第153話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を、淡く照らしている。
時刻は、深夜2時を回ったところ。
神崎隼人、またの名をJOKERは、A級ダンジョン【星霜の書庫】でのその日の「作業」を終え、疲労困憊の体で、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
手元には、ぬるくなった缶コーヒー。
モニターには、特に目的もなく開いたままの、SeekerNetのトップページ。
今日の稼ぎは、上々だった。魔石といくつかの高価なレア素材を合わせて、日給にして80万円近く。目標である【原初の調和】の購入資金も、残り1000万円を切った。
あと十数日。
この単調な、しかし確実な作業を繰り返せば、彼はまた一つ、新たな力を手に入れることができる。
分かっている。
分かっては、いるのだ。
だが、そのあまりにも遠く、そして退屈な道のり。
それが、彼のギャンブラーとしての魂を、少しずつ、しかし確実に蝕んでいた。
「…はぁ」
彼の口から、深いため息が漏れた。
眠い。
だが、眠れない。
肉体は休息を求めているのに、脳だけが妙に冴え渡って、次なるスリルを、未知なるテーブルを、渇望している。
そんなアンバランスな感覚。
それに、苛立ちを覚えていた、まさにその時だった。
ピロリン♪
静まり返った部屋に、間の抜けた電子音が響き渡った。
彼のスマートフォンが、着信を告げている。
(こんな時間に、誰だ?)
雫さんか?いや、あの真面目なギルド職員が、こんな夜更けに連絡してくるはずがない。
詩織さんか?あの人も、マイペースではあるが、常識はわきまえているだろう。
彼は、眉をひそめながらスマートフォンの画面を手に取った。
そこに表示されていたのは、非通知設定。
だが、その番号には見覚えがあった。
いや、違う。
見覚えがあるのは、その番号に紐付けられた、一つの名前。
『冬月 祈』
その三文字を見た瞬間、彼の眠気は、確かに少しだけ後退した。
断罪の聖女。
S級冒険者。
そして、彼がこの世界で出会った、最も理解不能な「怪物」。
あのA級ダンジョンでの奇妙な出会い。そして、半ば強引に交換させられた連絡先。
それ以来、彼女から連絡が来ることは、一度もなかった。
それが、なぜ今?
彼は、一瞬だけ躊躇した。
この電話に出るべきか、出ないべきか。
彼のギャンブラーとしての直感が、告げていた。
この電話は、面倒なことになると。
だが、同時にその直感は、こうも囁いていた。
この電話の向こう側には、彼が今最も求めている「退屈しのぎ」が、あるかもしれないと。
彼は、やれやれと肩をすくめると、観念して通話ボタンをスライドさせた。
「…もしもし」
彼の気だるい声。
それに、数秒の沈黙の後、電話の向こうから鈴を転がすような、しかしどこまでも感情の読めない、静かなソプラノの声が返ってきた。
『……もしもし。夜分に申し訳ありません、JOKERさん』
「…ああ。で、何の用だ?こんな時間に。俺は、もう寝るところだったんだが」
『…その事ですの』
彼女は、そう言うと、少しだけ言い淀むように言葉を続けた。
その声は、いつもよりもどこか、か細く聞こえた。
『…わたくし、眠れなくて』
「は?」
彼は、思わず素っ頓狂な声を上げた。
眠れない?
このS級の怪物が?
一体、何を言っているんだ。
『ええ。それで、困っておりまして…』
『最近、巷で流行っていると、詩織から聞いたのですけれど』
彼女は、そこで一度言葉を切った。
そして、そのあまりにも場違いな、そして破壊力のある一言を告げた。
『――わたくしと、寝落ちもちもちしていただけませんこと?』
「……………は?」
彼の思考が、完全にフリーズした。
(今、この女はなんと言った?)
ねおちもちもち?
なんだ、それは。呪文か?新しいデバフか?
彼が、その未知の単語の意味を必死に脳内で検索している、その間にも。
彼女は、淡々と続けた。
『詩織が言うには、眠れない夜に誰かと通話を繋いだまま眠りにつく。そうすると、安心してよく眠れると』
『それを、最近の若者は「寝落ち通話」と呼ぶそうですわ』
『そして、その様をより愛らしく表現した言葉が、「寝落ちもちもち」であると』
「……………」
彼は、もう何も言えなかった。
ただ、天を仰ぐ。
この女は、本気で言っているのか。
あのS級の、断罪の聖女が。
この俺に、寝るまで子守唄でも歌ってくれと言っているのか。
彼は、深い、深いため息をついた。
そして、呆れ果てた声で答えるしかなかった。
「…あんた、俺をなんだと思ってるんだ…」
『あら。わたくしの、初めてのお友達ですわよ?』
そのあまりにも純粋で、悪意のない一言。
それに、彼は全ての抵抗を諦めた。
「…はぁ。分かった、分かったよ。少しだけだぞ。少しだけ、下らない話に付き合ってやる」
『まあ。ありがとうございます。嬉しいですわ』
電話の向こうで、彼女がほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだような気がした。
そこから、彼の人生で最も奇妙な時間が始まった。
彼らは、下らない話をした。
本当に、下らない話だ。
彼女は、最近読んだという難解な哲学書の話を、延々と続けた。カントがどうだとか、ニーチェがどうだとか。彼には、その内容の一割も理解できなかった。
彼は、最近見たB級ホラー映画の話をした。陳腐な脚本と大根役者の演技について、文句を垂れた。彼女は、それに一切の興味を示さなかった。
気まずい沈黙。
その沈黙を埋めるように、彼はふと思いついた、最近の彼の最大の悩みを口にしていた。
「…そういや、あんたはどう思う?」
「最近、A級の装備がやけに高騰してるだろう」
「雫さんが言うにはな、海外のバイヤーや冒険者が、日本のマーケットで高値で買い漁ってるのが原因らしい。なんでも、日本が『ダンジョン先進国』だからとか」
彼は、そこで一度言葉を切った。
そして、あの世界を揺るがした大事件について、触れた。
「それに拍車をかけてるのが、あの【若返りの薬】の一件だってさ。あれが日本で出たせいで、『次の奇跡も日本で』みたいな、根拠のねえ憶測が広がって、海外の連中が殺到してるんだと」
「まあ、迷惑な話だよな。こっちとしちゃ、欲しい装備がどんどん高くなる一方だ」
彼のその軽い愚痴。
それに、電話の向こうの彼女は、数秒間沈黙した。
そして彼女は、静かにこう言った。
その声は、いつも通りの平坦なソプラノ。
だが、その言葉が持つ意味。
それに、彼の眠気は完全に吹き飛んだ。
「――あら。それは、悪かったですわね」
「わたくし、ただ不要だったから、さっさと売ろうと思っただけですのに」
「……………は?」
彼の思考が、再びフリーズする。
(今、この女はなんと言った?)
(不要だったから、売ろうと思った?何を?)
まさか。
いや、そんなはずはない。
「…おい、どういう意味だ、それは」
彼の声が、震えていた。
それに彼女は、心底不思議そうに答えた。
その声は、どこまでも純粋だった。
「あら、言葉の通りですわ」
「あの【若返りの薬】をドロップさせたのは、わたくしですもの」
「それで、SeekerNetでは『SSS級に昇格するためだ』なんて書かれていましたけれど。わたくし、そんなものには一切興味ありませんの」
「ただ、わたくしにとっては全く不要な物でしたから。インベントリを圧迫するのも面倒ですし。だから、さっさと売ろうと思っただけですわ」
静寂。
部屋の全ての音が、消えた。
彼は、ただ言葉を失っていた。
10兆円。
世界の全てが渇望した、奇跡の霊薬。
それが、この女にとってはただの「不要」で「面倒」なガラクタだったと。
そのあまりにも絶対的で、そして理解不能な価値観の断絶。
それに、彼はもはや驚きを通り越して、ある種の畏怖の念を抱いていた。
「…おおい…。その話、他に誰かにしたのか…?」
彼がようやく絞り出したのは、そんな間抜けな質問だった。
「いいえ?」
彼女は、不思議そうに答える。
「話相手なんて、いませんもの。あなたと、詩織と、雫くらいしか」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
そして、その声がほんの少しだけ寂しそうに、震えた。
「…いやだわ。なんだか、自分で言ってて悲しくなってきました…」
その初めて見せた、彼女の弱さ。
それに、彼は思わず言葉を返していた。
それは、慰めというにはあまりにも不器用な言葉だった。
「…いや、まあ、俺も似たようなもんだよ」
「祈と、詩織と、雫と、あとは妹。それ以外とは、連絡も取らねえしな…」
そうだ。
彼も、孤独だ。
だから、彼女の気持ちも、少しだけ分かる。
そんな彼なりの、精一杯の慰め。
だが、その言葉に対する彼女の返答。
それが、この日の最後の、そして最大の追い打ちとなった。
電話の向こうで、彼女は少しだけ間を置いて、そしてこう言ったのだ。
その声は、どこまでも真剣だった。
「…そうですの」
「では、やはりわたくしの負けですわね」
「――あなたには、わたくしより1人も多いのですから」
ちゃんちゃん。
彼の孤独な夜は、この理解不能なS級の聖女によって、完璧に、そして奇妙な形でかき乱されていくのだった。