第150話
「――わたくしの耐性は35%ですもの」
その、あまりにも平然と告げられた常識外れの数字。
彼の思考は、完全に停止した。
A級ですら75%が最低ラインの世界で、S級の、それもトップランカーであるはずの彼女が35%?
それは自殺行為を通り越して、もはやただの狂気だ。
彼の困惑を、コメント欄の視聴者たちも共有していた。
『は!?35%!?』
『嘘だろ!?B級の雑魚の攻撃でも、即死するレベルじゃねえか!』
『どうなってんだ、この人…!』
その阿鼻叫喚のコメント欄。
それを見て彼女は、こてんと不思議そうに首を傾げた。
「あら。そんなに驚くことかしら」
「わたくしのHPは最低限の600。HP自動回復は秒間200。エナジーシールドは2200ほどありますけれど」
「…それがどうした」
彼がようやく絞り出した声に、彼女は心底不思議そうな顔で続けた。
「敵は、わたくしが攻撃する前に死ぬのですから」
「そもそも、わたくしがダメージを受けるという状況自体があり得ないのです」
「防御を考慮する必要など、どこにもありませんでしょう?」
そのあまりにも絶対的で、傲慢なまでの自信。
だが、それは事実だった。
現にこのダンジョンに入ってから、彼女は一度も敵の攻撃を受けていない。
「そのエナジーシールドも」
彼女は、まるで授業をする先生のように淡々と続けた。
「防御のためではありませんの。これは、わたくしの剣を神の雷へと変えるための、ただの『燃料』ですわ」
彼女はそう言うと、自らのスキル構成のその禁断の核心部分を、いともたやすく彼に明かし始めた。
「わたくしにはスキルがあるのです。自らのエナジーシールドを半分にする代わりに、その失ったESに応じた雷ダメージを剣に付与するというスキルが」
「…ESを火力に変換するだと…?」
「ええ。そして、その圧倒的な雷ダメージを、今度はスペルダメージへと乗せるのです。これこそが、わたくしの火力の源泉」
彼女はそこで一度言葉を切った。
そして、そのガラス玉のような瞳で、彼を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には初めて、ほんのわずかな、子供のような誇らしげな色が宿っていた。
「わたくしのクリティカル率は93%。クリティカルダメージ倍率は400%を超えます」
「…そうね。例えばの話」
彼女は、彼のその目を見て微笑んだ。
その笑顔はどこまでも無垢で、そしてどこまでも残酷だった。
「――あなたの150倍の火力ですわね」
静寂。
彼の頭の中が、真っ白になった。
150倍。
それはもはや、同じ世界の同じルールの下にいるとは、到底思えない天文学的な数字。
彼がこれまで積み上げてきた全てのビルド、全ての戦術、全てのプライド。
その全てが今この瞬間に、この少女の一言で、完全に粉々に砕け散った。
彼はただ、呆然と彼女の顔を見つめることしかできなかった。
そんな彼を見て、彼女はふいと視線を逸らした。
そして、どこかつまらなそうに呟いた。
その声には、これまで感じたことのない、わずかな苛立ちと寂しさの色が滲んでいた。
「…まあ、あなたも同じですのね」
「みんな、その顔になる」
「防御なんて捨てて、潔く攻撃力に特化すればよろしいのに。この美学を理解する人間がいないのが、不服ですわ」
そのどこか子供のような、拗ねたような物言い。
それに彼は、はっと我に返った。
そして、彼の脳内で全てのピースが、一つの形へとはまった。
そうだ。
そういうことか。
彼はようやく、この「冬月 祈」という巨大なパズルの、その最後のピースを見つけ出したのだ。
彼は、ふっと息を吐き出すと、彼女に言った。
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「――なるほどな」
「あんたは、テーブルに着く前に勝負を決めるタイプか」
「例えば、そもそも勝負なんて不要だって思ってる」
その彼の分析。
それに、彼女の肩がピクリと動いた。
彼女は、驚いたように顔を上げた。
その紫色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれている。
「……………」
「…そんなこと言う人間は、初めてですわ」
「みんな、わたくしのことをただの狂人だと言うのに…」
その声は、震えていた。
初めて見せた彼女の素顔。
そのあまりにも無防備な表情。
それに彼は、少しだけ心がざわつくのを感じていた。
その奇妙な沈黙。
それを破ったのは、このダンジョンの本当の「主」だった。
彼らが話している間に、いつの間にか彼らはボス部屋へとたどり着いていたのだ。
巨大な扉の向こう側から、地響きのような咆哮が響き渡る。
彼は慌てて、長剣を構え直した。
「おい、ボスだ!来るぞ!」
「ええ、知っていますわ」
彼女はそう言うと、何事もなかったかのように、静かにその指先を扉へと向けた。
そして彼女は、たった一言だけ呟いた。
「――お浄めの時間です」
次の瞬間。
扉の向こう側で、凄まじい雷鳴が轟いた。
そして、0.000001秒後。
ボスがいたであろう場所から、経験値獲得のシステムメッセージがポップアップした。
「……………」
彼はただ、言葉を失っていた。
「さてと」
彼女は、満足げに頷いた。
「今日のお散歩は、これでおしまいですわね」
彼女はそう言うと、ドロップしたおびただしい数のアイテムの山を、一瞥した。
そして、彼に向き直る。
「PTのルールでは、ドロップ品は折半が普通らしいですわね」
「わたくし、初心者の頃に一度しかPTを組んだことがありませんけれど。それがルールなのでしょう?」
そのあまりにも純粋な問いかけ。
それに彼は、思わず笑ってしまった。
「…いらねえよ」
「俺も、これでPT組んだの二回目だしな」
その彼の言葉。
それに彼女は、初めて心の底から楽しそうに、くすくすと笑った。
その笑顔は、これまでのどんなユニークアイテムよりも眩しく、そして美しかった。
「あら」
「――私達、似た者同士ですのね」
彼女はそう言うと、自らのスマートフォンを取り出し、その画面を彼に向けた。
「よろしければ、お友達になってくださいますか?」
彼は、その申し出を断る理由がなかった。
彼らは、LINEを交換した。
「では、また」
彼女はそう言うと、その場にポータルを開いた。
そして光の渦の中へと消える、その直前。
彼女は一度だけ振り返り、彼に言った。
その声は、どこまでも穏やかだった。
「――あなたなら、S級に到達できるかもしれませんわね」
「楽しみにしています。だから、また」
その言葉を残し、彼女は消えた。
後に残されたのは、山のようなドロップアイテムと、そしてただ一人呆然と立ち尽くす彼だけだった。
「……………はっ」
やがて、彼の口から乾いた笑いが漏れた。
「面白い。面白い奴と出会えたな」
「たまには、気まぐれも悪くねえか」
彼の孤独だった戦いのスタイルが、この日を境に少しだけ変わっていくことになる。
そのことを、彼はまだ知らなかった。