第135話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された情報の海を、静かに、そしてどこか品定めするような目つきで、眺めていた。
彼の決意は、すでに固まっている。
A級という神々の領域へと続く最初の門。そのあまりにも高く、分厚い壁を、彼は一度、その肌で味わった。そして、その壁を乗り越えるための「答え」として、【鋼鉄の炉心】という究極の鎧を、なけなしの全財産を投げ打って、手に入れた。
レベルは40に到達。装備も、A級のテーブルに着くための、最低限の資格は得た。
だが、彼は知っていた。それだけでは、足りないと。
あの鳴海詩織と共闘した時に垣間見た、「神の領域」。ソロで、自らの力だけでそこに辿り着くためには、もっと根源的な力…ビルドの「厚み」そのものを、増す必要がある。
そのためには、パッシブスキルポイントが、絶対的に不足していた。
彼の目の前のモニターには、ギルドの公式なクエスト受注ページが、表示されている。
そのページには、彼が求める「答え」が、無機質に、しかし確かな可能性として、リストアップされていた。
【ダンジョン浄化任務リスト】
それは、日本全国に点在する、「不人気ダンジョン」の一覧。
ギルドが、その攻略と内部の浄化を、全国の探索者に依頼している、特殊な公式クエスト。
そして、その功績への報酬として、探索者は、パッシブポイントオーブを、「購入する権利」を得ることができる。
1ポイント目が100万円、2ポイント目が200万円…。購入するごとに、単価が100万円ずつ上昇していく、悪魔的なビジネスモデル。
だが、今の彼にとって、それは最高のテーブルに見えた。
レベルアップという、あまりにも悠長な手段に頼らず、金で「力」そのものを、買えるのだから。
彼は、そのリストを上から順に、まるでカジノのゲームを選ぶかのように、吟味していく。
彼のギャンブラーとしての「眼」が、それぞれのテーブルの、「癖」と、「リスク」、そして「リターン」を、値踏みしていた。
【関西地方】 難易度: B級中位
ダンジョン名: 【古都の地下水路】
概要: 視界が悪く、狭い通路が無限に続く、迷宮。高低差も激しく、水中での戦闘も強いられる。方向感覚を失い、精神的に消耗してリタイアする探索者が、後を絶たない。
(…パスだな)
彼は、一瞬でそう判断した。
(こういう、ちまちましたギミックで、プレイヤーの精神を削ってくるテーブルは、一番性に合わん。俺が求めてるのは、もっと純粋な力のぶつかり合いだ)
【東北地方】 難易度: B級上位
ダンジョン名: 【鬼の棲む火山】
概要: 常時、灼熱の火属性ダメージ。出現するモンスターは、物理耐性が異常に高く、炎による攻撃が主体。火耐性特化ビルドでなければ、攻略は困難を極める。
(…これも、面白みに欠ける)
彼の思考は、冷徹だった。
(火属性ダメージは、俺の耐性なら、ほぼ無効化できる。だが、敵の物理耐性が高いのは、単純に戦闘が長引くだけだ。面倒くさい。時間対効果が、悪すぎる)
彼は、スクロールバーを下げていく。
その無数の陰鬱なダンジョン名が並ぶリストの中で、彼の指が、ぴたりと止まった。
その最北端に記された一つの名前に、彼の目が吸い寄せられたのだ。
【北海道地方】 難易度: A級下位
ダンジョン名: 【雪と氷の洞窟】
概要: 内部は、常に絶対零度に近い、極寒。侵入者には、秒間50のHP継続ダメージが発生する。このあまりにもシンプルな、しかし強力なギミックが、挑戦者のリソースを削り取り、多くのB級上位探索者の心を折ってきた。
「…ほう」
彼の口から、初めて純粋な興味の色を帯びた声が、漏れた。
A級下位。
そして、秒間HPダメージ50。
他の陰湿なギミックとは一線を画す、あまりにも潔い殺意。
それは、彼の挑戦心を、わずかに、しかし確実に刺激した。
何よりも、彼は自らのビルドとの、「相性」を瞬時に見抜いていた。
彼は、自らのステータスウィンドウを開き、HP自動回復を確認する。
彼は、脳内で高速の計算を始めた。
(俺のHPリジェネは、秒間140以上。このダンジョンのダメージは、秒間50。差し引き、秒間90以上はプラスだ…)
その計算結果。
それに、彼の口元がニヤリと歪んだ。
(…なんだこれ。俺にとっては、ただのボーナスステージじゃねえか)
B級上位探索者にとっては、地獄の継続ダメージ。
それが、彼のビルドの前では、全く意味をなさない。
この圧倒的な、「相性」の良さ。
それこそが、ギャンブラーが求める、最高の勝ち筋。
相手の必殺のカードが、自分の手札の前では、ただのゴミクズと化す。
その絶対的な優越感。
それこそが、彼が求めるスリルだった。
何よりも、彼の脳裏に浮かんだのは、ダンジョンのことではなかった。
(北海道か…)
彼の脳内に、これまで縁のなかった、北の大地のイメージが駆け巡る。
どこまでも広がる、雪景色。
新鮮な、海の幸。
濃厚な、味噌ラーメン。
これまで、ダンジョンと裏社会のポーカーハウスしか知らなかった彼の人生に、全く新しい「選択肢」が現れた瞬間だった。
彼は、ふっと息を吐いた。
その表情は、もはやただの戦闘狂でも、冷徹なギャンブラーでもない。
どこか、日常からの逃避を夢見る、一人の青年の顔をしていた。
「――よし、決めた」
彼の声には、これまでのどの戦いを前にした時とも違う、どこか軽やかで、そして楽しそうな響きが、宿っていた。
「次のテーブルは、北海道だ」
彼は、そう宣言すると、公式ページのクエスト受注ボタンを、迷いなくクリックした。
『【ダンジョン浄化任務:雪と氷の洞窟】を受注しますか?』
確認のウィンドウが表示される。
彼が、「はい」を押した、その瞬間。
彼のARコンタクトレンズの視界に、ギルドからの公式なメールが、ポップアップで表示された。
件名:【ダンジョン浄化任務】受注完了と、遠征支援プログラムのご案内
本文:
探索者 "JOKER" 様
この度は、【ダンジョン浄化任務】にご応募いただき、誠にありがとうございます。
A級下位ダンジョン【雪と氷の洞窟】の浄化任務、確かに受理いたしました。
本任務は、ギルドが推進しております、「地方ダンジョン活性化及び安全確保プログラム」の対象となっております。
つきましては、本プログラムの規定に基づき、今回の遠征にかかる旅費(往復交通費、規定内での宿泊費・滞在費)は、全て我々ギルドの方で負担させていただきます。
任務対象地域である北海道は、雄大な自然と、素晴らしい食文化に恵まれた土地です。
任務の合間に、現地の文化や魅力に触れていただくことも、我々が推進する地域貢献の一環と、考えております。あなたの旅が、実り多きものとなることを、願っております。
後日、担当者より、具体的な旅程と経費精算について、改めてご連絡させていただきます。
関東探索者統括ギルド
地方ダンジョン管理課
そのあまりにも丁寧で、そしてどこまでも事務的な定型文。
「…観光か」
旅費も、食費も、全てタダ。
そして、その先には、パッシブポイントという最高の報酬が待っている。
こんなに、割のいい話はない。
彼のギャンブラーとしての思考が、さらに回転する。
(待てよ…?)
(観光するんだよな…?)
(それ、配信したら面白いんじゃねえか…?)
そうだ。
彼の視聴者たちは、これまで、彼のダンジョンでの戦闘の姿か、あるいはあの殺風景な自室の姿しか、見たことがない。
そのJOKERが、北海道を旅する。
美味いものを食べ、美しい景色に心を動かされる(かもしれない)。
そのギャップ。
それは、最高の「コンテンツ」になるのではないか。
彼のショーマンとしての血が、騒ぎ始めていた。
「…面白い」
彼は、呟いた。
「ダンジョン攻略だけが、ショーじゃねえ。その道程すらも、最高のエンターテイメントに変えてやる」
彼は、決意した。
この北海道への旅。
その全てを、世界に晒すことを。
彼は、ARカメラのスイッチを入れた。
そして、彼のチャンネルにログインし、待機しているであろう数万人の観客たちに、語りかけた。
その声は、これから始まる最高のショーを前にした、ショーマンのそれだった。
「よう、お前ら。急で悪いが、予定が変更になった」
「次の配信は、ダンジョンじゃねえ」
「――北海道、グルメ観光配信だ」
その一言。
それに、コメント欄が、これまでにないほどの困惑と、そして熱狂の渦に、包まれた。
彼の新たな、そして最も気まぐれな旅が、今、始まろうとしていた。