第149話
その日、彼は珍しく世間で「人気」と呼ばれる狩場にいた。
A級下位ダンジョン【古代遺跡アルテミス】。
金策効率が良いことで知られ、常に多くのエリート探索者で賑わう共有エリアだ。
普段の彼なら、モンスターの奪い合いなど面倒なだけなので絶対に近寄らない。
だが、あの【原初の調和】のオークション価格を見てしまった後では、悠長なことは言っていられなかった。
「…チッ、人が多いな」
配信画面の向こうで、コメント欄がいつものように騒がしい。
彼はARカメラに映らないように、小さく舌打ちした。
通路の先で、別のパーティが派手なスキルをぶっ放しているのが見える。
彼は彼らとは逆のルートを選び、遺跡の深部へと足を進めた。
『JOKERさん、今日はガチ金策モードっすね!』
『人気の狩場とか珍しい!他のプレイヤーとの絡み期待!』
『横殴りされてブチ切れるJOKERさんはよ!w』
そんな無責任なコメントを読み流していた、その時だった。
彼は目の前の光景に、思わず足を止めた。
広大な円形の広間。
そこにはこの遺跡のモンスター…機械仕掛けのゴーレムや魔導兵士たちが、数十体はいただろうか。
そして、その群れのど真ん中を。
一人の少女が、ただゆっくりと散歩するように歩いていた。
雪のように白い、姫カットの長い髪。
黒と白を基調とした、ゴシックドレス風のローブアーマー。
その姿はあまりにも場違いで、そして幻想的だった。
彼女は武器を構えるでもなく、スキルを詠唱するでもない。
ただ、その手にした古びた本をぱらぱらと眺めながら歩いているだけ。
だが異常なのは、その周囲で起きている現象だった。
彼女が一歩、歩を進めるごとに。
その周囲を浮遊する6つの禍々しくも神々しい光の刻印が、自動でゴーレムたちに吸い寄せられていく。
そして5秒後。
彼女がその場所を通り過ぎる頃には、背後で静かな、しかし絶対的な破滅の雷が炸裂し、ゴーレムの群れが一瞬で光の粒子へと変わっていく。
「…………なんだ、あれは」
彼の口から、素直な驚愕の声が漏れた。
戦闘ではない。
蹂躙ですらない。
それはもはや、ただの「現象」だった。
そのあまりにも異様な光景に、コメント欄がこれまでにない速度で爆発した。
『は!?』
『なんだ今の!?一体、何が起きた!?』
『おい、今の見たか!?あの女の子、何もしてねえぞ!?』
『待て待て待て!あの白い髪、あのゴスロリ装備…まさか…!』
そしてやはり、あの有識者たちがその答えを戦慄と共に書き込んだ。
元ギルドマン@戦士一筋
…嘘だろ。なぜ彼女がこんな場所に…。
間違いない。S級冒険者『断罪の聖女』、冬月 祈だ。
ハクスラ廃人
マジかよ!本物じゃねえか!あの歩く災害が!
おいJOKER!逃げろ!とか言いたいところだが、逆だ!これは千載一遇のチャンスだぞ!
「…へえ、S級か」
彼の口元が、自然と吊り上がっていくのを感じた。
最高のテーブルが、向こうからやってきた。
このギャンブルに乗らない手はない。
彼は配信のコメントなど、もはや目に入っていなかった。
ただ、目の前のその「現象」の中心にいる少女に歩み寄っていく。
彼女は彼の存在に気づいているのか、いないのか。
相変わらず、その視線は手元の本に落とされたままだ。
彼は彼女から数メートル離れた場所で、声をかけた。
「――よう。すごい散歩だな」
その彼の不躾な声に。
彼女はゆっくりと、その顔を上げた。
血の気のない陶器のような白い肌。感情の読めない大きな紫色の瞳。
その視線が、彼を捉えた。
「…何か御用でしょうか」
その声は、今にも消え入りそうに小さかった。
「あんたがS級の冬月 祈だろ?少し見学させて貰えねえか。あんたのその『散歩』をな」
彼のあまりにも単刀直入な申し出。
それに彼女は、少しだけこてんと首を傾げた。
そして、その紫色の瞳で彼の全身をじろりと値踏みするように眺めた後、静かにこう言った。
「…別に構いませんわ」
「ですが、条件がありますの」
「条件?」
「ええ。見ての通り、わたくし少々手が塞がっておりまして」
彼女はそう言って、手にした本をぱたりと閉じた。
「あなたがわたくしの代わりにドロップ品を拾ってくださるなら、お好きになさっていいですわ」
彼女は続けた。その声はどこまでも平坦だった。
「ちょうど、荷物持ちが欲しいと思っていたところですの」
「……はっ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
荷物持ち、ね。
S級冒険者のお供か。面白い。
「…いいぜ、その条件飲んだ」
彼は苦笑しながら、頷いた。
そこから、彼の人生で最も奇妙な「ダンジョン攻略」が始まった。
彼の仕事はただ一つ。
彼女の後ろを数メートル離れてついて歩き、彼女が通り過ぎた後に残されるおびただしい数のドロップアイテムを、ひたすらインベントリに収納し続けること。
彼女はただ、歩くだけ。
時折、まるで呼吸をするかのように、その指先から6つのブランドが放たれる。
そして5秒後。
彼の目の前には、新たなアイテムの山が築かれている。
彼は、ただの雑用係だった。
「…なあ」
しばらくその奇妙な共同作業を続けた後、彼は彼女の背中に話しかけた。
「あんた、なんでこんな場所にいるんだ?S級ならもっと上のダンジョンに行くだろ」
「…別に。どこでも同じですわ」
彼女は振り返りもせず、答えた。
「わたくしにとっては、どこを歩こうがただの散歩に過ぎませんから。それに、ここは効率が良いと聞きましたので」
そのあまりにも絶対的な強者の理論。
彼は、言葉に詰まった。
そんな彼の様子を、楽しんでいるのかいないのか。
彼女は不意に、こちらに問いかけてきた。
「…あなたの耐性は、いくつですの?」
唐突な質問。
だがそれは、彼が最も得意とする分野だった。
彼は、少しだけ誇らしげに答えた。
「もちろん75%だ。火も氷も雷も、全て上限まで積んでる。それがこの世界の常識だろ?」
そうだ。
それがA級の、いや、この世界の全ての探索者にとっての絶対的なセオリー。
死なないための、最低限のマナー。
彼のその完璧な答え。
それに彼女は、ゆっくりと振り返った。
そして、その感情の読めない紫色の瞳で、彼を真っ直ぐに見つめた。
彼女は、その能面のような顔にほんのわずかだけ、子供が悪戯っぽく笑うかのような微かな笑みを浮かべた。
そして彼女は告げた。
その声はどこまでも静かで、そして絶対的な勝利宣言だった。
「――そうですの。では、わたくしの勝ちですわね」
「わたくしの耐性は、35%ですもの」
「…………は?」
彼の思考が、完全に停止した。
後に残されたのは、彼女の言葉の意味を全く理解できないまま、ただ呆然と立ち尽くす彼と。
そして、何事もなかったかのように再びその静かな「散歩」を再開する、一人の美しい少女の小さな背中だけだった。