第145話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしていた。
だが、その光は、神崎隼人 "JOKER" の瞳には届いていなかった。
彼の意識は、ただ一点。
数時間前に目の前を通り過ぎていった、あの白い少女の残像に、完全に囚われていた。
綾小路 荊。
【紫苑の災厄】、あるいは【歩く禁書庫】。
SSS級冒険者。
その、か細い腕。人形のように整った無表情。そして、彼の魂の根源…「幸運の特異点」という、誰にも知られてはならないはずの秘密を、ただ一瞥しただけで見抜いた、あのガラス玉のような瞳。
彼女の全てが、彼のギャンブラーとしての本能に、強烈な違和感と、そしてそれ以上に、抗いがたいほどの好奇心を植え付けていた。
(…なんだったんだ、あいつは)
彼は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、天井のシミを眺めながら、自問自答を繰り返す。
これまで、彼は数多の強者と対峙してきた。
B級の主、【古竜マグマロス】。その圧倒的な暴力。
D級の王、【骸骨の百人隊長】。その陰湿なギミック。
だが、彼女から感じたプレッシャーは、そのどれとも質の違うものだった。
それは、恐怖ではない。
畏怖だ。
まるで、世界の理そのものが人の形を取って、彼の前に現れたかのような。
自分のルールが、自分の土俵が、全く通用しないのではないかという、根源的な畏怖。
(…面白い)
彼の口元が、ゆっくりと吊り上がっていく。
その瞳には、もはや恐怖の色はない。
ただ、最高の難問を前にした挑戦者の光だけが、爛々と輝いていた。
未知のテーブル。
未知のルール。
そして、未知のディーラー。
それこそが、彼の魂が最も渇望するもの。
彼は、椅子を軋ませながら、古びたパソコンのキーボードへと、その指を伸ばした。
彼の戦場は、今、ダンジョンではない。
この、情報の海。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト、『SeekerNet』。
そこで彼は、綾小路 荊という、巨大な「謎」を、丸裸にすることを決意した。
彼が、SeekerNetの検索窓に打ち込んだキーワードは、シンプルだった。
『綾小路 荊 ビルド』
エンターキーを押すと、彼の目の前に、おびただしい数のスレッドが表示された。
そのほとんどが、彼女のゴシップや、目撃情報といった、ゴシップ誌のような内容だった。
『【目撃】SSS級、綾小路 荊様、銀座の高級パティスリーでパフェを無表情で食す』
『【議論】綾小路 荊と“雷帝”神宮寺猛、どっちが強いのか?』
彼は、それらのノイズを、高速でスクロールしながら、読み飛ばしていく。
彼が求めているのは、大衆の噂話ではない。
もっと、本質的な「情報」。
彼女の「強さ」の、根源。
そして、彼はついに、一つのひときわ異彩を放つスレッドを見つけ出した。
そこは、トップランカーや理論家たちだけが棲息する、マニアックなビルド考察掲示板の、さらに奥深く。
そのタイトルは、彼女への畏敬と、そして純粋な知的好奇心に満ちていた。
『【理論の芸術】SSS級【紫苑の災厄】綾小路 荊のビルドは、なぜ「災害」なのか?』
「…これだ」
彼は、そのリンクを、クリックした。
そして、そこに記されていたのは、彼の想像を絶する、あまりにも美しく、そして狂的なまでに完成された「論理の怪物」の、設計図だった。
スレッドは、彼女の熱心なファンであり、そして同時にそのビルドの探求者でもある者たちの、熱狂的な議論の場と化していた。
122: ハンドルネーム『歩く禁書庫の司書』
皆、落ち着いてほしい。荊様のビルドを語る上で、まず我々が共有しなければならない認識がある。
彼女の戦いは、「戦闘」ではない。
それは、彼女が構築した完璧な「システム」が、ただその理論の正しさを証明するための、「実験」と「検証作業」に過ぎないということだ。
125: ハンドルネーム『ハクスラ廃人』
ああ、その通りだぜ、司書さんよ。
俺たちみてえに、一喜一憂しながらレアアイテムを掘ってる凡人とは、見てる世界が違う。
だが、その「システム」の根幹を、新規の奴らのために、改めて解説してやる必要があるだろうな。
まず、彼女がメインで使ってるスキル。
それは、この世界の全ての魔術師が、そのあまりのピーキーさに、手を出そうとすらしない、禁断のスペルだ。
その書き込みと共に、スレッドには一つのスキルジェムの詳細な情報が、貼り付けられていた。
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魂の生贄のフォビドゥンライト
スペル, 範囲効果, 混沌, 投射物
レベル: (1–20)
コスト: (18–45) HP
キャストタイム: 0.75 秒
クリティカル率: 6.00%
追加ダメージ効率: 110%
要求 レベル (16–70), (41–155) 知性
指定地点付近に向けて爆発する投射物と共に、使用者の周囲から敵に向けて追加の投射物を放つ。この投射物は使用者のエナジーシールドに基づいて混沌ダメージを与える。このスペルを使用するとダメージを受ける。
・(15–498)から(22–747)の混沌ダメージを与える
・プレイヤーの最大エナジーシールドの20%を基礎混沌ダメージとして与える
・最大エナジーシールドの50%を混沌ダメージとして受ける
・最大(6–7)体の周囲の敵に追加の投射物を放つ
【品質による追加の効果】 追加の投射物を放つ周囲の敵の数が最大+(0–2)体される
そのあまりにも特徴的な性能。
隼人は、そのテキストを食い入るように見つめた。
そして、彼は戦慄した。
最後の一文に。
『最大エナジーシールドの50%を混沌ダメージとして受ける』。
「…なんだ、これ。自殺スキルじゃねえか」
彼の口から、素直な感想が漏れた。
スキルを使うたびに、自らの防御の根幹であるESの半分を失う。
こんな馬鹿げたスキルを、一体どうやって使うというのか。
その彼の疑問に答えるかのように、スレッドの議論は続いていた。
128: ハンドルネーム『新規ちゃん』
え、えっと…これ、どういうことですか?
使うたびに、ESが半分になるってことですよね?
これじゃ、二回使ったら、死んじゃいませんか…?
131: ハンドルネーム『歩く禁書庫の司書』
ふふっ。だから、あなたはまだ入り口にしか立っていないのです、新規さん。
そのあまりにも大きなデメリットこそが、このスキルが「禁断」と呼ばれる所以。
そして、そのデメリットを、いかにして「踏み倒す」か。
それこそが、荊様のビルドの、第一の芸術なのです。
答えは、シンプル。
彼女は、キーストーン**【カオス・イノキュレーション(CI)】**を取得しています。
CI。
その名前に、隼人は聞き覚えがあった。
最大ライフが1になる代わりに、混沌ダメージを完全に無効化する、あの究極のパッシブ。
132: ハンドルネーム『ハクスラ廃人』
そういうことだ。
CIを取ってる彼女にとって、このスキルの自傷ダメージは、**「ゼロ」**だ。
彼女は、この世界のルールそのものをハッキングして、この自殺スキルを、完全なノーリスク・ハイリターンの、最強の攻撃魔法へと、変質させてるのさ。
防御の要であるESを、そのまま攻撃力に変換し、その代償は一切支払わない。
まさに、悪魔の所業だろ?
そのあまりにも鮮やかで、そして冒涜的なまでの「解法」。
隼人は、ただ息を呑んだ。
だが、本当の衝撃は、ここからだった。
スレッドは、彼女のビルドの、本当の「エンジン」についての議論へと、移っていった。
135: ハンドルネーム『元ギルドマン@戦士一筋』
CIでデメリットを踏み倒すのは、まあ、分かる。
だが、俺が本当に理解できないのは、彼女の装備構成だ。
特に、あのブーツ。
【不動の威光(ララケシュの焦燥)】。
あれは、もはやアイテムではない。
世界の理そのものを、書き換える、神のアーティファクトだ。
あれのせいで、俺たちの知る全ての「常識」が、意味をなさなくなる。
その書き込みと共に、スレッドには一つのブーツの情報が提示されていた。
【不動の威光】 種別: ブーツ
種別: ブーツ
装備条件: レベル36, 筋力35, 知性35
【ユニーク特性】
移動速度が 25% 増加する
冷気耐性 +25%
混沌耐性 +25%
汚染された血のデバフを、無効化する
常に、最大のパワーチャージを、持っていると見なされる
「――は?」
隼人の思考が、完全に停止した。
138: ハンドルネーム『歩く禁書庫の司書』
落ち着いてください、皆さん。
問題は、その性能です。
「常に最大のパワーチャージを持つと見なされる」。
この、たった一文が、彼女を、神の領域へと引き上げているのです。
そして、スレッドの議論は、そのブーツが、他の装備の「デメリット」を、いかにして「メリット」へと転化させていくか、その驚愕のシナジーの解説へと移っていった。
ハクスラ廃人が、興奮気味に、その一つ一つを挙げていく。
142: ハンドルネーム『ハクスラ廃人』
いいか、お前ら、よく聞けよ!
まず、ワンドだ!
【虚無の蓄電池】
種別: ワンド
装備条件: レベル68, 知性245
【ユニーク特性】
スペルダメージが 40% 増加する
スペルダメージが 80% 減少する
詠唱スピードが 20% 増加する
グローバルクリティカル率が 65% 増加する
最大マナ +50
最大パワーチャージ +1
パワーチャージ1つにつき、スペルダメージが 25% 増加する
こいつは、「最大パワーチャージ+1」と「パワーチャージ1つにつき、スペルダメージが25%増加する」っていう、強力な効果を持ってる。
だが、その代償として、「スペルダメージが80%も減少する」っていう、致命的なデメリットがある。
だがな、【不動の威光】を履いてる彼女にとっては、どうだ?
常に最大パワーチャージ状態だから、スペルダメージ減少のデメリットは、完全に無視される!
それどころか、パワーチャージによるダメージ増加の恩恵だけを、常に最大値で受け続けられるんだ!
次に、ヘルメット!
【意志の兜】
種別: ヘルメット
装備条件: レベル35, 敏捷40, 知性40
【ユニーク特性】
回避力とエナジーシールドが 400% 増加する
パワーチャージ1つにつき、スペルダメージをブロックする確率が +5% される
パワーチャージ1つにつき、元素ダメージが 5% 増加する
最近、パワーチャージを失っていない場合、1秒ごとにパワーチャージを1得る
ブロックした時、全てのパワーチャージを失う
こいつも同じだ!「パワーチャージ1つにつき、スペルダメージをブロックする確率+5%」っていう、強力な防御効果がある。
だが、「ブロックした時、全てのパワーチャージを失う」っていう、クソみてえなペナルティが付いてる。
だがな、【不動の威光】を履いてる彼女は、そもそもチャージを「失う」という概念がねえ!
だから、これもまた、メリットだけを享受できる!
【マラカイの心臓】
種別: エナジーシールド
装備条件: レベル65, 知性159
【ユニーク特性】
スペルダメージが 15% 増加する
エナジーシールドが 250% 増加する
最大パワーチャージ +2
ヒット時、20%の確率でパワーチャージを1得る
パワーチャージ1つにつき、スペルダメージが 16% 増加する
最大パワーチャージに到達した時、全てのパワーチャージを失う
最大パワーチャージに到達した時、自身が感電状態になる
こいつも同じだ!「パワーチャージ1つにつき、スペルダメージが 16% 増加する」という強力な攻撃性能がある。
だが、「最大パワーチャージに到達した時、全てのパワーチャージを失う」「最大パワーチャージに到達した時、自身が感電状態になる」というデメリットがあるしかし【不動の威光】を履いてる彼女は、チャージを「得る」という概念がねぇ!
だから、これもまた、メリットだけを享受できる!
そして、極めつけはベルトだ!
【グレイヴンの秘密(Graven's Secret)】
こいつは、パワーチャージの代わりに「吸収チャージ」っていう、特殊なチャージを得る効果がある。
だがな、【不動の威光】を履いてる彼女は…(以下、長文の考察が続く)
その、あまりにも完璧な、シナジーの連鎖。
隼人は、ただ呆然と、そのテキストを眺めていた。
一つ一つのユニークアイテムが持つ、致命的なまでのデメリット。
その全てを、たった一つのブーツが、完全に無効化し、それどころか、最強のメリットへと昇華させている。
それは、もはやビルド構築ではない。
世界のバグを利用した、永久機関の創造。
あまりにも美しく、そしてあまりにも、完成されすぎている。
彼は、その緻密な、そして狂的なまでの理論の前に、言葉を失っていた。
それは、彼がこれまで信じてきた「ギャンブル」とは、全く違うものだった。
運命の揺らぎに賭けるのではなく、揺らぎそのものを存在させない、絶対的な論理。
彼の脳裏に、あの換金所で出会った、白い少女の、感情のない瞳が蘇る。
そうだ。
あれは、そういうことだったのか。
彼女は、俺を値踏みしていたのではない。
ただ、俺という存在を、彼女の完璧な数式に当てはめて、その「解」を導き出していただけなのだ。
彼は、ふっと息を吐き出した。
そして、彼は呟いた。
その声は、心の底からの、敗北宣言であり、そして同時に、最高の賛辞だった。
「――SSS級冒険者っつーのは、正真正銘、神々の領域だな…」
彼の新たな、そして最も巨大な「壁」が、今、確かに、その目の前にそびえ立った。