第15話
神崎隼人がクリックした先のページは、彼の想像以上に、無骨で、そして、情報が凝縮された空間だった。
サイトのデザインは、一昔前の個人ブログを思わせる、シンプルなもの。だが、そこに書き連ねられている言葉の一つ一つには、幾多の死線を乗り越えてきたであろう、ベテラン探索者たちの、血と汗と、そして、仲間たちの死に対する後悔が、染み込んでいるかのようだった。
スレッドのタイトルは、『【永久保存版】新米戦士が、F級ダンジョンで、まず死なないための10の掟』。
その最初の投稿、通称「>>1」には、スレッドの主であろう「名無しの古参兵」と名乗る人物によって、箇条書きで、戦士としての心構えが記されていた。スレッドが立てられたのは、ダンジョンが出現して間もない9年前。だが、その内容は、今もなお、新たな情報が追記・更新され続けているようだった。
スレッドには、すでに数万というコメントが寄せられていた。「この記事に命を救われました」「これを読まずにダンジョンに潜るのは、自殺行為だ」「全ての戦士クラスの、聖書だ」――賞賛と感謝の言葉が、その情報の価値を、何よりも雄弁に物語っていた。
隼人は、そのスレッドの本文を、一字一句、まるで聖典でも読み解くかのように、その脳裏に焼き付けていった。
『【永久保存版】新米戦士が、F級ダンジョンで、まず死なないための10の掟』
ようこそ、新米。お前がこのスレを読んでいるということは、運良く「戦士」という、最も堅実で、最も生存率の高いクラスを引き当てたということだろう。だが、勘違いするな。戦士は、死なないクラスじゃない。「死ににくい」だけだ。油断すれば、ゴブリン一匹に、お前の人生はあっけなく終わる。
そうなりたくなければ、俺たち先人が、仲間たちの死体の上に築き上げてきた、この10の掟を、脳髄に刻み込め。
【掟その1】全スロットを埋めろ。話はそれからだ。
いいか、新人!これが、一番重要だ。裸の部位があるのは、鎧を着ずに、銃弾飛び交う戦場のど真ん中に立つことと同じだ。お前たちの体には、武器・盾を除いて、頭、胴、手、足、ベルト、首輪、そして指輪二つの、合計8箇所のスロットがある。たとえ、道端で拾ったゴミでもいい。露店で売ってる、100円の革の切れ端でもいい。まずは、その全てのスロットに、何かしら「装備」しろ。スロットが空いている状態、それは、お前の防御力に、巨大な「穴」が開いているのと同じことだ。そして、ダンジョンという場所は、その穴を、的確に、そして、容赦なく突いてくる。穴がある状態が、一番の自殺行為だと、肝に銘じろ。
【掟その2】足は速さが命。お前の命綱だ。
次に重要なのが、足装備だ。戦士は、敵に近づかなければ話にならない。だが、もっと重要なのは、ヤバい時には、誰よりも速く、その場から逃げ出さなければならない、ということだ。俺は、立派な剣を持ちながら、足の速いゴブリンに追いかけ回され、スタミナが尽きて嬲り殺された仲間を、何人も見てきた。だから、足装備には、何よりも「移動スピードアップ」のオプションが付いたものを選べ。たとえ、防御力がゼロでも構わない。攻撃は避けられる。だが、距離を取れなければ、いずれ必ず、死ぬ。移動速度は、地味だが、お前の生死を分ける、最重要ステータスだ。
【掟その3】手は攻撃速度。手数こそが正義。
戦士の火力は、手数で決まる。一撃の重さも重要だが、それ以上に、敵の隙に、何回攻撃を叩き込めるかが重要だ。だから、手装備には「攻撃速度アップ」のオプションが付いたものを、常に探せ。DPS(秒間ダメージ)という概念を、頭に叩き込め。他の部位で、どれだけ妥協しても、手だけは、絶対に妥協するな。
(※追記:最近現れた「JOKER」とかいう新人。お前の持ってる【万象の守り】は、神の贈り物だ。絶対に手放すなよ。というか、それ以上の手装備は、この世に存在しねえだろうから、お前は、この掟に関しては、生涯気にする必要はない。羨ましいこった、チクショウ)
【掟その4】アクセサリーと防具は「耐性」と「HP」を積め。
いいか、指輪、首輪、頭、胴、ベルト。これらの部位は、お前が火力を盛る場所じゃない。そこは、お前が「死なない」ための、「保険」をかける場所だ。探索者の世界には、絶対的なルールがある。それは、「属性耐性は、75%が上限」というルールだ。そして、少しでも格上のダンジョンに行けば、必ず「火耐性-30%」だとか、「氷耐性-50%」といった、凶悪なペナルティが課せられる。そのペナルティを相殺し、全ての属性耐性を、常に75%に限りなく近づけること。それが、お前の目標だ。足りない耐性や、HPを、これらの部位で、徹底的に補強しろ。それが、格上の敵と戦うための、最低限の参加チケットだ。
隼人は、そこまで読み進めただけで、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
【掟その1】、全スロットを埋めろ。自分の現状はどうか?手以外の7つのスロットは、ほぼ空か、あるいは、支給品の布切れ同然。巨大な穴が、7つも開いている状態。
【掟その2】、足は速さが命。自分が履いているのは、ただの、すり減ったスニーカー。移動速度アップなど、もちろん付いていない。
【掟その4】、耐性とHP。自分の耐性は、おそらく、ほぼゼロ。HPも、クラスボーナスで少し増えただけ。
そして、【掟その3】。自分の名前が、名指しで書かれている。いつの間にか、自分が、このコミュニティの誰もが知る、注目の的になっていたという事実に、彼は、今更ながら気づかされた。
彼は、自分が、どれほど無謀で、どれほど幸運だったのかを、痛感していた。彼が生き残れたのは、ひとえに、【万象の守り】という、規格外のジョーカーのおかげでしかなかった。それと、相手が、最弱のゴブリンだったから。もし、相手が、少しでも魔法を使ってくるようなモンスターだったら、彼は、とっくに死んでいただろう。
彼は、震える指で、スクロールバーを下げ、残りの掟にも目を通していった。
【掟その5】武器は一つに絞れ。浮気はするな。
武器には、剣、斧、メイス、槍など、様々な種類がある。それぞれに、長所と短所がある。だが、新人が、あれもこれもと手を出すのは、最悪の選択だ。まずは、どれか一つ、自分の性に合った武器種を決めろ。そして、その武器の扱いに、習熟しろ。戦士のスキルには、特定の武器種でしか効果を発揮しないものも多い。浮気は、破滅の元だ。
【掟その6】回復薬をケチるな。それは、命の水だ。
ダンジョンに潜る前には、必ず、回復薬を、持てるだけ持っていけ。そして、戦闘中に、少しでもHPが減ったら、迷わず使え。戦闘が終わった時に、回復薬が満タンなのは、一番の悪手だ。それは、使えるはずの保険を、使わなかったのと同じことだ。
【掟その7】敵を知れ。己を知らば、百戦危うからず。
目の前のモンスターが、何をしてくるか、何も知らずに突っ込むのは、ただのアホだ。突進してくるのか、魔法を使ってくるのか、毒を吐いてくるのか。事前に、SeekerNetで情報を集めろ。敵の弱点、行動パターン。全ての情報が、お前の生存率を、1%ずつ、だが、確実に上げてくれる。
【掟その8】欲張るな。生きて帰るまでが、探索だ。
インベントリがいっぱいになったら、あるいは、回復薬が尽きたら、素直に帰還しろ。「あと一体だけ」が、お前の命取りになる。ダンジョンから、生きて、アイテムを持ち帰って、初めて、お前の勝ちなのだ。
【掟その9】孤独を愛するな。仲間は、最高の保険だ。
理想を言えば、パーティーを組め。信頼できる仲間は、お前の背中を守ってくれる、最高の保険だ。だが、もし、例のJOKERのように、ソロでやるというのなら、お前は、パーティーで戦う人間の、十倍は、慎重にならなければならない。お前のミスは、即、死に繋がる。
【掟その10】ダンジョンに、敬意を払え。
最後に、これだけは忘れるな。ダンジョンは、お前を殺そうとしている。常にだ。慣れ、油断、慢心。それらが、お前の最大の敵だ。どんなにレベルが上がろうと、どんなに良い装備を手に入れようと、この、ダンジョンに対する敬意だけは、決して忘れるな。
全ての掟を読み終えた時、隼人は、椅子に深く、もたれかかっていた。
それは、もはや、ただの攻略情報ではなかった。それは、無数の戦士たちの、血塗られた遺言であり、これから死地へと向かう、後輩への、切実な祈りのようなものだった。
全ての情報を読み終えた隼人は、しばらくの間、目を閉じて、沈黙していた。
彼の頭の中では、先ほど得た「セオリー」という名の知識と、自らの、これまでの戦いの記録が、高速で比較・分析されていた。
そして、彼が導き出した結論は、やはり、変わらなかった。
(――やはり、一点豪華主義の、クソデッキだ)
彼の現状は、あまりにも、このセオリーから逸脱していた。
【手】だけが、神の領域。
だが、それ以外の、頭、胴、足、ベルト、首輪、指輪二つ、そして、武器。その全てが、ゴミか、あるいは、存在しない。あまりにも歪で、あまりにも脆い。トランプで言えば、ジョーカーが一枚あるだけで、残りのカードが、全てバラバラのカードであるようなもの。
これでは、勝てない。
これまで勝てていたのは、相手が、ルールを何も知らない子供で、そして、テーブルが、最もレートの低い、初心者卓だったからに過ぎない。
だが、彼は、もはや、絶望していなかった。
なぜなら、今の彼には、その「クソデッキ」を、どうすれば「勝てるデッキ」へと作り変えることができるのか、そのための、明確な「設計図」が、手に入ったからだ。
あの「10の掟」という名の、聖書が、彼に進むべき道を示してくれていた。
彼の、次なる目標が、明確に、そして、具体的に、定まっていく。
まず、やるべきこと。
それは、【掟その1】の遵守。全ての装備スロットを、埋めること。
そのために、彼は、手元にある、三万二千円という、なけなしの、しかし、あまりにも貴重な軍資金を、どう使うべきか、思考を巡らせた。
彼は、再びSeekerNetを開き、今度は、探索者向けの「オークションサイト」や「フリーマーケット」のページを閲覧し始めた。
彼は、まず、【掟その2】に従い、「移動スピードアップ」のオプションが付いた、足装備を探す。
検索結果には、様々なブーツが表示された。トップランカーが使うような、移動速度が30%も上昇するような伝説級のブーツは、当然、数百万、数千万という、天文学的な値段がついている。
だが、彼は、そんなものには目もくれない。
彼が探すのは、一番安い、中古の、ボロボロのブーツ。移動速度の上昇率も、「+5%」とか、「+7%」とか、微々たるもの。だが、それでも、今の彼にとっては、ゼロより遥かにマシだ。
彼は、いくつかの候補の中から、最もコストパフォーマンスの良い、移動速度+8%の革のブーツを、8000円で見つけた。
次に、彼は、【掟その4】に従い、残りのスロットを埋めるための、「保険」を探し始めた。
頭、胴、ベルト、首輪、指輪。
彼が求めるのは、HPや、属性耐性が、ほんの少しでも上がる、中古のガラクタだ。
彼は、オークションサイトの、投げ売りされているようなアイテム群の中から、まるで宝探しのように、今の自分にとって、最も価値のある「保険」を、一つ一つ、吟味していく。
HP+20の、錆びついた鉄の兜。3000円。
火耐性+5%の、穴の空いた革の胸当て。4000円。
HP+10、氷耐性+3%の、使い古されたベルト。2500円。
一つ一つは、ゴミのような性能だ。だが、これらを全て装備すれば、彼の生存率は、確実に、数パーセントは向上するだろう。ギャンブルにおいて、その数パーセントの確率が、勝敗を分けることを、彼は知っていた。
彼は、緻密な計算の末、およそ二万五千円の予算で、最低限の「保険」を揃えるための、ショッピングリストを作り上げた。
そして、最後に、残った金と、これからダンジョンで稼ぐ金で、手に入れるべきもの。
それは、【掟その5】に関わる、まともな「武器」だ。
彼の、当面の目標が、完全に定まった。
隼人は、全ての計画を立て終えると、静かに、パソコンの電源を落とした。
ブォン、というファンの音が止み、部屋が、再び、静寂に包まれる。
彼は、椅子から立ち上がった。
その瞳には、もう、一切の迷いはない。
手元にある、三万二千円という軍資金。そして、頭の中にある、勝利への設計図。
彼は、明日、探索者たちの無法地帯とも呼ばれ、あらゆる中古品や、時には、盗品すらもが取引されるという、巨大なフリーマーケットへと、向かうことを決意した。
彼の戦いは、もはや、運任せのギャンブルではない。
情報を集め、セオリーを学び、自らの手で、勝率を、極限まで高めていく、知的なゲームへと、その様相を変えようとしていた。
※2025/07/16 トランプで言えば、ジョーカーが一枚あるだけで、残りのカードが、全て違うスートの数字の「2」であるようなもの。これがファイブカードやないかいと突っ込みがあったのでバラバラに変更しました。