第14話
ダンジョンの入り口から浴びた夕日は、いつの間にか、西新宿のビル群の向こう側へと沈みかけていた。街は、一日の終わりと、新たな夜の始まりが混じり合う、魔法のような茜色に染まっている。
神崎隼人は、その喧騒を背に、自分のアパートへと続く、薄暗い路地へと足を踏み入れた。数時間前、ここを飛び出した時とは、彼の内面は、そして、彼を取り巻く世界は、あまりにも大きく変わってしまっていた。
ギシリ、と悲鳴を上げる階段を上り、自室のドアを開ける。
鼻をつくのは、コンビニ弁当の容器が放つ、うっすらとした油の匂いと、淀んだ空気。換金所の、清潔で、どこか無機質な匂いとは、全く違う。彼の「現実」の匂いだった。
部屋の中は、相変わらずの殺風景だ。万年床の布団、小さなローテーブル、そして、その上に無造作に置かれた、請求書の束。
その光景は、先ほどまで彼がいた、華やかで、希望に満ちた世界との、あまりにも残酷なギャップを、まざまざと見せつけていた。水瀬雫の、あの太陽のような笑顔が、この薄暗い部屋では、まるで遠い世界の夢物語のように感じられる。
隼人は、ドアを閉め、鍵をかけると、まるで儀式のように、ポケットから一つの封筒を取り出した。
茶色の、事務用封筒。だが、今の彼にとって、これは、どんな高級なアタッシュケースよりも、重い価値を持っていた。
彼は、テーブルの上の、コンビニ弁当の容器を乱暴に払い除け、その中央に、封筒を、そっと置いた。
三万二千円。
その、確かな「重み」。それは、紙幣の物理的な重さではない。彼が、命を賭け、自らの才覚を全て注ぎ込んで掴み取った、初めての「成果」の重みだった。
彼は、その金を、どう使うべきか、思考を巡らせる。
椅子に座り、封筒の隣に積まれた、請求書の束の一つを、手に取った。差出人は、大学病院。宛名は、妹・神崎美咲。
彼は、その封筒を開けることなく、裏面に記された、無慈悲な数字の羅列を眺めた。桁が、いくつあるのか、もはや数える気にもなれない。
この三万二千円を、この請求書の支払いに充てるか?
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。この金を送れば、美咲は、少しだけ、安心するかもしれない。病院からの、催促の電話に怯える日々から、ほんの少しだけ、解放されるかもしれない。
(…だが、それで、何になる?)
隼人は、その甘い感傷を、即座に頭から追い出した。
三万二千円。それは、この請求書の山の前では、あまりにも無力だ。焼け石に水、という言葉すら、生ぬるい。それは、砂漠に撒かれた、一滴の水滴のようなもの。一瞬で蒸発し、何も残らない。
この金を、今、使ってしまうのは、愚者のすることだ。
それは、ポーカーで、ようやく手に入れた種銭を、次の勝負に賭けることなく、テーブルを立ってしまうのと同じ。それは、ギャンブルの放棄であり、勝利の可能性を、自ら捨てる行為だ。
(これは、治療費じゃない)
彼は、自分に言い聞かせるように、結論を下した。
(これは、次なる勝利を得るための、「軍資金」だ)
この三万二千円を使い、自分の戦闘能力を、さらに高める。より強い装備を買い、より多くのポーションを揃え、より高レベルのダンジョンに挑めるだけの、力を手に入れる。そして、さらに大きなリターンを得る。3万円を、30万円に。30万円を、300万円に。そうやって、雪だるま式に、勝利を積み重ねていく。
それこそが、この「ダンジョン」という巨大なカジノで、最終的に勝利するための、唯一の方法。
妹を救うという、途方もないジャックポットを当てるための、ただ一つの、正しい戦略。
彼は、この金を、未来への「投資」に使うことを、完全に決意した。
隼人は、封筒を手に取ると、その中身を確かめることなく、机の引き出しの奥深くへとしまい込んだ。そして、代わりに、彼は、部屋の隅で、白い布をかぶって眠っていた、もう一人の「相棒」へと、向き直った。
隼人が布を取り払うと、そこから現れたのは、今ではほとんど見かけることのなくなった、旧式の、ベージュ色のデスクトップパソコンだった。彼が高校を中退する前、なけなしのバイト代をはたいて買った、彼の青春時代の遺物。
その筐体は、うっすらと埃をかぶり、モニターも、一昔前の液晶ディスプレイだ。だが、隼人は、その古びた機械を、まるで長年の友に接するかのように、優しく、丁寧に起動させた。
ブォン、という、時代遅れの大きなファンが回る音と共に、モニターに、見慣れたOSのロゴが浮かび上がる。起動するまでに、数分を要する、忍耐のいるマシン。だが、今の彼にとって、それは、世界で最も信頼できる、情報収集ツールだった。
彼は、ギャンブラーとして、新たなテーブル(戦場)のルールを、徹底的に学ぶことの重要性を、骨身に染みて理解していた。
勘や運だけで勝ち続けられるほど、勝負の世界は甘くない。勝つためには、情報が必要だ。相手の癖、場の流れ、確率、セオリー。あらゆる情報を収集し、分析し、自分の中で再構築して、初めて、勝利への道筋が見えてくる。
ダンジョンも、同じはずだ。
彼が向かう先は、決まっていた。
ブラウザを立ち上げ、検索窓に、慣れた手つきで、その名前を打ち込む。
『SeekerNet』
日本最大の、探索者専用コミュニティサイト。
そこは、トップランカーたちの武勇伝から、新人探索者の悲痛な叫びまで、ありとあらゆる情報が渦巻く、巨大な情報の海だった。
サイトのトップページには、リアルタイムで更新される「人気スレッドランキング」が表示されている。
1位:【速報】“雷帝”神宮寺猛、新宿A級ダンジョンをソロで踏破!
2位:【議論】次期アップデートで、魔術師クラスは弱体化するのか?
3位:【悲報】俺のパーティー、またもや全滅…
そして、そのランキングの5位あたりに、隼人は、見慣れた、そして、今は少しだけ気恥ずかしい文字列を見つけた。
『【衝撃】謎の新人「JOKER」、F級ダンジョンで国宝級アイテムを創造【動画あり】』
彼は、そのスレッドを、意識的に無視した。今の彼に必要なのは、名声や、他人の評価ではない。ただ、勝利に繋がる、純粋な「情報」だけだ。
彼は、サイト内の検索機能を使い、目的の掲示板へと移動する。
『初心者質問スレ Part.258』
『【ヲチ】痛い探索者配信者を語るスレ』
『【ギルド】関東圏の優良ギルド、ブラックギルド情報交換』
様々なスレッドが、彼の目の前を流れていく。自慢話、愚痴、誹謗中傷、そして、ほんのわずかな、有益な情報。情報の洪水。普通の人間なら、この中から自分に必要な情報だけを抜き出すのは、至難の業だろう。
だが、隼人の目は、違った。
彼は、雀荘で、卓上の全ての牌と、三人のプレイヤーの表情や癖を、同時に記憶し、分析する。彼の脳は、膨大な情報の中から、ノイズを的確に除去し、本質だけを抜き出すことに、特化していた。
彼は、鋭い目で、スレッドのタイトルと、書き込みの数、そして、最初の数行だけを、高速でスキャンしていく。
「〇〇ダンジョンのボス、倒したぜ!」――ただの自慢話。中身はない。無視。
「このユニーク武器、いくらで売れる?」――今の俺には関係ない。無視。
「パーティーメンバー募集@新宿」――ソロでやると決めている。無視。
「助けて!ゴブリンに勝てません!」――これは、少しだけ価値があるかもしれない。なぜ、彼らが負けるのか。その理由を分析すれば、自分の立ち回りの改善に繋がる。彼は、このスレッドを、後で読むために、別タブで開いた。
彼は、まるで熟練のハッカーのように、情報の海を泳ぎ渡っていく。
そして、彼は、自らの検索ワードを、より、具体的に絞り込んでいった。
『戦士』『初心者』『ビルド』『立ち回り』『F級ダンジョン』『装備』『セオリー』
彼の指が、キーボードの上を滑るように踊る。
検索結果として表示された、何百というスレッドの中から、彼は、さらに、情報の取捨選択を行っていく。
書き込みが感情的なものは、排除。
データの裏付けがない、憶測だけのものは、排除。
特定のギルドや装備を、不自然に賞賛しているものは、ステルスマーケティングの可能性が高い。排除。
そして、数十分後。
彼は、何百というノイズの中から、たった一つ、これは本物だと直感する、一筋の光る原石を、見つけ出した。
それは、『戦士クラス総合スレ』の、スレッド一覧の最も上に、常に表示されるように設定された、「固定スレッド」だった。
そのタイトルは、無骨で、飾り気がなく、しかし、それ故に、圧倒的な信頼感を放っていた。
『【永久保存版】新米戦士が、F級ダンジョンで、まず死なないための10の掟』
隼人は、そのスレッドのリンクを、クリックした。
彼の、次なる戦いを決定づける、重要な「情報」が、今、目の前に開かれようとしていた。