第137話
洞窟の内部は、彼の想像を遥かに超える、極寒の世界だった。
壁も、床も、天井も、全てが青白い氷で形成されている。
その氷の壁は、まるでダイヤモンドのように、内部から淡い光を放ち、この広大な空間を、ぼんやりと幻想的に照らし出していた。
空気は、ひんやりと澄み渡り、呼吸をするだけで、肺が凍てつくような錯覚。
そして、彼がその氷の回廊へと、最初の一歩を踏み出した、その瞬間だった。
彼の全身を、これまで経験したことのない、鋭い痛みが襲った。
まるで、無数の見えない氷の針が、彼の肌を内側から突き刺してくるかのような感覚。
彼のARウィンドウに、システムメッセージが表示される。
【エリア効果: 絶対零度】
【効果: 内部にいる全てのプレイヤーは、秒間50のHP継続ダメージを受ける】
「…ほう」
彼の口から、感嘆の声が漏れた。
「これが、A級の洗礼か。面白い」
彼は、その痛みを楽しむかのように、自らのステータスウィンドウを確認する。
彼の赤いHPバーが、確かにその輝きを失っていく。
秒間、50。
B級のボスが放つ、強力な呪詛に匹敵するダメージ。
それが、ただこの場所にいるだけで、永続的に発生する。
なるほどなと、彼は思った。
これでは、確かにB級上位のパーティでも、心が折れる。
ライフフラスコが、いくつあっても足りないだろう。
だが、彼は慌てない。
彼の表情には、焦りの色など、微塵もなかった。
彼のHPバー。
差し引き、秒間90以上のプラス。
彼のHPは、減るどころか、むしろ増えていく。
そのあまりにも理不尽な光景。
それに、コメント欄が爆発した。
『うおおおおお!効いてねえ!』
『リジェネが、ダンジョンダメージを上回ってるぞ!』
『なんだ、このビルドは!A級のギミックを、完全に無効化してやがる!』
『これが…JOKERの答えか…!』
「悪いが」
彼は、ARカメラの向こうの、熱狂する観客たちに、語りかける。
「このテーブルは、俺にとって、ただのボーナスステージだ」
その絶対的な王者の宣言。
その言葉を裏付けるかのように、彼はその氷の回廊を、まるで散歩でもするかのように、悠然と歩き始めた。
そして、彼は、この洞窟の最初の住人と遭遇する。
それは、氷で作られた、巨大な狼だった。
その半透明の体の中では、青白い魔力の光が、心臓のように脈打っている。
【フロスト・ウルフ】。
A級の雑魚モンスター。
その群れが、彼を発見すると、一斉にその鋭い氷の牙を、剥き出しにして襲いかかってきた。
その動きは、速い。
C級のグラディエーターとは比較にならない、神速の踏み込み。
だが、今の隼人の目には、その全てが、スローモーションのように見えていた。
(…なるほどな。A級は、回避力も高いか)
彼は、その狼たちの動きの中に、わずかな、しかし確かな「隙」を、見出していた。
彼の長剣が、唸りを上げる。
【通常技】無限斬撃。
だが、その神速の一撃は、空を切った。
狼は、まるで未来を予知していたかのように、その体をひらりとかわし、彼の死角へと回り込もうとする。
『Miss』
無慈悲なシステムメッセージ。
A級の洗礼、その二。
75%で、外れる。
彼の高い精度をもってしても、攻撃が確実に当たるわけではない。
これが、A級のテーブルの、もう一つのルールだった。
だが、隼人は動じない。
(当たらねえなら、当たるまで斬ればいい)
彼の思考は、どこまでもシンプルだった。
彼は、その場で回転した。
長剣を、まるで風車のように、振り回す。
その全方位への、斬撃の嵐。
それに、フロスト・ウルフたちは、なすすべもなかった。
そのうちの数発が、確かに狼たちの氷の体を捉え、砕き、そして光の粒子へと変えていく。
「…チッ、面倒だな」
彼は、舌打ちした。
そして彼は、このA級という新たなテーブルの戦い方を、瞬時に最適化していく。
彼は、もはや一体一体を狙わない。
彼の必殺技が、炸裂した。
【衝撃波の一撃】。
彼は、それを四連発、叩き込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
広大な氷の回廊が、その衝撃に揺れ動く。
狼たちの群れは、その圧倒的な範囲攻撃の前に、なすすべもなく吹き飛ばされ、そしてそのほとんどが、戦闘不能に陥っていた。
残ったのは、わずか三割。
そして、その生き残った狼たち。
彼らが、最後の抵抗を試みようとした、その瞬間だった。
彼らの口から吐き出されたのは、白い、凍てつく息。
それが、隼人の体を捉えた。
そして、彼の体に、これまで感じたことのない悪寒が走った。
チリと、肌を刺すような冷気。
そして、彼のステータスウィンドウに、一つの見慣れないデバフアイコンが、表示された。
《凍傷》
「…おっ」
彼の口から、待ってましたとばかりに、声が漏れた。
「やっぱり、来たか」
彼の体が、わずかに重くなる。
そして、彼のHPバーが、ゆっくりと、しかし確実に、削られていく。
だが、彼は慌てない。
彼は、そのデバフを楽しむかのように、静かに自らのオーラを切り替えた。
【自動呪言】を、オフに。
そして、【吹雪の鎧】を、オンに。
彼の体を、ダイヤモンドダストのようなオーラが包み込む。
その瞬間。
彼の体を蝕んでいた凍傷の呪いが、その進行を、ぴたりと止めた。
これ以上、スタックすることはない。
そして、凍結へと至ることもない。
「なるほどな」
彼は、このダンジョンの全てのギミックを、完全に理解した。
「常時HPダメージ、高い回避力、そして凍傷のスタックか」
「この三つの対策を、同時に用意しなきゃならねえ。…確かに、これは不人気になるわけだ」
彼は、その理不尽なまでの難易度に感心しながらも、その口元には、絶対的な王者の笑みが浮かんでいた。
なぜなら、その全ての「回答」を、彼はすでに手にしていたからだ。
彼は、残った狼たちを、もはやただの作業として、処理していく。
そして、彼は、この氷の迷宮の、さらに奥深くへと、その歩みを進めていった。
そうして、彼がこの洞窟の最深部にたどり着いた、その時。
そこに待ち受けていたのは、一体の巨大な影だった。
それは、まるで山そのものが人の形を取ったかのような、巨大な氷の巨人。
その両腕は、鋭利な氷の剣となっている。
その顔のない、のっぺりとした頭部。
その中心で、ただ一つの巨大な青い目が、不気味に輝いていた。
【氷の巨人】。
この洞窟の主。
「――面白い。最高の、相手じゃねえか」
隼人は、その圧倒的なプレッシャーを前にして、しかし不敵に笑った。
そして、彼は動いた。
その初手は、もはや彼の代名詞とも言える、あの技。
必殺の、4連撃。
【衝撃波の一撃】。
彼は、そのありったけの魔力を解放し、氷の巨人へと叩き込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
一発、二発、三発、四発。
その質量の暴力は、確かに巨人の硬い氷の体を、削り取っていく。
あっという間に、巨人のHPバーは、5割まで削られた。
そのあまりにも一方的な展開。
誰もが、彼の圧勝を確信した。
だが、巨人はまだ倒れてはいなかった。
そのHPが半分になった、その瞬間。
巨人が、咆哮を上げた。
そして、その咆哮に呼応するかのように、洞窟全体が激しく揺れ動いた。
天井から、無数の巨大な氷柱が降り注ぐ。
そして、地面が凍てつき、白い吹雪が視界を覆い尽くした。
フィールド全体が、変化する。
そして、その吹雪の中にいる全ての存在に、新たなデバフが、付与された。
秒間HP、110ダメージ。
それは、このダンジョンのエリアダメージと合わせて、秒間160。
彼のリジェネを、わずかに上回るダメージ。
「なるほどね」
彼は、その徹底的な嫌がらせに、感心したように言った。
「徹底的に、HP秒間ダメージに特化した、ダンジョンってわけだ」
彼は、そこで一度言葉を切ると、最高の不敵な笑みで、締めくくった。
「だけど、残念ながら、対策済みだからな。――イージーテーブルってわけだ」
そうだ。
彼のリジェネは、確かに相殺された。
だが、彼のベルトには、まだ最強の保険が残されている。
ライフフラスコ。
そして、パリィによる回復。
彼は、死なない。
その絶対的な自信が、彼を支えていた。
彼は、吹雪の中を、突き進む。
そして彼は、そのありったけの魂を込めて、最後の4連撃を、叩き込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
氷の巨人は、断末魔の悲鳴を上げる暇も、与えられなかった。
ただ、その巨体を一瞬で光の粒子へと変え、この世界から、完全に消滅した。
静寂が戻る。
後に残されたのは、山のようなドロップアイテムと、そしてその中心で、静かに剣を納める一人の王者の姿だけだった。
そして彼は、見た。
そのアイテムの山の中に、ひときわ強く、そして神々しい虹色の光を放つ、一つの指輪を。
ユニーク指輪が、ドロップしたのだ。
彼は、それを手に取った。
ARシステムが、その詳細な性能を表示する。
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名前: 霜降りの指輪
種別: ユニーク・指輪
装備条件: レベル40
【ユニーク特性】
最大ライフ +220
最大マナ +50
冷気耐性 +45%
あなたは凍結しない
あなたのスキルによるMP消費が25%減少する
【フレーバーテキスト】
その冷たさは、絶望ではない。思考をクリアにし、次なる一手へと導く、静かなる意志。
「ほう」
彼は、その性能を一瞥し、感嘆の声を漏らした。
「良い、ユニーク指輪を拾ったな」
彼は、その指輪を吟味する。
そして彼は、冷静にその価値を判断した。
「まあ、凍結対策は既にあるし、使わないし、売りだな」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、問いかけた。
その声は、もはや日常の雑談の、それだった。
「いくらだ、これ?」
その問いかけに、コメント欄の有識者たちが即座に反応した。
『HP、MP、耐性、凍結無効、そしてMPコスト削減…。なんだ、このてんこ盛りの性能は…!』
『欲しい!喉から、手が出るほど欲しい!』
『相場は、1500万円代ってところかな。いや、もっといくか…?』
その熱狂的なコメント。
それに、隼人は満足げに頷いた。
そして彼は、その日のショーを締めくくった。
その声は、絶対的な王者の、それだった。
「A級の、臨時報酬としては、美味しいな」
彼のA級への挑戦は、最高の形で幕を開けた。
彼の伝説は、まだ始まったばかりだ。