第138話
A級ダンジョン【雪と氷の洞窟】の攻略を終えた、神崎隼人。
彼は、その足で東京へ帰ることはしなかった。
彼の頭の中には、一つの新しい「クエスト」が生まれていた。
それは、ギルドから与えられたものでも、視聴者から求められたものでもない。
彼が、自らの意思で初めて設定した、クエストだった。
(…土産、買うか)
そのあまりにも唐突な、そして彼らしくない発想。
それに、彼自身が少しだけ驚いていた。
だが、その思いは、彼の心の中で、確かな形を持っていた。
この二日間の、北海道での旅。
スープカレーの、衝撃的な美味さ。
小樽の、ノスタルジックな街並み。
そして、藻岩山から見た、あの光の海。
そのささやかな、しかし確かな感動。
それを、東京で待つ大切な人たちと、分かち合いたい。
そんな、彼がこれまで一度も抱いたことのない、温かい感情が芽生えていたのだ。
彼の脳裏に、三人の女性の顔が浮かぶ。
妹の美咲。
そして、雫と詩織。
「…面倒くせえな」
彼は、そう悪態をつきながらも、その口元は、確かに笑っていた。
彼は、配信のスイッチを入れた。
タイトルは、『【緊急クエスト】JOKER、初めてのお土産選び』。
そのあまりにも平和なタイトルに、コメント欄が爆発した。
『は!?お土産!?』
『JOKERさんがお土産だと!?』
『誰にだよ!まさか、あの三人に…!?』
『JOKERの、ハーレム土産選び配信、きたああああ!』
その熱狂をBGMに、彼は白石雪奈に連絡を取り、新千歳空港へと車を走らせてもらった。
国内線ターミナルビル。そこは、もはやただの空港ではない。
北海道の全ての魅力が凝縮された、巨大なエンターテイメント施設。
そして、JOKERにとっての、新たな「ダンジョン」だった。
彼がまず向かったのは、北海道土産の、王道中の王道。
白いパッケージが、山のように積まれた一角だった。
ターゲットは、水瀬雫。
彼の最初のファンであり、最高の軍師の一人。
彼女には、何を贈るべきか。
(…あいつは、いつもきっちりしてるからな。あまり、突飛なものを贈っても、困らせるだけか)
彼は、思う。
(それに、ギルドの同僚もいるだろう。みんなで、分けられるようなものがいい)
彼の思考は、極めて合理的だった。
そして、彼の足は、自然とあの絶対的な王者、【白い恋人】の前で止まった。
「…まあ、これなら間違いないだろ」
彼は、そう呟くと、一番大きな箱を一つ、手に取った。
そのあまりにもベタな、しかしそれ故に完璧な選択。
それに、コメント欄もまた、温かいツッコミで溢れていた。
『JOKERさん、手堅い!www』
『白い恋人は、正義!』
『雫さん、絶対喜ぶって!』
次に、彼が向かったのは、同じフロアにある、少し高級な洋菓子店だった。
ガラスのショーケースの中に、宝石のように美しいケーキや、焼き菓子が並んでいる。
彼の次のターゲット。
それは、鳴海詩織。
【軍旗の聖女】と謳われる、SSS級のトップサポーター。
彼女には、そこらの土産物では通用しないだろう。
彼のギャンブラーとしてのプライドが、そう告げていた。
彼は、ショーケースの中を、じっくりと吟味する。
そして彼は、一つのチーズケーキの前で、足を止めた。
それは、小樽に本店を構える超有名洋菓子店、「LeTAO」の、ドゥーブルフロマージュ。
濃厚なベイクdチーズケーキと、爽やかなレアチーズケーキが二層になった、奇跡の口溶けを誇る、北海道スイーツの女王。
(…あいつほどのトップランカーなら、美味いものは食い慣れてるだろう)
彼は、思う。
(だが、それでも、これなら文句はねえはずだ)
彼は、その極上のチーズケーキを、一つ注文した。
その洗練された選択。
それに、コメント欄もまた、賞賛の声を送っていた。
『LeTAOは、ガチ!』
『詩織さん、絶対喜ぶ!』
『JOKER、やるじゃん…!』
二人の重要な協力者への贈り物は、決まった。
だが、本当の難関は、ここからだった。
彼の最後の、そして最も大切なターゲット。
妹、神崎美咲。
彼女には、何を贈ればいい?
ただ美味いだけの、お菓子じゃダメだ。
ただ高価なだけの、贈り物も違う。
病室のベッドの上で、一日中過ごしている彼女。
その灰色の日々を、少しでも彩ることができるような、そんな特別な何か。
彼の思考が、初めて本当の意味で、迷宮へと迷い込んだ。
彼は、スイーツのエリアを後にした。
そして、空港の広いターミナルを、当てもなく彷徨い続けた。
数十分が、経過した。
彼の額に、じわりと汗が滲む。
ダンジョン攻略よりも、難しい。
彼は、心の底からそう思った。
その彼の、途方に暮れた姿。
それに、コメント欄が、様々な提案をし始めた。
『木彫りの熊とか、どうだ?』
『いや、いらねえだろwww』
『ラベンダーのポプリとか、癒されるんじゃない?』
『白いとうもろこし!あれ、めちゃくちゃ美味いぞ!』
その無数の善意の声。
それに、隼人は少しだけ、救われたような気持ちになった。
そして彼は、ついに一つの店の前で、足を止めた。
そこは、オルゴールやガラス細工といった、北海道の美しい工芸品を扱う店だった。
彼は、その店の中に、吸い込まれるように入っていく。
そして彼は、それと出会った。
それは、手のひらに収まるほどの、小さなガラスのスノードームだった。
ドームの中には、雪が降り積もる静かな森と、その中で寄り添う、二匹の白いウサギ。
彼が、その底のネジを巻くと。
流れ出したのは、あまりにも優しく、そしてどこか切ないメロディーだった。
それは、彼が幼い頃、母親がよく歌ってくれた、子守唄。
その懐かしい音色を聞いた、瞬間。
彼の心の中に、これまで忘れていた、温かい記憶が蘇ってきた。
そうだ。
この歌を聞くと、美咲はいつも、安心したように眠りについたんだった。
「…これだ」
彼は、呟いた。
その声は、確信に満ちていた。
彼は、その小さなスノードームを、大切に両手で包み込むように、レジへと持っていった。
そして彼は、もう一つ、彼女が喜びそうなものを思い出した。
北海道の有名菓子店、「六花亭」の、バターサンド。
濃厚なバタークリームと、ラムレーズンをクッキーで挟んだ、あのどこか懐かしい味。
きっと、彼女も気に入るはずだ。
彼の初めての、そして最も難しいクエストは、こうして最高の形で、幕を閉じた。
彼のインベントリには、三つの全く違う、しかしそれぞれの想いが込められたお土産が、収められている。
彼の心は、これ以上ないほどの満足感と、そして温かい何かで、満たされていた。
彼は、空港の搭乗ゲートへと向かう。
窓の外には、彼を東京へと連れ帰る飛行機が、待っていた。
◇
東京の夜。
西新宿の、大学病院。
その、一室。
隼人は、数日ぶりに、妹の美咲と顔を合わせていた。
彼は、そのぎこちない手つきで、北海道で買ってきたお土産を、彼女に手渡した。
「…これ」
「わあ、ありがとう、お兄ちゃん!六花亭のバターサンドだ!食べたかったんだ、これ!」
美咲は、子供のように目を輝かせた。
そして彼は、もう一つ、小さな包みを、彼女に差し出した。
「…こっちが、本命だ」
美咲が、その包みを開けると。
中から、あの美しいスノードームが現れた。
彼女は、そのスノードームを手に取り、ゆっくりと、そのネジを巻いた。
病室に響き渡る、優しく、懐かしいメロディー。
その音色を聞いた、瞬間。
美咲の大きな瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではない。
絶望の淵から引き上げられた、純粋な歓喜の涙だった。
「…この歌…」
「ああ」
隼人は、短く頷く。
「お前が、好きだったろ」
「…うん」
美咲は、何度も頷きながら、涙を拭った。
そして彼女は、心の底からの、最高の笑顔を、彼に向けた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「最高の、お土産だよ」