第152話
その日の午後。
隼人は、その新たな「賭け金」を手に、もはや彼の第二のホームとも言えるあの場所へと向かった。
新宿のギルド本部ビル。
その一階にある、関東探索者統括ギルド公認、新宿第一換金所。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れたカウンターへと向かう。
彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンだった。
彼は、その視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!今日の配信、拝見しましたよ!また、とんでもないものをドロップされたのですね!」
その声は、弾んでいた。彼の幸運を、自分のことのように喜んでくれているのが伝わってくる。
「…まあな」
隼人は、ぶっきらぼうにそう答えながら、インベントリから今日の成果である大量の魔石と、そしてあのユニークブーツ【残響の歩み】を、カウンターのトレイの上に置いた。
「魔石の換金と、こいつの出品を頼む」
雫は、そのブーツが放つ確かな魔力に、プロの顔つきで息を呑んだ。
「…【残響の歩み】ですか。これは、素晴らしい一品ですね」
彼女は、そのブーツを丁寧に鑑定機へとかけていく。
その鑑定を待つ、わずかな時間。
それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。
「確かに、これは優秀なユニークです」
雫は、鑑定機のモニターに表示された詳細な性能を確認しながら、語り始めた。
「高い回避力とHP、そして全属性耐性。移動速度も申し分ない。そして何より、この『エコー』のバフ。高速周回を信条とする盗賊系ビルドの方にとっては、まさに喉から手が出るほど欲しい性能でしょう。装備条件から考えても、レベル40代、あるいは少し下の盗賊の方々が、こぞって欲しがるはずです」
「ああ」
隼人は、頷いた。
「コメント欄の有識者も、同じようなことを言ってたな。2000万円は堅いと。だから、オークションの開始価格も2000万円に設定してくれ」
彼のそのあまりにも強気な価格設定。
それに、雫は少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに深く頷いた。
そして彼女は、一つの驚くべき予測を口にした。
「承知いたしました。ですが、JOKERさん。おそらく、その価格からさらに500万円は跳ね上がると思いますよ」
「…ほう?」
隼人の眉が、わずかに動いた。
「なぜそう思う?」
「ここ最近、A級以上の装備品の価格高騰が、異常なんです」
雫の声のトーンが、変わる。
それは、ただの市場分析ではない。
この世界の巨大なうねりを、その最前線で見つめてきた者だけが持つことのできる、確かな実感とわずかな憂いを帯びていた。
「それだけ、注目が集まっているということですね。日本の探索者市場に」
「JOKERさん、ご存知ですか?基本的に、ギルドの公式マーケットやオークションを利用できるのは、日本の探索者ライセンスを持つ者だけです。ですが、ルールにはいつだって抜け道がある」
彼女は、ARウィンドウを操作し、一枚の世界地図を表示させた。
そこには、各国のギルド勢力と主要なダンジョンの分布が、リアルタイムでマッピングされている。
「ここ数ヶ月、特に顕著なのですが…。海外のバイヤーや有力な冒険者たちが、日本の商社や個人を代理人として立て、我々のマーケットで装備品を買い漁っているのです」
「…なるほどな。それで、需要と供給のバランスが崩れていると」
「はい。その通りです。そして、その背景には、この10年で完全に固定化されてしまった、世界のパワーバランスが大きく関係しています」
彼女は、地図の上の二つの国をハイライトした。
日本とアメリカ。
「ダンジョンが世界に出現して10年。多くの国が、それを未知の災害として、その対応に後れを取りました。ですが、日本とアメリカだけは違った。両国は、ほぼ初期の段階でダンジョンを新たな『資源』と判断し、国家レベルでその開発と探索者の育成に、莫大な投資を行ったのです」
「その結果、どうなったか。この二つの国は、世界の他の国々に対して、『1年』ほどの、しかし決定的な『経験の差』を持つ、『ダンジョン先進国』となりました」
そのあまりにもリアルで、そして説得力のある地政学的な分析。
隼人は、ただ黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「特に、日本のマーケットは、世界でも類を見ないほどの、特異な環境にあります」
「世界最大の過密都市である東京に、A級、B級といった価値の高いダンジョンが、異常なまでに集中している。その結果、日本の探索者人口は100万人を超え、世界で最も熾烈な競争環境が生まれました」
「その競争が、日本のプレイヤーたちのレベルを嫌でも引き上げ、常に世界の最先端を行く、独創的なビルドや戦術を生み出す土壌となっているのです」
「だから、海外の冒険者たちは日本に来る。中国や韓国といった近隣諸国のトッププレイヤーたちは、より高いレベルの戦いを求めて、日常的に『遠征』しに来ます。そして、アメリカのプロギルドに所属する冒険者たちもまた、日本の最先端のメタゲームを研究するため、積極的に日本で冒険者活動をされているのです」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
そして、その瞳にわずかな、しかし確かな熱狂の色を宿して、続けた。
その声は、もはやギルド職員のそれではない。
この世界の大きなうねりの中心にいる、一人の当事者のそれだった。
「そして、その熱狂に拍車をかけているのが、あの二つの『奇跡』の存在です」
「1ヶ月前に日本でドロップした【若返りの薬】。あれが、10兆円という天文学的な価格で落札されたというニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡りました」
「そして今、世界中のトップランカーたちの間で、一つの『憶測』が広がっています」
「――次なる奇跡【女神の涙】がドロップするのも、また日本なのではないかと」
そのあまりにも荒唐無稽な、しかしそれ故に人々を熱狂させる噂。
「その結果、今の日本には、一攫千金を夢見る世界中の冒険者たちが押し寄せて来ています。まるで、かつてのゴールドラッシュのように。…正直、私達ギルド職員も、その対応でてんてこ舞いなくらい大変なんですよ」
彼女は、そう言って困ったように、しかしどこか楽しそうに微笑んだ。
そのあまりにも壮大な、世界の経済の仕組み。
そして、自分が知らず知らずのうちに、その熱狂の中心にいたという事実。
それに、隼人はただ不敵に笑うだけだった。
「…面白い。面白いじゃねえか」
「世界の全てを敵に回して、最高のカードを奪い取ってやる。それも、悪くないギャンブルだ」
彼の瞳には、もはやA級の壁など映ってはいなかった。
その遥か先。
世界の頂点だけを、確かに見据えていた。
その時、鑑定の終了を告げる電子音が、鳴り響いた。
雫が、モニターを確認し、笑顔で告げる。
「お待たせいたしました!素晴らしい成果ですね!魔石とレアアイテム全て合わせまして、買い取り価格合計で、ちょうど150万円になります!」
その大きな金額。
だが、今の隼人の心には、もはや何の揺らぎもなかった。
彼のギャンブルのテーブルは、もはやそんな小さな単位ではないのだから。