表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/491

第14話

 ダンジョンの入り口から浴びた夕日は、いつの間にか、西新宿のビル群の向こう側へと沈みかけていた。街は、一日の終わりと、新たな夜の始まりが混じり合う、魔法のような茜色に染まっている。

 神崎隼人は、その喧騒を背に、自分のアパートへと続く、薄暗い路地へと足を踏み入れた。数時間前、ここを飛び出した時とは、彼の内面は、そして、彼を取り巻く世界は、あまりにも大きく変わってしまっていた。


 ギシリ、と悲鳴を上げる階段を上り、自室のドアを開ける。

 鼻をつくのは、コンビニ弁当の容器が放つ、うっすらとした油の匂いと、淀んだ空気。換金所の、清潔で、どこか無機質な匂いとは、全く違う。彼の「現実」の匂いだった。

 部屋の中は、相変わらずの殺風景だ。万年床の布団、小さなローテーブル、そして、その上に無造作に置かれた、請求書の束。

 その光景は、先ほどまで彼がいた、華やかで、希望に満ちた世界との、あまりにも残酷なギャップを、まざまざと見せつけていた。水瀬雫の、あの太陽のような笑顔が、この薄暗い部屋では、まるで遠い世界の夢物語のように感じられる。


 隼人は、ドアを閉め、鍵をかけると、まるで儀式のように、ポケットから一つの封筒を取り出した。

 茶色の、事務用封筒。だが、今の彼にとって、これは、どんな高級なアタッシュケースよりも、重い価値を持っていた。

 彼は、テーブルの上の、コンビニ弁当の容器を乱暴に払い除け、その中央に、封筒を、そっと置いた。

 三万二千円。

 その、確かな「重み」。それは、紙幣の物理的な重さではない。彼が、命を賭け、自らの才覚を全て注ぎ込んで掴み取った、初めての「成果」の重みだった。


 彼は、その金を、どう使うべきか、思考を巡らせる。

 椅子に座り、封筒の隣に積まれた、請求書の束の一つを、手に取った。差出人は、大学病院。宛名は、妹・神崎美咲。

 彼は、その封筒を開けることなく、裏面に記された、無慈悲な数字の羅列を眺めた。桁が、いくつあるのか、もはや数える気にもなれない。

 この三万二千円を、この請求書の支払いに充てるか?

 一瞬、そんな考えが頭をよぎる。この金を送れば、美咲は、少しだけ、安心するかもしれない。病院からの、催促の電話に怯える日々から、ほんの少しだけ、解放されるかもしれない。


(…だが、それで、何になる?)


 隼人は、その甘い感傷を、即座に頭から追い出した。

 三万二千円。それは、この請求書の山の前では、あまりにも無力だ。焼け石に水、という言葉すら、生ぬるい。それは、砂漠に撒かれた、一滴の水滴のようなもの。一瞬で蒸発し、何も残らない。

 この金を、今、使ってしまうのは、愚者のすることだ。

 それは、ポーカーで、ようやく手に入れた種銭を、次の勝負に賭けることなく、テーブルを立ってしまうのと同じ。それは、ギャンブルの放棄であり、勝利の可能性を、自ら捨てる行為だ。


(これは、治療費じゃない)


 彼は、自分に言い聞かせるように、結論を下した。

(これは、次なる勝利を得るための、「軍資金」だ)


 この三万二千円を使い、自分の戦闘能力を、さらに高める。より強い装備を買い、より多くのポーションを揃え、より高レベルのダンジョンに挑めるだけの、力を手に入れる。そして、さらに大きなリターンを得る。3万円を、30万円に。30万円を、300万円に。そうやって、雪だるま式に、勝利を積み重ねていく。

 それこそが、この「ダンジョン」という巨大なカジノで、最終的に勝利するための、唯一の方法。

 妹を救うという、途方もないジャックポットを当てるための、ただ一つの、正しい戦略。

 彼は、この金を、未来への「投資」に使うことを、完全に決意した。


 隼人は、封筒を手に取ると、その中身を確かめることなく、机の引き出しの奥深くへとしまい込んだ。そして、代わりに、彼は、部屋の隅で、白い布をかぶって眠っていた、もう一人の「相棒」へと、向き直った。




 隼人が布を取り払うと、そこから現れたのは、今ではほとんど見かけることのなくなった、旧式の、ベージュ色のデスクトップパソコンだった。彼が高校を中退する前、なけなしのバイト代をはたいて買った、彼の青春時代の遺物。

 その筐体は、うっすらと埃をかぶり、モニターも、一昔前の液晶ディスプレイだ。だが、隼人は、その古びた機械を、まるで長年の友に接するかのように、優しく、丁寧に起動させた。

 ブォン、という、時代遅れの大きなファンが回る音と共に、モニターに、見慣れたOSのロゴが浮かび上がる。起動するまでに、数分を要する、忍耐のいるマシン。だが、今の彼にとって、それは、世界で最も信頼できる、情報収集ツールだった。


 彼は、ギャンブラーとして、新たなテーブル(戦場)のルールを、徹底的に学ぶことの重要性を、骨身に染みて理解していた。

 勘や運だけで勝ち続けられるほど、勝負の世界は甘くない。勝つためには、情報が必要だ。相手の癖、場の流れ、確率、セオリー。あらゆる情報を収集し、分析し、自分の中で再構築して、初めて、勝利への道筋が見えてくる。

 ダンジョンも、同じはずだ。


 彼が向かう先は、決まっていた。

 ブラウザを立ち上げ、検索窓に、慣れた手つきで、その名前を打ち込む。


SeekerNetシーカーネット


 日本最大の、探索者専用コミュニティサイト。

 そこは、トップランカーたちの武勇伝から、新人探索者の悲痛な叫びまで、ありとあらゆる情報が渦巻く、巨大な情報の海だった。

 サイトのトップページには、リアルタイムで更新される「人気スレッドランキング」が表示されている。

 1位:【速報】“雷帝”神宮寺猛、新宿A級ダンジョンをソロで踏破!

 2位:【議論】次期アップデートで、魔術師クラスは弱体化するのか?

 3位:【悲報】俺のパーティー、またもや全滅…

 そして、そのランキングの5位あたりに、隼人は、見慣れた、そして、今は少しだけ気恥ずかしい文字列を見つけた。

『【衝撃】謎の新人「JOKER」、F級ダンジョンで国宝級アイテムを創造【動画あり】』

 彼は、そのスレッドを、意識的に無視した。今の彼に必要なのは、名声や、他人の評価ではない。ただ、勝利に繋がる、純粋な「情報」だけだ。


 彼は、サイト内の検索機能を使い、目的の掲示板へと移動する。

『初心者質問スレ Part.258』

『【ヲチ】痛い探索者配信者を語るスレ』

『【ギルド】関東圏の優良ギルド、ブラックギルド情報交換』

 様々なスレッドが、彼の目の前を流れていく。自慢話、愚痴、誹謗中傷、そして、ほんのわずかな、有益な情報。情報の洪水。普通の人間なら、この中から自分に必要な情報だけを抜き出すのは、至難の業だろう。


 だが、隼人の目は、違った。

 彼は、雀荘で、卓上の全ての牌と、三人のプレイヤーの表情や癖を、同時に記憶し、分析する。彼の脳は、膨大な情報の中から、ノイズを的確に除去し、本質シグナルだけを抜き出すことに、特化していた。

 彼は、鋭い目で、スレッドのタイトルと、書き込みの数、そして、最初の数行だけを、高速でスキャンしていく。

「〇〇ダンジョンのボス、倒したぜ!」――ただの自慢話。中身はない。無視。

「このユニーク武器、いくらで売れる?」――今の俺には関係ない。無視。

「パーティーメンバー募集@新宿」――ソロでやると決めている。無視。

「助けて!ゴブリンに勝てません!」――これは、少しだけ価値があるかもしれない。なぜ、彼らが負けるのか。その理由を分析すれば、自分の立ち回りの改善に繋がる。彼は、このスレッドを、後で読むために、別タブで開いた。


 彼は、まるで熟練のハッカーのように、情報の海を泳ぎ渡っていく。

 そして、彼は、自らの検索ワードを、より、具体的に絞り込んでいった。

『戦士』『初心者』『ビルド』『立ち回り』『F級ダンジョン』『装備』『セオリー』

 彼の指が、キーボードの上を滑るように踊る。

 検索結果として表示された、何百というスレッドの中から、彼は、さらに、情報の取捨選択を行っていく。

 書き込みが感情的なものは、排除。

 データの裏付けがない、憶測だけのものは、排除。

 特定のギルドや装備を、不自然に賞賛しているものは、ステルスマーケティングの可能性が高い。排除。


 そして、数十分後。

 彼は、何百というノイズの中から、たった一つ、これは本物だと直感する、一筋の光る原石を、見つけ出した。

 それは、『戦士クラス総合スレ』の、スレッド一覧の最も上に、常に表示されるように設定された、「固定スレッド」だった。

 そのタイトルは、無骨で、飾り気がなく、しかし、それ故に、圧倒的な信頼感を放っていた。


『【永久保存版】新米戦士が、F級ダンジョンで、まず死なないための10の掟』


 隼人は、そのスレッドのリンクを、クリックした。

 彼の、次なる戦いを決定づける、重要な「情報」が、今、目の前に開かれようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ