第141話
自室の、殺風景な空間。
その中央に、禍々しくも、どこか神々しい黄金のポータルが、ゆらめいていた。
その向こう側には、未知なる死の迷宮が、広がっている。
神崎隼人 "JOKER" は、一度だけ深く息を吸い込んだ。
彼のベルトには、もはやいつものユーティリティフラスコはない。
代わりに、彼の生命線となるであろう5本の巨大な【ライフフラスコ】が、ずらりとその存在を主張していた。
準備は、整った。
覚悟も、決めた。
彼は、その運命の扉の中へと、その一歩を踏み出した。
ぐにゃりと。
視界が、空間が、そして時間そのものが歪む。
ゼリー状の、冷たい膜を通り抜けるような、不快な感覚。
そして、次の瞬間。
彼の五感を支配したのは、圧倒的なまでの、「死」の匂いだった。
彼が立っていたのは、巨大な石造りの回廊だった。
壁も、床も、天井も、全てが磨き上げられた黒い大理石で、作られている。
その表面には、古代の、しかし決して風化することのない、黄金の装飾が施されていた。
そこかしこに置かれた、巨大な石像。
それは、かつてこの迷宮を作り上げた、狂える皇帝の姿なのだろうか。
その石の瞳は、どれも空虚で、しかしその奥に、侵入者を嘲笑うかのような、冷たい悪意を宿しているように見えた。
空気は、ひんやりと、そしてどこまでも重い。
千年の淀んだ空気が、彼の肺を満たし、その思考を鈍らせていく。
「…なるほどな。趣味の悪いダンジョンだぜ」
彼は、ARカメラの向こうに誰もいないことを知りながらも、つい、いつもの癖でそう呟いた。
ここは、ショーの舞台ではない。
ただ、孤独な試練の場。
彼が、その最初の一歩を踏み出した、その瞬間だった。
ガシャコンッ!
彼の足元の、大理石の床が、突如として反転した。
そして、その下から現れたのは、巨大な、錆びついた鋼鉄の歯車。
それは、まるで巨大なサメの顎のように、鋭い刃をむき出しにしながら、高速で回転していた。
一つではない。
二つ、三つ、四つ…。
回廊の床、その全てが、回転する死の刃へと、姿を変えた。
そして、それらのノコギリは、ただ回転するだけではなかった。
床に埋め込まれたレールの上を、滑るように移動し、侵入者である彼を、正確に、そして執拗に追跡し始めたのだ。
「――クソがっ!」
彼は、悪態と共に、その場から飛び退いた。
シュイン、シュイン、シュイン!
彼のすぐそばを、鋼の刃が、空気を切り裂きながら通り過ぎていく。
その風圧だけで、彼の頬がわずかに切れた。
(…初見殺しかよ、上等じゃねえか…!)
彼のギャンブラーとしての魂が、この理不尽な歓迎に、歓喜していた。
彼は、そのノコギリたちの動きを、冷静に観察する。
その軌道。
その速度。
そのタイミング。
それは、一見ランダムに見える。
だが、違う。
そこには、必ず「パターン」が存在するはずだ。
この迷宮の設計者の、悪意に満ちた「思考」が。
彼は、踊り始めた。
死の刃の上で、舞う道化師のように。
右から迫る刃。
彼は、それを最小限のステップでかわす。
左から来る刃。
彼は、それをバックステップでいなす。
彼の思考は、極限まで加速していた。
何十というノコギリの全ての動きを、同時に予測し、その最適解となる回避ルートを、その肉体に叩き込んでいく。
だが、その完璧だったはずの舞踏に、ほんのわずかな綻びが生まれた。
彼が一つの刃をかわした、その直後。
彼の死角から、もう一つの刃が、彼の回避の先を読むかのように、その軌道を変えたのだ。
「――しまっ…!」
ガッギイイイイイイイイイイイインッ!!!
凄まじい、金属音と衝撃。
彼の右腕を、鋼鉄のノコギリが捉えた。
彼が誇るユニーク装備、【万象の守り】が、悲鳴のような音を立てて、火花を散らす。
彼の体が、その圧倒的な回転力に弾き飛ばされ、壁の石像に叩きつけられた。
「ぐっ…おおおっ…!」
彼の口から、呻き声が漏れる。
全身を貫く、激痛。
彼は、自らのステータスウィンドウを確認し、そして愕然とした。
彼のHPバー。
それが、一瞬にして、その輝きの半分を失っていたのだ。
たった、一撃。
それだけで、彼の最大HPの5割が、吹き飛んだ。
(…マジかよ。これが、トラップの威力か…)
彼は、戦慄していた。
B級のボスの、必殺技に匹敵するダメージ。
それが、この迷宮では、「日常」として牙を剥く。
彼は、奥歯をギリと噛みしめながら、ベルトに差されたライフフラスコを、一本呷った。
赤い霊薬が、彼の喉を潤し、失われたHPが、急速に回復していく。
だが、ノコギリの追跡は止まらない。
休む暇など、与えられない。
彼は、再びその死の舞踏会へと、その身を投じるしかなかった。
◇
どれほどの時間を、そうしていただろうか。
何十回と刃に体を切り刻まれ、その度に、ライフフラスコを呷りながら。
彼は、ついにその最初の地獄の回廊を、突破した。
彼の目の前に現れたのは、一つの巨大な鉄の扉。
そして、その扉の向こう側。
そこは、また全く別の顔を持つ、地獄だった。
そこは、どこまでも、どこまでも続く、長い、長い一本道の廊下。
だが、その床そのものが、灼熱の溶岩でできていた。
ゴポゴポと、不気味な音を立てて、赤いマグマが泡立ち、彼の足元を照らし出す。
空気は乾燥し、呼吸をするだけで、喉が焼けるようだった。
そして、彼がその廊下へと、一歩足を踏み出した、その瞬間。
彼の足の裏から、ジュッという肉の焼ける音がした。
(――これも、トラップかよ!)
彼のHPバーが、じわじわと、しかし確実に、削られていく。
彼の驚異的なリジェネ能力が、それを相殺しようとする。
だが、この灼熱のダメージは、その回復量を、わずかに上回っていた。
このまま、この廊下を進み続ければ、いずれHPは尽きる。
彼は、舌打ちしながら、その廊下を駆け抜けることを決意した。
だが、この迷宮の設計者の悪意は、そんな単純なものではなかった。
彼が走り出した、その瞬間。
廊下の壁から、無数の穴が現れ、そこから、炎の矢が一斉に放たれたのだ。
「――加減しろ、バカ!」
彼は、思わず叫んだ。
もはや、これはゲームではない。
ただの、悪意の塊だ。
ハッキリ言って、クソゲーである。
彼は、その炎の矢の雨を、盾で防ぎながら、あるいはその身に受けながら、ただひたすらに前へと突き進んでいく。
彼のHPバーは、みるみるうちにその輝きを失っていく。
7割、6割、5割…。
やがて、そのゲージは3割を切った。
そして、彼の視界の隅で、赤い警告が、激しく点滅し始めた。
なんど、2割まで減った事か。
その度に、彼はライフフラスコの最後の一滴まで飲み干し、かろうじてその命を繋ぎ止める。
そして彼は、思った。
(…なるほどな。雑魚敵は、弱いか)
彼の脳裏に、SeekerNetの先人たちの言葉が、蘇る。
この迷宮には、確かに敵がいる。
だが、そのほとんどは、F級レベルの、弱い、弱い骸骨の兵士たち。
彼らは、攻撃をしてこない。
ただ、そこにいるだけ。
なぜか?
その答え。彼は、今、この瞬間、その身をもって理解した。
(こいつらは…「歩く、フラスコチャージ」なんだ…!)
そうだ。
この迷宮の設計者は、挑戦者に死を与えると同時に、ほんのわずかな、「救済」も用意していたのだ。
あまりにも、歪んだゲームバランス。
だが、それ故に、美しいと彼は思った。
彼は、廊下の先に、ぽつんと佇む一体の骸骨兵を見つけた。
そして彼は、その骸骨兵へと、一直線に駆け寄った。
骸骨兵は、何もしない。
ただ、その空虚な眼窩で、彼を見つめているだけ。
彼は、その無抵抗な骸骨兵を、長剣で一刀両断にした。
ザシュッ、という乾いた音。
骸骨兵が、光の粒子となって消滅する。
そして、その魂が、彼のベルトに差された5本のライフフラスコへと、吸い込まれていく。
空だったはずのフラスコのチャージが、確かに回復していく。
彼は、その光景を見つめながら、乾いた笑いを漏らした。
「…はっ。クソ中の、クソゲーだな、こりゃ」
だが、その表情には、絶望ではなく、この狂ったゲームをどう攻略してやろうかという、挑戦者の光が宿っていた。
◇
次なる部屋。
そこは、彼の心を折るための、悪意のシンフォニーだった。
部屋の中央には、一本の細い、細い橋が架かっている。
その下は、底も見えない奈落。
そして、彼がその橋へと一歩足を踏み出した、その瞬間。
部屋の壁から、巨大な振り子状の斧が、何本も、何本も、規則的な、しかしやらしいタイミングで、振り下ろされてきた。
それだけではない。
橋の床そのものが、間欠泉のように、毒の霧を噴き出し始める。
そして、天井からは、彼の動きを鈍らせる、粘着性の液体が、絶え間なく降り注いでくる。
斧、毒、スロウ。
三つの悪意が、完璧なハーモニーを奏でていた。
だが、彼はもはや驚かない。
彼は、その地獄のオーケストラの中で、ただ静かに踊り始めた。
振り子の斧の軌道を、見切る。
毒の霧の、噴き出すタイミングを読む。
そして、粘着性の液体が降り注ぐ、そのわずかな隙間を縫うように、駆け抜けていく。
彼のプレイヤースキルが、今、神の領域へと足を踏み入れようとしていた。
そして、彼は見つけてしまった。
この部屋の、最も凶悪なトラップを。
橋の中ほど。
その床に、巧妙に隠された一つの、圧力感知式のスイッチ。
彼が、もしそれに気づかず、踏み込んでいれば、どうなっていたか。
橋の両側から、巨大な鉄の壁がせり出し、彼をその場で圧殺していただろう。
その一撃は、間違いなく彼のHPを8割以上吹き飛ばす、必殺の一撃。
「…危ねえな、おい」
彼は、冷や汗を拭う。
そして彼は、そのスイッチを慎重に避けながら、橋を渡りきった。
彼は、ついにこの第一の試練の、最後の扉の前に、たどり着いた。
彼のライフフラスコのチャージは、残りわずか。
彼の精神もまた、限界に近かった。
だが、その瞳には、これまでにないほどの強い光が、宿っていた。
彼は、このクソゲーをクリアしたのだ。
その達成感が、彼の心を満たしていく。
彼は、その黄金の扉を、ゆっくりと押し開けた。
その向こう側に、何が待ち受けていようとも、もはや彼に恐れるものはなかった。
彼の孤独な挑戦は、まだ始まったばかりだ。