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第136話

 羽田空港の無機質な喧騒。

 神崎隼人 "JOKOKER" は、その人の波を、まるで存在しないかのようにすり抜けながら、北へと向かう翼の搭乗ゲートを探していた。

 彼のインベントリには、B級ダンジョンを蹂躙するには十分すぎるほどの、完成された装備が眠っている。銀行口座には、普通の22歳が、一生かかっても目にすることのないであろう額の現金が。

 だが、彼がその身に纏っているのは、何の変哲もない黒のパーカーと、履き古したジーンズだけ。その姿は、どこにでもいる、少しだけ目つきの悪い、普通の若者にしか見えなかった。

 数時間後、彼の体が、これまで感じたことのない、澄み切った、ひんやりとした空気に包まれた。

 新千歳空港。

 北の大地、北海道への玄関口。

 東京のアスファルトと、排気ガスと、人々の欲望が入り混じった、淀んだ空気とは、何もかもが違っていた。彼は、そのあまりにも綺麗な空気を、深く、深く、肺へと吸い込んだ。


「…なるほどな。空気がうまい」


 彼の口から、素直な、そしてどこか場違いな感想が漏れた。

 彼は、到着ロビーへと向かう。

 約束の待ち合わせ場所。

 ギルドの職員が、迎えに来ているはずだった。

 彼の脳内に浮かんでいたのは、生真面目そうなスーツ姿の中年男性。あるいは、いかにも役人といった、表情の乏しい女性。

 だが、彼の目の前に現れたのは、そのどちらでもなかった。


「あ!あの!もしかして、JOKERさんですか!?」


 弾むような、明るい声。

 彼の目の前に立っていたのは、一人の若い女性だった。

 年の頃は、彼と同じくらいだろうか。

 その身を包んでいるのは、ギルドの制服ではない。機能的で、しかし洗練されたデザインの、アウトドアブランドのジャケット。その下には、温かそうな白いニット。

 そして、何よりも印象的だったのは、その銀色にも見える明るい髪と、北国の厳しい寒さにも、決して屈しないとでも言うかのような、快活で、屈託のない笑顔だった。

 彼女の胸元には、ギルド職員であることを示す、身分証が揺れている。

 そこには、『北海道支部 渉外担当 白石 雪奈』と、記されていた。


「――あなたがあの、JOKERさん!?うわー、本物だー!よろしくお願いします!」


 雪奈は、その大きな瞳を、子供のようにキラキラと輝かせ、隼人へとその手を差し出した。

 そのあまりにも天真爛漫な歓迎。

 それに、隼人は少しだけ面食らった。

 彼は、その差し出された手を、一瞬だけ見つめ、そして自らの手を、おずおずと差し出した。

 そのぎこちない握手。


「…どうも」


 彼が、ようやく絞り出したのは、そんな素っ気ない一言だけだった。

 このあまりにも対照的な二人の、奇妙な旅が、今、始まった。


 ◇


「というわけで、JOKERさん!北海道へ、ようこそ!」

 空港から札幌市内へと向かう、ギルドの公用車の中。

 ハンドルを握る雪奈の明るい声が、車内に響き渡る。

「いやー、まさか、あのJOKERさんの案内役を、私が担当させてもらえるなんて、夢みたいです!昨日の夜、上司から連絡があった時は、思わず三度見くらいしちゃいましたよ!」

「…そうか」

「はい!だって、あの伝説の!JOKERですよ!?私、あなたの配信、全部見てますから!特に、骸骨の百人隊長戦の、あのパリィからのカウンター!鳥肌立ちました!あれ、どうやってるんですか!?何か、コツとかあるんですか!?」

 矢継ぎ早に繰り出される、質問の嵐。

 それは、ギルド職員としての業務的なものではない。

 ただの、一人の熱狂的なファンのそれだった。

 隼人は、そのあまりの勢いに、少しだけ気圧されながら、短く答える。

「…別に。見て、避けるだけだ」

「見て、避けるだけって…!それができたら、誰も苦労しませんって!」

 雪奈は、心底信じられないという顔で、大げさに肩をすくめてみせた。


 その微笑ましいやり取り。

 それを、数万人の観客が、固唾を飲んで見守っていた。

 隼人は、空港に到着したその瞬間から、配信のスイッチを入れていたのだ。

 タイトルは、『【JOKER北へ】ギルド職員と巡る、ガチ北海道観光&A級ダンジョン初挑戦』。


 彼のチャンネルのコメント欄は、もはやお祭り騒ぎだった。


『うおおおおお!いきなり始まった!』

『てか、隣の美人さん誰!?』

『白石雪奈…ギルド職員か!役得すぎるだろ!』

『JOKERさん、タジタジで草www』

『新しい女か!?雫さん、詩織さんに続く、第三の女…!』

『この二人、絶対何かあるだろ…。俺のゴーストが、そう囁いてるぜ…』


 そのあまりにも下世話で、しかし楽しそうなコメントの嵐。

 それに、隼人は気づかないふりをしながら、車窓の外を流れる、見慣れない景色を眺めていた。

 どこまでも続く、広大な平野。

 東京のコンクリートジャングルとは、何もかもが違う、その雄大な風景。

 それが、彼のささくれ立っていた心を、わずかに癒していくのを、感じていた。


「さあ、着きましたよ、JOKERさん!」

 雪奈の明るい声と共に、車は札幌市内のある店の前に止まった。

 そこは、行列のできる人気の、スープカレー専門店だった。

 スパイスの香ばしい、そして食欲をそそる匂いが、車の中まで漂ってくる。


「まずは、腹ごしらえです!北海道に来たら、これを食べなきゃ始まりませんからね!」

 雪奈に促されるまま、隼人は店の中へと足を踏み入れた。

 ログハウスのような、温かみのある内装。

 壁には、数々の有名人のサイン色紙が飾られている。

 二人は、カウンター席へと通された。

 そして、目の前に運ばれてきたのは、二つの土鍋。

 その中で、真っ赤なスープが、ぐつぐつと煮えたぎっていた。

 鶏肉、ジャガイモ、ニンジン、ナス、ピーマン、カボチャ…。

 ゴロゴロとした巨大な具材が、惜しげもなく投入されている。


「いいですか、JOKERさん!」

 雪奈が、まるで先生のように、熱弁を振るい始めた。

「スープカレーは、まず、このスープを一口味わってください。スパイスの宇宙が、口の中に広がりますから!」

 隼人は、言われるがままに、レンゲでスープを一口すする。

 その瞬間。

 彼の眠たげだった瞳が、わずかに見開かれた。

 辛い。

 だが、それはただ暴力的な辛さではない。

 何十種類というスパイスが、複雑に、そして完璧なバランスで絡み合い、その奥に、野菜と鶏肉の、深い、深い旨味が隠されている。

 これまで、彼が知っていた「カレー」という概念が、根底から覆された。


「次に、このライス!」

 雪奈が、ターメリックライスが盛られた皿を、指し示す。

「これを、スープに浸して…そう、ひたひたになるくらい!そして、一気に口の中へ!」

 隼人は、その指導に従い、ライスをスープに浸し、口へと運んだ。

 スープを吸い込んだライスが、口の中で、ほろりとほどける。

 スパイスの衝撃と、ライスの甘み。

 そして、ゴロゴロとした具材の食感。

 その全てが渾然一体となり、彼の味覚中枢を、激しく揺さぶった。

 普段、食事など、ただのエネルギー補給としか考えていなかった彼。

 コンビニ弁当の、味気ないプラスチックの味しか知らなかった彼。

 その彼が。

 生まれて初めて、「食事」というものの、本当の喜びに触れた瞬間だった。


 彼は、夢中でスプーンを動かし続けた。

 そして、あっという間に、その土鍋を空にした。

 額には、玉のような汗が浮かんでいる。

 彼は、グラスの水を一気に飲み干すと、ぽつりと呟いた。

 その声は、自分でも驚くほど、素直な響きを持っていた。


「……うまいな」


 その、たった一言。

 それを聞いた雪奈は、まるで自分のことのように、嬉しそうに顔を輝かせた。

「でしょう!?」

 コメント欄もまた、その奇跡の瞬間に、沸き立っていた。


『JOKERが…美味いって言った…!』

『歴史的瞬間だろ、これ!』

『コンビニ弁当卒業、おめでとう!www』

『雪奈さん、グッジョブ!最高の店選びだ!』

『見てるだけで、腹減ってきた…。飯テロ、やめてくれ…!』


 その温かいコメントの嵐。

 それに、隼人は少しだけ照れくさそうに、顔を背けるのだった。


 ◇


 腹ごしらえを終えた二人が、次に向かったのは、札幌の中心部だった。

 広大な、大通公園。

 その向こうにそびえ立つ、さっぽろテレビ塔。

 そして、その一角に、ひっそりと、しかし確かな歴史の重みをもって佇む、一つの建物。


「ここが、有名な札幌市時計台です!」

 雪奈が、指し示す。

「よく、日本三大がっかり名所なんて言われてますけど、そんなことないんですよ?このレトロな佇まい。歴史があって、素敵ですよね!」

 彼女のその、地元愛に溢れた熱弁。

 それに、隼人は興味なさそうに答える。


「…ただの、古い時計台だな」

 彼は、その時計盤を見上げながら、続けた。

「時間は、合ってるのか?」


 そのあまりにも情緒のない、ドライな感想。

 それに、雪奈はついにキレた。

「情緒!情緒を、大切にしてください、JOKERさん!」

 彼女の、魂のツッコミ。

 それに、コメント欄が爆発した。


『wwwwwwwwwwwwww』

『出た!JOKERの、情緒クラッシュ!』

『雪奈さん、苦労するな、この人といるとwww』

『このぎこちないやり取り、最高すぎるだろwww』


 その漫才のようなやり取り。

 それもまた、この観光配信の、大きな魅力となっていた。

 彼らは、その後も札幌市内を巡っていく。

 大通公園のベンチに座り、名物のとうきびを頬張る。

 テレビ塔の展望台から、札幌の街並みを一望する。

 その一つ一つが、隼人にとっては、初めての経験だった。

 そして、その全てが、彼の乾いた心を、少しずつ潤していくのを、感じていた。


 そして、陽が落ち、街に灯りが灯り始める頃。

 雪奈は、彼を最後の場所へと案内した。

 藻岩山。

 札幌の夜景を、一望できる絶景のスポット。

 ロープウェイとケーブルカーを乗り継ぎ、たどり着いたその山頂。

 彼の目の前に広がっていたのは、まさに、光の海だった。


 眼下に広がる、札幌の街並み。

 その無数の光が、まるで地上に散りばめられた宝石のように、キラキラと輝いている。

 そのあまりにも美しく、そして幻想的な光景。

 日本新三大夜景にも選ばれた、その絶景を前にして。

 隼人は、ただ言葉を失っていた。

 彼は、その光の海を、ただ黙って見つめている。

 彼の脳裏に浮かんでいたのは、たった一つの光景だった。

 西新宿の、大学病院。

 その無機質な病室の窓から見える、限られた夜景。

 そして、その窓辺で、いつも気丈に微笑んでいる、たった一人の妹、美咲の姿。

(いつか…)

 彼は、心の中で誓う。

(いつか必ず、あいつをここに連れてくる)

(そして、この本物の光の海を、見せてやるんだ)


「…綺麗ですね」

 隣で、同じように夜景を見つめていた雪奈が、ぽつりと呟いた。

 その静かな問いかけに。

 隼人は、ゆっくりと頷いた。

 そして彼は、答えた。

 その声は、夜の冷たい空気の中に、静かに溶けていった。


「……ああ」

「いつか、見せてやりたい奴がいる」


 その静かな一言。

 その奥に隠された、あまりにも深く、そして切ない想い。

 それを、雪奈は敏感に感じ取っていた。

 彼女は、それ以上何も聞かなかった。

 ただ、彼の隣で、同じようにその美しい光の海を、黙って見つめ続けるだけだった。

 コメント欄もまた、その静かな、そして感動的な空気を壊すことなく、ただ温かい言葉で満たされていた。


『…泣けるぜ、JOKER』

『妹さんのこと、なんだな…』

『頑張れ。絶対、その夢、叶えろよ』


 その夜、彼らはそれ以上言葉を交わさなかった。

 ただ、それぞれの想いを胸に、その百万ドルの夜景を、いつまでも、いつまでも、その目に焼き付けていた。


 ◇


 旅の二日目。

 彼らが向かったのは、港町、小樽だった。

 石造りの倉庫群が立ち並ぶ、ノスタルジックな運河。

 その歴史的な街並みを、二人はゆっくりと歩いていく。

 そして、彼らの足は、自然と市場へと向かっていた。

 活気に満ち溢れた、市場の中。

 所狭しと並べられた、新鮮な魚介類。

 その光景に、隼人は目を輝かせていた。


 そして、彼らは一つの食堂へと入る。

 彼が注文したのは、もちろん一つ。

 ウニ、イクラ、カニ、ホタテ、エビ…。

 北海道の海の幸が、これでもかというほど、山盛りに乗せられた、究極の海鮮丼。

 その宝石のように輝く丼を前にして。

 隼人は、思わずゴクリと喉を鳴らした。

 そして、その一口を口に運んだ瞬間。

 彼の世界が、変わった。


「……………」

 彼は、言葉を失う。

 ただ、その至福の表情だけが、その感動の大きさを物語っていた。

 濃厚な、ウニの甘み。

 プチプチと弾ける、イクラの食感。

 プリプリとした、カニの身。

 その全てが、完璧なハーモニーを奏で、彼の舌の上で、溶けていく。


「…東京で食う寿司とは、全くの別物だな」


 彼が、ようやく絞り出したその一言。

 それに、雪奈は満足げに頷いた。

 コメント欄は、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


『うわああああああ!飯テロ!やめろ!』

『深夜に、これは犯罪だろ!』

『北海道、絶対に行く!決めた!』

『JOKERさんが、あんなに幸せそうな顔してるの、初めて見た…w』


 その熱狂を背中に感じながら。

 彼は、その至福の一杯を、ゆっくりと、そしてどこまでも深く、味わうのだった。


 そして、旅のハイライト。

 彼らが最後に向かったのは、積丹半島、その最先端。

 神威岬。

 日本海の荒波が打ち寄せる、断崖絶壁。

 その先端から見渡す景色は、まさに絶景だった。

 どこまでも青く、そしてどこまでも透明な海。

 人々が、「積丹ブルー」と賞賛する、その奇跡の青。

 そのあまりにも圧倒的な、大自然の造形美。

 それを前にして、隼人はただ黙って、その青を見つめていた。

 吹き抜ける潮風が、彼の髪を優しく揺らす。

 この瞬間。

 彼の配信には、雑談はなかった。

 ただ、美しい風景と、風の音、波の音だけが、静かに流れていく。

 数万人の視聴者もまた、その神々しいまでの美しさに、ただ息を呑んでいた。

 彼の心の中の、ささくれ立っていた何かが、その雄大な自然の中で、少しずつ癒されていくのを、彼は感じていた。


 ◇


 旅の三日目。

 決戦の朝。

 それまでの和やかな観光ムードは、完全に消え去っていた。

 雪奈の運転する四輪駆動車が、雪深い山道を、力強く進んでいく。

 向かう先は、A級ダンジョン、【雪と氷の洞窟】。

 車内の空気は、重く、張り詰めていた。


「…JOKERさん」

 雪奈が、意を決したように口を開いた。

「本当に、一人で行くんですか?A級ですよ…?」

 その声には、隠しきれない心配の色が、滲んでいた。

 それに、隼人は静かに頷いた。


「ああ」

 彼は、窓の外を流れる雪景色を見つめながら、答える。

「あんたは、ここまででいい」

 彼は、そこで一度言葉を切ると、少しだけ照れくさそうに続けた。

 その言葉は、彼が初めて彼女に、はっきりと告げた、感謝の言葉だった。

「…最高のツアーだった。感謝する」


 その不器用な、しかし心からの感謝の言葉。

 それに、雪奈の瞳がわずかに潤んだ。

 彼女は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、強くアクセルを踏み込むだけだった。


 やがて、車は目的の場所にたどり着いた。

 巨大な氷壁に、ぽっかりと口を開けた巨大な亀裂。

 そこから、絶対零度の冷気が、目に見える形で吹き出している。

 A級ダンジョン、【雪と氷の洞窟】。

 その、入り口。


 JOKERは、車を降りると、雪奈に背を向けた。

 そして、一人、その闇の中へと歩き出す。

 彼の背中は、いつもよりも少しだけ大きく、そして頼もしく見えた。

 彼は、その闇の入り口で、一度だけ立ち止まる。

 そして彼は、ARカメラに向かって、静かに、しかし力強く宣言した。

 その声は、これから始まる最高のショーの、開幕を告げる、王者のそれだった。


「――さてと」

「ウォーミングアップは、終わりだ」


 彼の本当の、A級への挑戦が、今、始まった。


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