第139話
A級下位ダンジョン【雪と氷の洞窟】での死闘を終え、東京へと帰還した、神崎隼人 "JOKER"。
彼のインベントリには、1500万円以上の価値を持つユニーク指輪、【霜降りの指輪】と、A級の魔石が眠っている。
彼の心は、次なる戦いへの準備と、そしてこれまで経験したことのない、ささやかな使命感で満たされていた。
彼は、その足でまっすぐに、もはや彼の第二のホームとも言える、あの場所へと向かった。
新宿の、ギルド本部ビル。
その一階にある、関東探索者統括ギルド公認、新宿第一換金所。
そこに、彼の最高の軍師の一人がいることを、彼は知っていたからだ。
ガラス張りの自動ドアをくぐると、そこには、やはり彼の期待通りの人物がいた。
艶やかな栗色の髪を、サイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。
水瀬雫。
彼女は、隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせ、プロフェッショナルの笑顔の中に、隠しきれない温かな歓迎の色を滲ませて、出迎えてくれた。
「JOKERさん!お待ちしておりました!北海道遠征、お疲れ様でした!」
その声は、弾んでいた。
「配信、もちろん拝見していましたよ!観光パートも、ダンジョン攻略も、本当に最高でした!特に、最後のボス戦、見事でしたね!」
「…まあな」
隼人は、その手放しの賞賛に、少しだけ照れくさそうに答えながら、インベントリから、まず一つの白い紙袋を取り出した。
そして、それをカウンターのトレイの上に、そっと置く。
「…これ、土産だ」
そのあまりにも不器用な一言。
それに、雫の時間が止まった。
彼女の大きな瞳が、信じられないというように、大きく見開かれる。
「え…?お土産…ですか?私に…?」
「ああ。世話になったからな。あんたがいなけりゃ、A級のテーブルに着くことすら、できなかった」
彼は、照れ隠しのように、視線を逸らしながら続ける。
「ギルドの他の連中とでも、食ってくれ」
その言葉を聞いて、雫は、はっと我に返った。
そして、次の瞬間。
彼女の顔に、これ以上ないほどの、満開の花のような笑顔が、咲いた。
「…!ありがとうございます!すっごく、嬉しいです!」
彼女は、その紙袋を、まるで宝物のように、大切そうに両手で受け取った。
中から現れたのは、北海道土産の絶対王者、【白い恋人】の、一番大きな缶だった。
そのあまりにもベタな、しかしそれ故に心のこもった選択。
それが、雫の心を温かく満たしていく。
コメント欄もまた、その微笑ましい光景に、祝福の言葉で溢れかえっていた。
『うおおおおお!JOKERさんが、デレた!』
『ツンデレかよ!最高かよ!』
『雫さん、良かったな!泣いて、いいぞ!』
「さてと」
隼人は、その温かい空気を断ち切るように、本題へと入った。
「こいつの、出品を頼む」
彼が、次に取り出したのは、あの虹色の輝きを放つユニーク指輪、【霜降りの指輪】。
その圧倒的なオーラに、雫はプロの顔に戻り、息を呑んだ。
「…これは、素晴らしい一品ですね。承知いたしました。開始価格は、いかがなさいますか?」
「1500万で、頼む」
「承知いたしました。では、公式オークションハウスに、出品いたします」
雫が、テキパキと手続きを進めていく。
その間、隼人は、自らのARウィンドウで、オークションのページを開いた。
彼の真の目的は、別にあった。
彼は、検索窓に一つの名前を打ち込んだ。
【原初の調和】
その彼が、渇望する究極の指輪。
表示された、オークションページ。
そして、そこに映し出された現在の価格。
それに、隼人の眉がわずかにひそめられた。
『現在価格: 21,350,000円』
入札件数は、すでに数十件を超え、その価格は、今、この瞬間も、じりじりと吊り上がっている。
彼の全財産を、遥かに超える、絶望的な数字。
「……うーん」
彼の口から、深いため息が漏れた。
「現実は、厳しいな」
そのあまりにもリアルな一言。
それに、コメント欄の視聴者たちも、同情の声を寄せる。
『うわー、2100万超えてるのか…』
『A級のトップランカーたちの、札束の殴り合いだな…』
『JOKERさんでも、さすがにこれは手が届かねえか…』
「…まあ、いい」
隼人は、そのウィンドウを、見なかったことにするかのように、乱暴に閉じた。
そして彼は、目の前の雫に、向き直る。
「それより、こっちの話だ」
「パッシブポイントオーブの購入を、申請したい。2ポイント、頼む」
そのあまりにも前向きな、思考の切り替え。
それに、雫は一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐに満面の笑みで、頷いた。
「はいっ!承知いたしました!」
彼女は、慣れた手つきで端末を操作する。
「1ポイント目が100万円、2ポイント目が200万円。合計で、300万円ですね。お支払い、完了いたしました」
そして彼女は、少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめながら、続けた。
その声は、マニュアルを棒読みするかのような、ぎこちない響きを持っていた。
「――JOKER様の、さらなるご成長を、ギルド一同、心よりお祈りしております!目指せ、24ポイント!」
「…なんだ、それ」
隼人は、そのあまりにも場違いな応援の言葉に、思わず聞き返した。
「ああ、これ…」
雫は、さらに顔を赤くしながら、言い訳をするように、言った。
「ギルドで、決まってるんです…。パッシブポイントを購入された方には、必ずこの応援メッセージを、お伝えするようにって…」
そのあまりにも健気な姿。
それに、隼人はふっと息を吐き出し、そして笑った。
「…はっ。面白いじゃねえか。あんたが言うなら、目指してみるか」
その優しい一言。
それに、雫の顔が、これ以上ないほど真っ赤に染まった。
◇
ギルド本部を出た、隼人。
彼のインベントリには、二つの新たな力が宿っている。
そして、彼の手には、もう一つ渡すべき土産が、残されていた。
小樽の超有名洋菓子店、「LeTAO」の、ドゥーブルフロマージュ。
鳴海詩織への、贈り物だ。
(…さて、どうするか)
彼は、西新宿の雑踏の中で、立ち止まる。
彼女は、SSS級のトップサポーター。
雫のように、常にギルドにいるわけでは、ないだろう。
彼女の家に、直接届けるのが一番確実か?
だが、その場所を、彼は知らない。
彼は、悩んだ末、一つの結論に達した。
彼は、スマートフォンを取り出し、あの三人だけのグループLINEを開く。
そして彼は、短いメッセージを打ち込んだ。
JOKER:
「詩織さん、いるか?北海道の土産があるんだが、どうしたらいい?」
そのメッセージが送信された、そのコンマ数秒後。
既読の数字が、1ついた。
そして、それとほぼ同時に、返信が来た。
そのあまりにも速い、レスポンス。
詩織:
『あら、JOKERさん。ちょうど良かった。今、少しだけ時間が空いたところですの』
『では、こちらから招待しますので、承諾してくださいな』
そのメッセージの意味を、隼人が理解する、その前に。
彼のARコンタクトレンズの視界に、一つのシステムウィンドウが、ポップアップした。
『鳴海詩織が、あなたを彼女の隠れ家に招待しています。受け入れますか?』
【はい / いいえ】
「…なるほどな。これが、SSS級のやり方か」
彼は、そのあまりにもスマートな招待の仕方に感心しながら、頷いた。
彼は、その手にLeTAOの紙袋をしっかりと握りしめると、【はい】のボタンを、選択した。
その瞬間。
彼の目の前の、西新宿の雑踏の風景が、ぐにゃりと歪んだ。
そして、彼の目の前に、一つの青白い光を放つポータルが、音もなくその口を開けた。
彼は、一瞬だけ躊躇した。
だが、彼のギャンブラーとしての好奇心が、その躊躇を打ち破る。
彼は、意を決すると、その光の渦の中へと、その一歩を踏み出した。
◇
視界が白く染まり、そして再び色を取り戻した時、彼が立っていたのは、もはや西新宿の雑踏ではなかった。
そこに広がっていたのは、彼がこれまで一度も見たことのない、あまりにも美しく、そして荘厳な光景だった。
白亜の壁に、青い屋根が美しく映える、中世ヨーロッパの古城。
窓は、優雅なアーチ状になっており、バルコニーには、蔦の植物が美しく絡みついている。
そして、その周囲には、幾何学的にデザインされた広大なフランス式庭園が、どこまでも、どこまでも広がっていた。
中央には、美しい女神像が立つ、噴水。
色とりどりのバラが咲き誇る、アーチ。
綺麗に刈り込まれた、生垣の迷路。
そして、その全てを照らし出すのは、現実世界ではありえない、常に柔らかな、午後の日差しのような優しい光。
空気は澄み渡り、彼の頬を撫でる風は、心地よい湿度を含んでいる。
「…なんだ、ここは…」
彼の口から、素直な驚愕の声が漏れた。
その彼の声に、反応するように。
豪邸の巨大な扉が、ゆっくりとその口を開けた。
そして、中から現れたのは、一人の老紳士だった。
燕尾服を、完璧に着こなし、その背筋は、どこまでも真っ直ぐに伸びている。
その顔には、深い皺が刻まれているが、その瞳には、確かな知性と、そして忠誠の光が宿っていた。
「ようこそ、JOKER様。お待ちしておりました」
老紳士は、深々と、そして優雅に、お辞儀をした。
「主、詩織様が、応接室にてお待ちです。どうぞ、こちらへ」
そのあまりにも完璧な、執事のエスコート。
それに、隼人はなすすべもなく、従うしかなかった。
大理石の床。
高い天井には、きらびやかなシャンデリア。
壁には、有名な画家の絵画が、飾られている。
そのあまりにも、現実離れした空間。
彼は、自分が本当に現実世界にいるのか、それすらも分からなくなっていた。
やがて彼は、一つの巨大な扉の前へと、案内された。
執事が、その扉を、静かにノックする。
「詩織様。お客様を、お連れいたしました」
「ええ、どうぞ」
中から聞こえてきたのは、あの澄んだ、鈴の音のような声だった。
執事が扉を開けると、そこには、息を呑むような光景が広がっていた。
高い窓から、柔らかな光が差し込む、広大な応接室。
アンティーク調の、豪華な家具。
そして、その中央のソファに、彼女は静かに腰掛けていた。
青と白を基調とした、気品のあるローブアーマー。
その隣には、荘厳な軍旗が、立てかけられている。
ウェーブのかかった長い金髪が、光を反射して、キラキラと輝いていた。
鳴海詩織。
彼女は、隼人の姿を認めると、あの慈愛に満ちた微笑みを、浮かべた。
「ようこそ、JOKERさん。私の隠れ家へ」
彼女のその言葉に、隼人は、ようやく我に返った。
「…隠れ家、だと?」
「ええ」
詩織は、静かに頷いた。
「ここが、私の隠れ家と呼ばれる、特殊な空間です」
彼女は、立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。
その窓の外には、美しい庭園が広がっている。
「私達SSS級の探索者は、ある特殊な、非常に高価なアイテムを使って、このような自分だけの世界を、生成することができるんです」
「この空間の中は、全て私の思いのまま。温度も、湿度も、そしてこの風景すらも、自由に設定できる。一種の、私だけの世界ですわね」
そのあまりにも規格外の説明。
それに、隼人はただ唖然とするしかなかった。
これが、SSS級。
これが、神々の領域。
その圧倒的な力の差を、彼は改めて見せつけられていた。
「…なるほどな」
彼が、ようやく絞り出したのは、そんな一言だった。
そして彼は、我に返ると、手に持っていた紙袋を、彼女に差し出した。
「…とりあえず、これ。北海道に、ダンジョン攻略に行った、土産だ」
その不器用な手渡し。
それに、詩織は嬉しそうに、目を細めた。
彼女は、その紙袋を受け取ると、中を覗き込む。
「あら、まあ。LeTAOのドゥーブルフロマージュ。私の、大好物ですわ。ありがとう、JOKERさん。嬉しいです」
彼女のその、心からの感謝の言葉。
それに、隼人は少しだけ、救われたような気持ちになった。
「どんな、ダンジョンだったのですか?」
詩織が、尋ねる。
「A級の、氷の洞窟だ。HPの自動回復を、徹底的にメタってくる、いやらしい不人気ダンジョンだった」
「まあ、俺の敵じゃなかったがな」
彼のそのぶっきらぼうな、しかし確かな自信に満ちた言葉。
それに、詩織は楽しそうに、くすくすと笑った。
「ええ、そうでしょうね。あなたの配信、拝見しておりましたもの。見事な攻略でしたわ」
二人は、その後、しばらく他愛のない話をした。
お互いのビルドのこと。
最近のダンジョンのトレンド。
そして、次に挑むべきテーブルについて。
その時間は、隼人にとって、不思議なほど穏やかで、そして有意義なものだった。
やがて、彼はソファから立ち上がった。
「…そろそろ、帰る」
「あら、もうお帰りですの?もっと、ゆっくりしていかれればよろしいのに」
詩織は、少しだけ名残惜しそうな表情を、浮かべた。
だが、隼人は首を横に振った。
「いや、長居は無用だ。やるべきことが、まだ山ほどある」
そのストイックな言葉。
それに、詩織は静かに頷いた。
「…ええ、そうですね。あなたの時間は、有限なのですから」
彼女は、そう言うと、何もない空間に、その白い指先を滑らせた。
すると、彼の目の前に、再びあの青白い光のポータルが現れた。
「じゃあ、また」
詩織が、微笑む。
「ええ。いつでも、お待ちしておりますわ」
隼人は、その言葉を背中に感じながら、ポータルをくぐった。
そして、次の瞬間。
彼は、西新宿の雑踏の真ん中に、立っていた。
彼の手には、もう土産の紙袋はない。
だが、その心の中には、あの隠れ家の神々しい光景と、そして二人の軍師の温かい笑顔が、確かに残っていた。
彼の孤独だった戦いは、終わりを告げた。
ここから始まるのは、仲間と共に歩む、新たな物語。
その確かな予感が、彼の胸を熱くさせていた。