第134話
西新宿の夜景が、彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された自らのステータスウィンドウを、静かに、そしてどこか飢えた表情で眺めていた。
レベルは、40。
数日前までの彼であれば、この数字に、ある程度の満足感を覚えていたかもしれない。
だが、今の彼にとって、それはあまりにも無力で、不完全な数字にしか見えなかった。
彼の脳裏には、まだあの光景が焼き付いて離れない。
A級下位ダンジョン、【星霜の書庫】。
鳴海詩織というSSS級サポーターのオーラをその身に宿した時、彼は確かに、「神」になった。
思考よりも速く、因果律そのものを捻じ曲げるかのような速度で放たれる、【衝撃波の一撃】。A級の魔物たちが、まるで紙屑のように消し飛んでいく光景。これまで、あれほどまでに彼を苦しめた【禁書の番人アルベリヒ】ですら、ただの一振りで、その存在ごと消滅させた、あの絶対的な万能感。
あれは、麻薬だ。
一度味わってしまえば、二度と忘れることのできない、究極の全能感。
そして今、彼の目の前にあるのは、その神の力を失った、ただの「神崎隼人」のステータス。
ソロでの彼の力は、B級ダンジョンを蹂躙するには十分すぎる。だが、あのA級の頂で味わった神々の領域には、あまりにも、あまりにも遠い。
「……足りねえ」
彼の口から、乾いた、飢えた獣のような声が漏れた。
何が足りないのか。全てだ。
だが、その根源にあるのは、ただ一つ。
このあまりにも広大で、そしてまだ大半が未開の地である、パッシブスキルツリー。
この星空を、あの神の領域へと繋げるための「道」を、彼はまだ見つけられていない。
レベルアップで得られる、たった1ポイントの報酬では、あまりにも歩みが遅すぎる。
あの詩織と並び立つための力を、自らの手で掴むには、何かが決定的に足りていなかった。
(どうすれば、あの領域にもう一度…)
彼の思考が、深く、鋭く、自らの魂の内側へと潜っていく。
(詩織の力は、借り物だ。だが、あの力は、確かにこの世界に存在する。ならば、俺自身の力で、そこに辿り着けない道理はないはずだ)
その時、ふと、彼の脳裏に、いつかの記憶が蘇る。
新宿の、ギルド公認換金所。
あの柔らかな笑顔を浮かべる、彼の最初の軍師。
水瀬雫。
彼女が、何かの話のついでに、言っていたはずだ。
『――ギルドの公式なクエストの中には、クリア報酬として、パッシブスキルポイントが得られるものが、稀に存在するんですよ』
「…公式クエスト…」
彼の口から、乾いた呟きが漏れた。
誰かから与えられた仕事を、こなす。
それは、彼の自由なギャンブラーとしての生き方に、反するように思えた。
だが、あの「神の残滓」を追い求める今の彼にとって、もはやそんな小さなプライドは、何の価値も持たなかった。
彼は、椅子を軋ませながら、古びたパソコンのキーボードへと、その指を伸ばす。
彼の戦場は、今、ダンジョンではない。
この、情報の海。
日本最大の探索者専用コミュニティサイト、『SeekerNet』。
そこで彼は、自らの渇望を満たすための、一手を探すことを決意した。
彼が、SeekerNetの検索窓に打ち込んだキーワードは、シンプルだった。
『パッシブポイント 公式クエスト 入手方法』
エンターキーを押すと、彼の目の前に、一つの巨大なスレッドが表示された。
そのタイトルは、まるで古の賢人たちの対話を思わせる、荘厳な響きを持っていた。
『【公式Q&A】パッシブスキルポイントの正規入手手段について Part. 35』
そこは、もはや初心者が足を踏み入れることを許されない、神々の領域。
ギルドの公式な発表と、それに対するトップランカーたちの高度な議論が、交わされる場所だった。
彼は、そのスレッドを、食い入るように読み進めていく。
そして、そこに記されていたのは、彼が漠然と抱いていた疑問を、あまりにも的確に言語化した、この世界のもう一つの、「ルール」だった。
スレッドの最初の投稿には、ギルドの広報担当者による、丁寧で、しかしどこか冷徹な公式見解が記されていた。
1: ギルド広報担当
探索者の皆様、日々のダンジョン攻略、お疲れ様です。
ギルド広報部より、かねてからご質問の多かった、「パッシブスキルポイントの追加取得方法」について、改めてご説明させていただきます。
ご存知の通り、パッシブスキルポイントは、探索者の皆様のレベルアップに伴い、1レベルにつき、1ポイントずつ付与されるのが基本です。
しかし、皆様のより一層の成長をサポートするため、我々公式ギルドでは、特別なクエストを通じて、この貴重なポイントを、追加で取得する機会を提供しております。
まず、大前提としてご理解いただきたいのは、パッシブスキルポイントを内包したオーブは、我々ギルドが保有する古代のアーティファクト、**『アストロラーベの心臓』**の力によって、生成されているということです。
このアーティファクトを起動させ、一つのパッシブポイントオーブを生成するためには、膨大な魔力…具体的には、現在の市場価格で、約500万円相当の高純度の魔石を消費します。
そのあまりにも具体的なコストの提示。
隼人は、ゴクリと喉を鳴らした。
1: ギルド広報担当
この事実から、皆様にもお分かりいただけるかと存じます。
我々ギルドも、慈善事業で運営しているわけではございません。
この貴重なパッシブポイントオーブを、皆様に無償で提供することは、不可能なのです。
そこで、我々は、一つの「機会」を、皆様に提供することにいたしました。
それが、**【ダンジョン浄化任務】**と呼ばれる、特殊な公式クエストです。
ご存知の通り、日本全国に存在するダンジョンの中には、その立地の悪さや、ギミックのいやらしさ、あるいは単純に報酬の不味さから、ほとんどの探索者から見向きもされない、「不人気ダンジョン」が、数多く存在します。
そして、それらのダンジョンは、定期的に内部のモンスターが掃討されないと、その魔素が飽和し、最悪の場合、現実世界へとモンスターが溢れ出す、**「ダンジョンパレード」**という大災害を引き起こす、危険性を秘めています。
我々ギルドは、皆様に、それらの不人気ダンジョンの攻略と、内部の「浄化」を依頼します。
そして、その任務を完遂された方には、その功績への報酬として、パッシブポイントオーブを**「購入する権利」**を、付与させていただきます。
そのあまりにも官僚的で、そしてどこか上から目線の物言い。
だが、その下に記されていた具体的な「価格」を見て、隼人の表情が変わった。
1: ギルド広報担当
購入価格は、以下の通りです。
・1ポイント目の購入権利:100万円
・2ポイント目の購入権利:200万円
・3ポイント目の購入権利:300万円
以降、購入するごとに、その単価は100万円ずつ上昇していきます。
なお、この購入権利は、一人の探索者につき、生涯で24回まで行使することが可能です。
「…なんだと…?」
隼人の口から、驚愕の声が漏れた。
彼の脳内で、高速の計算が始まる。
(1ポイント目が、100万。2ポイント目が、200万。つまり、2ポイント欲しければ、合計で300万が必要になるってことか…)
(そして、値段は前回を引き継ぐ…)
彼の思考が、さらに加速する。
(つまり、次にこのクエストを受けたら、3ポイント目は300万、4ポイント目は400万で、買わなきゃならねえってわけだ)
(なんて、イカれたシステムだ…)
そのあまりにも悪魔的な値上げのルール。
それに、スレッドの猛者たちが様々な見解を述べていく。
35: ハクスラ廃人
出たな、ギルドの公式見解。
相変わらず、腹黒い商売してやがるぜ。
最初の数ポイントは、生成コストの500万を完全に下回ってる。つまり、ギルドは赤字だ。
だがな、お前ら、よく考えろ。
10ポイント目を買う頃には、単価は1000万になってる。
そして、最後の24ポイント目を買う時には、2400万円だ。
つまり、ギルドは、後半のこのふざけた値上げで、序盤の赤字を余裕で回収して、お釣りがくるってわけよ。
まさに、悪魔のビジネスモデルだぜ。
42: 元ギルドマン@戦士一筋
うむ。だが、ハクスラ廃人の言う通り、これは悪魔の、しかし最高の「機会」でもある。
考えてみろ。
レベルが1上がるごとに、たった1ポイントしか手に入らない、この貴重なポイント。
それが、「金で買える」んだぞ。
レベルそのものを、金で買っているのと同じことだ。
A級、S級とステージが上がるにつれて、次のレベルまでの必要経験値は、天文学的になっていく。
その途方もない時間を、金でショートカットできるんだ。
喜んで払う冒険者が多いのも、頷ける話だ。
51: ベテランシーカ―
ええ。ですから、このクエストの本質は、ただのダンジョン攻略ではありません。
「自分のビルドの未来と、自らの資産を天秤にかける」という、極めて高度な戦略的判断なのです。
どのタイミングでこのクエストを受け、いくつのポイントを、いくらまでで買っておくべきか。
その判断こそが、一流と二流を分ける、本当の分水嶺と言えるでしょう。
そのあまりにも本質的な議論。
隼人は、その全てを理解した。
そして、彼の心は、完全に決まった。
(…面白い)
彼の口元が、ゆっくりと、これまでにないほど深く、そして獰猛に、吊り上がっていく。
(最高の、ギャンブルじゃねえか)
彼は、椅子から勢いよく立ち上がった。
その瞳には、もはや一切の迷いも、退屈もない。
ただ、目の前の最高のテーブルを前にした、勝負師の光だけが、爛々と輝いていた。
「――よし、決めた」
「このクエスト。一回、受けてみるか」
彼は、クエスト受注用の公式ページを開く。
そこには、日本全国の不人気ダンジョンが、リストアップされていた。
北海道、【雪と氷の洞窟】。
東北、【鬼の棲む火山】。
関西、【古都の地下水路】。
その無数の選択肢の中から、彼は自らの次なる旅の、始まりの地を選ぶ。
「まずは2ポイント。300万円か」
彼は、その金額を反芻する。
数ヶ月前の彼であれば、気絶していたかもしれない数字。
だがあの「神の力」を知ってしまった今の彼にとっては、こう聞こえた。
「――安い、安い」
彼の新たな、そして最も壮大なギャンブルの幕が、今、確かに上がったのだ。