第144話
『関東探索者統括ギルド公認 新宿第一換金所』。
もはや彼にとってこの場所は、ただの換金所ではない。自らの戦果を確かな「価値」へと変え、そして次なる戦いへの新たな「知識」と「道標」を得るための、重要な拠点となっていた。
ひんやりとした大理石の床を踏みしめ、彼は見慣れたカウンターへと向かう。彼の姿を認め、にこやかに微笑む受付嬢たち。その誰もが、今や彼の熱心なファンだった。彼はその視線を軽く会釈で受け流しながら、一つのカウンターの前で足を止めた。
そこに、彼女はいた。
艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。水瀬雫。
だが、その日の彼女の様子は、いつもとは少し違っていた。彼女は、カウンターの内側で一人の女性と、親しげに談笑していたのだ。
その女性の姿を見て、隼人は思わず足を止めた。
あまりにも、この無機質な換金所の空間には不釣り合いなほど、幻想的なオーラを放つ女性だったからだ。
雪のように白い、腰まで届くほどの長い髪。
その一部が、複雑な、しかしどこか無造作な編み込みでまとめられている。
人形のように整った、陶器のような白い肌の顔立ち。
だが、その表情は、まるで能面のように、一切の感情を映し出してはいなかった。
その身を包んでいるのは、黒と紫を基調とした、ゴシック調の優雅なドレスアーマー。幾重にも重なったフリルと、硬質なプレートアーマーが、奇妙な、しかし完璧な調和を保っている。
一見すると、か弱く、守られるべき深窓のお姫様。
だが、彼女から放たれるプレッシャーは、これまでのどのモンスターとも、どの探索者とも比較にならないほど、濃密で、そして底知れなかった。
彼のギャンブラーとしての直感が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
(…なんだ、こいつは…)
それは、もはや「強い」とか「弱い」とか、そういう次元の話ではない。
世界の理そのものが、彼女という存在を中心に歪んでいるかのような、絶対的な違和感。
彼は、その場違いな闖入者になることを躊躇し、少しだけ離れた場所で彼女たちの会話が終わるのを待つことにした。
だが、その彼の存在にいち早く気づいたのは、やはり雫だった。
彼女は隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。
そして、隣の白髪の少女に何事か耳打ちすると、悪戯っぽく笑いながら隼人へと手招きをした。
「JOKERさん!ちょうど良かった!さあ、こちらへ!」
その明るい声に、隼人は観念したようにため息をつくと、ゆっくりとカウンターへと歩み寄っていった。
「噂をすれば、影ですね」
雫は楽しそうにそう言うと、隼人と白髪の少女を交互に見比べた。
「今、ちょうどあなたのお話をしていたところだったんですよ」
「俺の?」
「はい」
雫が頷いた、その時だった。
それまで、一切の興味を示さなかった白髪の少女が、ゆっくりと、その顔を上げた。
そして、その感情の欠落した、ガラス玉のような瞳が、初めて隼人のことを、真っ直ぐに捉えた。
その視線に、隼人は思わず背筋が凍るような感覚を覚えた。
それは、値踏みするようなものではない。
分析するようなものでもない。
まるで、未知の鉱物を鑑定するかのように。
あるいは、解剖台の上の実験体を観察するかのように。
ただ、冷徹に、その存在の全てを、その内側の魂の輝きまでをも、見透かそうとするかのような、人間離れした視線だった。
そして、彼女は、その抑揚のない、静かなソプラノの声で、告げた。
その第一声は、あまりにも唐突で、そして核心を突いていた。
「――あなたが、JOKERね?」
その問いかけに、隼人は一瞬、言葉に詰まった。
肯定も、否定もできない。
ただ、目の前の、この異常な存在から、目が離せない。
そんな彼を見て、少女は、その表情を一切変えることなく、続けた。
「詩織が、あなたの話をしていたから。興味が湧いて、会うことにしたの」
詩織。
その名前が出て、隼人はようやく、目の前の少女が、自分と同じ「テーブル」の住人であることを理解した。
だが、同時に、彼の警戒レベルは最大まで引き上げられる。
鳴海詩織が、わざわざ話題にするほどの相手。
一体、何者なんだ。
「…アンタ、誰だ?」
彼が、ようやく絞り出したのは、そんな、ぶっきらぼうな一言だった。
その問いかけに、少女は答えなかった。
代わりに、隣にいた雫が、少しだけ困ったような、それでいてどこか誇らしげな笑顔で、その答えを告げた。
それは、この世界の頂点を知る者であれば、誰もがひれ伏すであろう、神の御名だった。
「――彼女は、SSS級冒険者の、綾小路 荊さんです」
SSS級。
その言葉の持つ、圧倒的な質量。
神宮寺猛や、鳴海詩織と、同格。
この世界の、理の外側に立つ、神々の、一人。
その事実が、彼の脳天を、鈍器で殴られたかのように、揺さぶった。
目の前の、このか細い少女が、あの「歩く災害」とまで呼ばれる、伝説の存在だというのか。
荊は、そんな隼人の動揺を、意にも介さない。
彼女は、再び、そのガラス玉のような瞳で、彼を、じろじろと、観察し始めた。
その視線は、もはや鑑定ではない。
解剖だ。
彼のスキル構成、パッシブツリー、装備のシナジー、そして、その魂の奥底に眠る、彼自身すらも完全には理解していない、あの特異点。
その全てを、彼女は、ただ見つめるだけで、数式のように、解き明かしていく。
そのあまりにも冒涜的なまでの、解析能力。
それに、隼人は初めて、本当の意味での「恐怖」に近い感情を、抱いていた。
まるで、全ての秘密を丸裸にされていくかのような、絶対的な無力感。
彼は、その視線から逃れるように、一歩、後ずさりそうになった。
だが、彼のギャンブラーとしてのプライドが、それを許さない。
彼は、ただ奥歯をギリと噛みしめ、その視線を、真っ直ぐに受け止め続けた。
長い、長い、沈黙。
それは、数秒だったのかもしれない。
だが、隼人にとっては、永遠にも感じられた。
やがて、荊は、その観察を終えたようだった。
そして彼女は、初めて、その能面のような顔に、ほんのわずかな、しかし確かな「興味」の色を浮かべた。
彼女は、小さく、こくりと頷いた。
「――なるほどね」
その一言。
そのたった一言が、この場の空気を支配していた。
「詩織が言うだけのことは、あるかもね…」
彼女は、そう呟くと、再び隼人の瞳の奥を、覗き込むように見つめた。
「そのスキルと…その『幸運』と言い…」
幸運。
その言葉に、隼人の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
見抜かれている。
この女には、俺の全てが、見えている。
俺の、最大の秘密。
【運命の天秤】。
そして、その根源にある、俺という存在そのものの「特異性」。
その全てを、彼女は、ただ見ただけで、理解したのだ。
その、あまりの事実に、隼人はもはや、言葉を発することすらできなかった。
だが、荊は、それ以上、何も語らなかった。
彼女は、ただ、ふいと、隼人から視線を外すと、まるで、興味を失ったかのように、踵を返した。
そして、彼女は、その場にいた全ての人間が、唖然とするような、一言を、放った。
「――満足したから、帰るわ」
「またね」
そのあまりにもマイペースな、別れの言葉。
それに、雫が慌てて声をかける。
「えっ、ちょ、荊さん!?もう、帰っちゃうんですか!?」
「ええ。用は済んだから」
荊は、一度も振り返ることなく、そう答えると、そのまま換金所の自動ドアの向こう側へと、その小さな背中を消していった。
後に残されたのは、圧倒的な嵐が通り過ぎたかのような、静寂だけだった。
「……………」
隼人は、ただ呆然と、彼女が消えていった扉を、見つめていた。
そして、彼は、ようやく、その思考を再起動させ、呟いた。
その声は、心の底からの、純粋な疑問だった。
「………なんだったんだ、彼女は…?」
その彼の、あまりにも素直な呟き。
それに、雫は、やれやれ、と肩をすくめ、そして苦笑いを浮かべた。
その表情は、まるで、手のつけられない天才児を持つ、姉のようでもあった。
「――SSS級の中でも、特に『変わり者』ですからね、彼女は…」
雫は、そう言って、深くため息をついた。
「自分の興味があること以外には、一切関心を示さないんです。良くも、悪くも、あまりにも純粋すぎるというか…。でも、彼女があなたに興味を持ったということは、それだけ、あなたの存在が『規格外』だということの、証明でもありますよ」
「…そうなのかね」
隼人は、まだ釈然としない表情で、答えた。
「まあ、いい」
彼は、無理やり思考を切り替えるように、言った。
「それより、こっちの話だ。さっきの換金、どうなった?」
「あ、はい!そうでした!」
雫は、慌ててカウンターの中へと戻ると、鑑定機のモニターを確認した。
そして、彼女は、一つの、素晴らしいニュースを、彼に告げた。
その声は、先ほどの緊張感から解放されたかのように、いつもの明るさを取り戻していた。
「そう言えば、先日出品された【霜降りの指輪】のオークション、無事に終了しましたよ!」
「ほう」
「落札金額は、JOKERさんのご想像を、少しだけ上回るかもしれません。なんと…!」
彼女は、そこで一度、悪戯っぽくタメを作った。
そして、最高の笑顔で、その数字を告げた。
「――1700万円です!」
「…なに?」
今度こそ、隼人は素で驚きの声を上げた。
1700万?
1500万でも、御の字だと思っていたのに。
「ええ!終了間際に、二人のトップランカーが、熾烈な入札合戦を繰り広げたみたいでして…。最終的に、この金額で落ち着いたそうです!おめでとうございます!」
雫は、自分のことのように、嬉しそうに報告した。
「手数料を差し引いても、1615万円。振込は、いつもの口座で、よろしいでしょうか?」
「…ああ、頼む」
隼人は、そのあまりにも巨大な、臨時収入に、まだ頭が追いついていない。
彼の資産は、これでまた、大きく膨れ上がった。
【原初の調和】を手に入れるための軍資金。
その、大部分が、今、この瞬間に、満たされた。
彼は、その事実に、静かな高揚感を覚えながらも。
それ以上に、彼の心を占めていたのは、先ほどの、あの白髪の少女の、存在だった。
綾小路 荊。
【紫苑の災厄】。
【歩く禁書庫】。
「……」
彼は、無言のまま、換金所を後にした。
そして、彼は、西新宿の雑踏の中を、歩きながら、静かに、しかし確かな、決意を、固めていた。
(…家に帰ったら)
(――綾小路 荊、調べてみるか…)
彼の、次なる「ゲーム」の相手が、今、確かに、決まった瞬間だった。