第142話
黄金の扉が、重い音を立てて開かれる。
神崎隼人 "JOKER" が、その先に見たのは、これまでの悪意に満ちたトラップ地獄とは、あまりにも不釣り合いなほど荘厳で、そして静まり返った空間だった。
そこは、巨大なドーム状の玉座の間。
壁も、床も、天井も、全てが寸分の狂いもなく、磨き上げられた黒曜石で作られ、まるで夜空そのものを閉じ込めたかのように、無数の星屑のような光が、その内部で明滅している。
空気は、ひんやりと澄み渡り、音という音が、完全に存在しない。
彼の荒い息遣いと、心臓の激しい鼓動だけが、この絶対的な静寂の中で、不釣り合いに大きく響き渡っていた。
そして、その広大な空間の中央。
幾段もの階段の、その最上段に、一つの巨大な玉座が鎮座していた。
玉座は、純粋な黄金でできており、その背もたれには、かつてこの世界を支配したであろう、皇帝の紋章が精巧に刻み込まれている。
その玉座に、一体の影が、深く腰掛けていた。
それは、これまでの骸骨兵とは、明らかに「格」が違った。
身長は、3メートルを超えているだろうか。
その白骨化した体には、ひどく錆びつき、ところどころが砕けていながらも、かつての威厳をいまだ失っていない、黄金のプレートアーマーが装着されている。
その骨の両手は、玉座の肘掛けに、だらりと置かれている。
だが、その片方の手には、人間が到底、一人では持ち上げることのできないような、巨大な戦槌が、握られていた。
そして、その空虚な眼窩。
そこには、憎悪でも、狂気でもない、ただどこまでも深く、そして孤独な絶望の色を宿した、二つの青白い鬼火が、静かに燃えていた。
【孤高の皇帝】。
この狂った迷宮の主。
この第一の試練の、最後の門番だった。
隼人は、ゴクリと喉を鳴らした。
彼の全身の細胞が、けたたましく警鐘を鳴らしている。
これまで、彼が対峙してきた、どのモンスターとも違う。
そこにあるのは、純粋な、そして凝縮された「死」の気配。
だが、同時に、彼のギャンブラーとしての魂は、この究極のテーブルを前にして、歓喜に打ち震えていた。
そうだ、これだ。
これこそが、俺が求めていた、本当の大勝負だ。
彼が、玉座の間へと、その最初の一歩を踏み出した、その瞬間だった。
それまで、石像のように動かなかった皇帝が、ゆっくりとその身を起こした。
ギギギギギ…という、錆びついた金属が擦れ合う、耳障りな音。
皇帝は、その巨大な戦槌を、その両手で持ち上げると、それをただ無言で構えた。
そのあまりにも静かな、しかし圧倒的なプレッシャー。
隼人は、息を呑んだ。
そして、彼は感じた。
彼のギャンブラーとしての超感覚が、その一撃の未来を、明確に予感していた。
(――当たるな)
彼の脳内に、直接声が響く。
(あれは、ダメだ。あれに当たれば、確実に死ぬ)
その予感と同時に。
皇帝が、動いた。
その動きは、信じられないほど緩慢だった。
まるで、老人が杖を振り上げるかのように。
その巨大な戦槌が、ゆっくりと天へと持ち上げられる。
だが、その先端に収束していく魔力の密度は、これまでのどの攻撃とも、比較にならない。
空間そのものが歪み、空気が悲鳴を上げている。
そして、その戦槌が、振り下ろされた。
ゴオオオオオオオオオオオオッ!
それは、もはや、ただの物理的な一撃ではなかった。
空間そのものを粉砕する、純粋な破壊の奔流。
それが、隼人ただ一人へと、向かってくる。
だが、隼人は、その絶対的な死を前にして、笑っていた。
彼の口元に、獰猛な三日月の笑みが、浮かんでいた。
「――クソゲーなんだよ、ここは」
彼は、呟いた。
その声は、どこまでも楽しそうだった。
「こんな、分かりやすい大技しかねえのかよ」
彼は、動いた。
その動きは、もはや人間のそれではない。
一枚の木の葉が、風に舞うかのように。
彼は、その破壊の奔流を、ひらりと、ただ一歩だけ横にずれることで、華麗に避けてみせた。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
凄まじい轟音。
彼が、先ほどまでいた場所の、大理石の床が、粉々に砕け散り、巨大なクレーターが生まれる。
その衝撃波だけで、彼の体が少しよろめいた。
だが、彼は無傷だった。
そのあまりにも、あっけない結末。
それに、隼人は心の底から、がっかりしていた。
(…なんだ、これだけか)
彼の脳裏に、先ほどまでのトラップ地獄の光景が、蘇る。
床から突き出す、ノコギリ。
壁から放たれる、炎の矢。
天井から降り注ぐ、毒の霧。
あの絶え間なく、そして執拗に彼の命を削り取ってきた、悪意のシンフォニー。
それに比べれば。
このあまりにも大振りで、分かりやすいボスの攻撃は、あまりにも生ぬるいと、感じられた。
「…いや、当たれば死ぬけどな」
彼は、自嘲気味に呟いた。
「だが、もうトラップは、こりごりな気分なんだよ。さっさと、終わらせるぜ」
皇帝は、自らの必殺の一撃がかわされたことに、わずかに驚愕の色を、その鬼火に浮かべていた。
そして、その大技の後の、巨大な硬直。
それこそが、隼人が待ち望んでいた、最高の好機だった。
彼は、その無防備な王の懐へと、一直線に飛び込んだ。
そして彼は、この瞬間のために温存していた、全ての魔力を解放した。
「――お前の出番は、もう終わりだ!」
彼は、雄叫びを上げた。
そして彼は、そのありったけの魔力と、体重と、そして魂を込めて、長剣を叩きつけた。
【必殺技】衝撃波の一撃。
彼は、それを4連撃、叩き込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
一発目。
皇帝の黄金の鎧に、亀裂が入る。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
二発目。
その鎧が、砕け散る。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
三発目。
その下の白骨の体に、深々と刃が食い込む。
そして、最後の一撃。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
皇帝の巨体は、その衝撃に耐えきれず、まるで積み木が崩れるかのように、その場で崩壊した。
断末魔の声すら、上げる暇もなかった。
ただ、その空虚な眼窩の鬼火が、ふっと消える。
そして、その巨体は、ひときわ強く、そして荘厳な光を放ちながら、霧散していった。
あまりにも、あっさりとした勝利。
玉座の間に、絶対的な静寂が戻る。
後に残されたのは、山のようなドロップアイテムと、そしてその中心で、静かに剣を納める一人の挑戦者の姿だけだった。
だが、彼の胸にあるのは、勝利の高揚感ではなかった。
(…あと三回も、これがあるのか…)
そうだ。
これは、まだ第一の試練。
この地獄のクソゲーを、あと三回もクリアしなければならない。
レベル55、68、そして75。
その途方もない道のり。
それを思った、瞬間。
彼の心にあるのは、あと3回もこれがある事の、憂鬱だけだった。
彼は、深く、そして重いため息を付き、ドロップアイテムを拾い上げるのもそこそこに、玉座の奥に新たに現れた光の扉へと、その重い足取りを向けた。
◇
光の扉をくぐった、その先。
そこは、これまでとは全く違う、神聖な空気に満ちた空間だった。
そこは、円形の、小さな祭壇の間。
中央には、一つの水晶の台座が置かれている。
そして、その台座の上には、一つの古代の石板が、静かに浮かんでいた。
アセンダンシーの、祭壇だ。
彼が、その祭壇へと近づくと、彼の脳内に、直接声が響いてきた。
『――汝、試練を乗り越えし者よ』
『汝が望む力の形を、ここに示せ』
その荘厳な問いかけ。
それに、隼人は迷わなかった。
彼が願うは、ただ一つ。
(――【千変の剣匠】)
彼が、心の中でそう念じた、その瞬間。
祭壇の石板が、まばゆい光を放った。
そして、その光は、一本の筋となり、彼の胸の中心へと、吸い込まれていく。
彼の魂の内側…パッシブスキルツリーの、広大な星空。
その中央に、これまで存在しなかった、新たな星座が描き出されていく。
七つの力強い星々が、互いに結びつき、一つの完璧なアセンダンシーツリーを、形成した。
彼の視界に、システムメッセージが表示される。
『アセンダンシークラス【千変の剣匠】が、解放されました』
『アセンダンシーポイントを、2獲得しました』
彼は、その新たな力を、その身に感じながら、静かにそのアセンダンシーツリーを、見つめていた。
七つの、大ノード。
そのどれもが、魅力的だ。
だが、彼が選ぶべき道は、すでに決まっている。
彼は、迷わずその最初の2ポイントを、一つの星へと注ぎ込んだ。
全ての、始まり。
全ての、鍵。
【千変の剣匠】が、そう呼ばれる所以となった、究極の目玉能力。
【オーラの調律】
彼が、その星に触れた、その瞬間。
彼の魂に刻まれたオーラの法則が、根底から書き換えられていく。
彼の体を縛り付けていた、MP予約という最大の枷。
その三つが、音を立てて砕け散った。
彼の全身に、これまでにないほどの解放感と、そして無限の可能性が、流れ込んでくる。
(…なるほどな。これが、アセンダンシーか)
彼は、その圧倒的な力の奔流に、酔いしれていた。
だが、彼はそこで思考を止めない。
彼のゲーマーとしての脳は、すでに次なる一手へと、移行していた。
解放された、膨大なMP。
この新たなリソースを、どう使うか。
次は、どんなオーラを貼るのか、それだけ考えていた。
【活力のオーラ】のレベルを、さらに上げるか。
あるいは、全く新しいオーラを追加するか。
【憤怒のオーラ】で、火力を追求するのも、面白い。
【優雅のオーラ】で、回避力を手に入れるのも、悪くない。
その選択肢は、無限だ。
「…まあ」
彼は、ふっと息を吐いた。
「考える時間は、ゆっくりある」
「とりあえず、今日は帰って寝る。疲れた」
彼は、その高揚感を胸にしまい込み、祭壇の横に現れた帰還用のポータルを、くぐる。
そして、次の瞬間。
彼は、西新宿の、殺風景な自室へと戻っていた。
彼の体は、極限まで疲弊していた。
だが、その心は、これ以上ないほどの希望に、満ち溢れていた。
彼は、ベッドへと倒れ込むように、その身を横たえた。
そして彼は、最後に一言だけ、呟いた。
その声は、心の底からの、本音だった。
「――あー、しんどかった」
彼の新たな伝説の第一章が、今、静かに幕を閉じた。
そして、本当の物語が、ここから始まろうとしていた。