しい相棒にふさわしい。
静かで、クールで、しかしその内側には、全てを蹂躙する圧倒的な力を秘めている。
まるで、彼自身のように。
その価格は、250万円。
決して安くはない。
だが、彼は一秒も迷わなかった。
これは、未来への投資だ。
彼は、その場で購入ボタンを押した。
そして、カスタマイズオプションの画面で、彼は一つだけ、追加のパーツをカートに入れた。
それは、最高の性能を誇るサウンドカードだった。
彼のもう一つの大切な趣味。
音楽を、最高の音質で楽しむための、ささやかな贅沢。
『おおおおおお!買った!』
『決断はえええええ!』
『静寂の王!名前もかっけええええ!』
『サウンドカード追加は草www JOKERさん、やっぱ分かってるわwww』
コメント欄が、この日一番の熱狂に包まれる。
彼は、その声援に満足げに頷くと、最後にこう締めくくった。
「サンキューな、お前ら」
「最高の相棒が、見つかったぜ」
彼の新たな伝説は、この新しい心臓と共に、また加速していく。
その確かな予感が、彼の胸を熱くさせていた。