第147話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしている。
だが、その日の神崎隼人 "JOKER" の配信部屋は、いつもの退屈な「作業」の空気とは、全く違う、異様な熱気に包まれていた。
彼のメインモニターに映し出されているのは、ダンジョンの殺伐とした風景ではない。
ギルドが運営する、公式オークションハウスの、ライブストリーミング映像。
画面の中央には、厳重なマナ・シールドに守られたガラスケースが鎮座し、その中には、淡い生命の光を放つ一本のバイアル瓶が、静かにその時を待っていた。
全世界の富と権力が、今、このたった一つの小瓶に注がれている。
【若返りの薬】。
名前:
時の揺り戻し、若返りの薬
(ときのゆりもどし、わかがえりのくすり)
(The Ebbing of Time, Potion of Rejuvenation)
レアリティ:
神話級 (Mythic-tier)
種別:
霊薬 / アーティファクト (Elixir / Artifact)
効果:
この霊薬を飲み干した者は、その記憶と人格を完全に維持したまま、肉体の時を正確に10年巻き戻す。
この霊薬は、世界の理そのものが凝縮した奇跡の産物であり、いかなる魔法や技術をもってしても、その複製は不可能である。
フレーバーテキスト:
王は金で城を築き、英雄は力で伝説を築いた。
だが、時はその全てを、無慈悲に砂へと変える。
彼らは、資産の半分を差し出して、10年を買う。
彼らが本当に買っているのは若さではない。
自らの帝国で、もう10年、君臨し続けるための「権利」だ。
その世紀のオークションの開始時刻が、刻一刻と迫っていた。
彼の配信チャンネルには、すでに十数万人という、異常な数の観客たちが殺到していた。
コメント欄は、もはや制御不能。期待と、興奮と、そしてどこか下世話な好奇心が入り混じった、熱狂の坩堝と化していた。
『ついに始まるのか…!』
『歴史的瞬間を見に来たぜ!』
『一体、いくらまで行くんだよ、これ…』
その熱狂の渦の中心で、JOKERは、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアに深く身を沈め、ただ静かに、タバコの紫煙をくゆらせていた。
彼の表情は、いつもと変わらないポーカーフェイス。
だが、その瞳の奥には、最高のテーブルを前にしたギャンブラーだけが宿すことのできる、静かな、しかし獰猛な光が宿っていた。
その、彼の絶対的な落ち着き。
それに、一人の視聴者が、しびれを切らしたように、問いかけた。
『なあ、JOKER!あんた、プロのギャンブラーなんだろ!?このオークション、いくらになると思う?予想を聞かせてくれよ!』
そのあまりにもストレートな問いかけ。
それに、コメント欄が待っていましたとばかりに、一斉にJOKERへと注目する。
彼は、ゆっくりと、灰皿にタバコを押し付けると、ARカメラの向こうの、十数万人の観客たちに、語りかけた。
その声は、まるで、ディーラーがカードを配るかのように、静かで、そしてどこまでも重かった。
「…予想、ね」
「くだらねえな。だが、お前らがあんまりにもうるせえから、少しだけ、俺の考えを話してやる」
彼は、そこで一度言葉を切ると、遠い目をした。
「お前ら、前回のオークションの結果、知ってるか?」
「半年前だ。ヨーロッパの、年老いた石油王と、シリコンバレーの、若きIT長者。その二人が、壮絶な殴り合いを演じた。最初は、互いにプライドを賭けた、探り合い。だが、最後は、死を恐れる、ただの人間としての、剥き出しの欲望のぶつけ合いだった」
「結果、落札価格は6兆円。石油王の、執念が勝った。IT長者は、泣きながらテーブルを降りたらしいぜ」
そのあまりにも生々しい、裏話。
それに、コメント欄が、どよめいた。
『6兆円!?マジかよ!』
『そんなドラマがあったのか…!』
「ああ、そうだ。だがな、今回は、それだけじゃ済まねえ」
彼の瞳が、鋭く光る。
「あの時、買い手は、その二人だけだった。だが、この半年で、世界は変わった。ダンジョン好景気は、さらに加速し、新たな『怪物』たちが、次々と生まれている。今回の買い手は、最低でも五人はいるだろうな」
「だから、俺はこう予想する」
彼は、人差し指を一本、立てた。
「8兆円。それが、今日の最低ラインだ。そこから先は、神々の領域。俺たち凡人には、予想もつかねえよ」
その、あまりにも大胆な、しかし確信に満ちた、予想。
それに、コメント欄が爆発した。
『はちちょうえん!?』
『国家予算じゃねえか!』
その熱狂の、まさに、その最中だった。
画面の、カウントダウンが、ゼロになる。
【オークション開始】
その無機質な文字が表示された、その瞬間。
入札の、火蓋が、切って落とされた。
最初の入札額は、5兆円。
その数字が表示されただけで、コメント欄が悲鳴に似た歓声で埋め尽くされる。
だが、それは、ただの始まりに過ぎなかった。
そこから、価格は、もはやバグを疑うレベルで、凄まじい勢いで吊り上がっていく。
いきなり価格は前回と並ぶ6兆になる。
5兆1000億。
5兆2000億。
5兆3000億。
1000億単位のチップが、まるでポーカーのレイズ合戦のように、飛び交っていく。
オークション開始から、わずか10分。
価格は、あっさりと5兆5000億円の大台を突破した。
そして、その勢いは、止まらない。
6兆。前回の落札記録に、並んだ。
だが、まだ、誰も降りない。
6兆1000億。
6兆2000億。
そして、ついに。
オークション開始から、ちょうど30分が経過した、その時。
画面に表示された数字は、JOKERが予想した、あの運命の数字に到達していた。
【現在価格: 8兆円】
その数字が表示された、その瞬間。
それまで、嵐のように続いていた入札が、ぴたりと、止んだ。
まるで、嵐の前の、静けさ。
その光景に、コメント欄が、爆発した。
『うおおおおおお!8兆円!』
『マジかよ!JOKERの予想、的中じゃん!』
『すげええええ!神か、あんたは!』
『完璧な読みだ!さすが、伝説のギャンブラー!』
賞賛と、祝福の嵐。
誰もが、この勝負は、ここで決したのだと、思った。
だが、その熱狂の中心で。
JOKERは、ただ一人、静かに、そしてどこか、つまらなそうに、首を横に振っていた。
彼は、ふっと息を吐き出すと、ARカメラの向こうの、浮かれる観客たちに、冷や水を浴びせるように、言った。
「…いや、甘かったみたいだ」
「これは、前哨戦のような物。たかが、8兆円。神々のテーブルの、参加費にしちゃ、安すぎる」
彼の、そのあまりにも不遜な、一言。
それに、コメント欄が、一瞬、静まり返る。
『え?』『まだ、上がるってのかよ…?』
JOKERは、その困惑を、楽しむかのように、続けた。
その口元には、全てを見透かしたような、獰猛な笑みが浮かんでいた。
「オークションってのはな…」
「――最後の、鐘が鳴るその瞬間が、一番盛り上がるんだよ」
彼の、その言葉が、予言であったかのように。
残り時間、10分を切った、その時だった。
それまで、沈黙を保っていた、価格表示が、突如として、その数字を、変えた。
【現在価格: 8兆5000億円】
一気に、5000億の、吊り上げ。
その、あまりにも暴力的な、一撃。
それに、コメント欄が、絶叫した。
『うわああああああ!動いた!』
『5000億レイズ!?誰だよ、入札したの!』
そこから、本当の地獄が、始まった。
8兆6000億。
8兆7000億。
8兆8000億。
再び、1000億単位の、チップが、飛び交い始める。
そして、価格はついに、9兆という、もはや人間の理解を超えた、領域へと到達した。
そこで、再び、入札が、止まる。
残り時間は、あと、1分。
誰もが、今度こそ、これで終わりだと、思った。
だが、JOKERだけは、まだ、笑っていた。
残り、10秒。
その、刹那。
画面の数字が、最後の、輝きを放った。
【現在価格: 10兆円】
ノックアウトブロー。
完璧な、タイミングでの、最後の一撃。
それに、他の全てのプレイヤーが、沈黙した。
そして、運命の、カウントダウンが、ゼロになる。
【オークションは終了しました】
【最終落札価格: 10兆円】
その数字が、モニターに、絶対的な事実として、刻み込まれた、その瞬間。
コメント欄が、これまでのどの熱狂とも比較にならない、本当の「爆発」を起こした。
もはや、それは言葉にならない、ただの、魂の絶叫の、洪水だった。
その、興奮の渦の中で。
JOKERは、ただ静かに、新しいタバコに、火をつけた。
そして、彼は、紫煙を、ゆっくりと、夜空へと吐き出しながら、最後に、こう、言い放った。
その声は、この世界の、理そのものを、ただ、楽しむ、絶対者の、それだった。
「S級ダンジョンの、現実が、これだ」
「……まったく、面白い世界だぜ」