第133話
西新宿の夜景が、彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された情報の海を、静かに、そしてどこか目的もなく漂っていた。
彼は、ここ数日の目まぐるしい戦いと、ビルド構築の熱から、少しだけ距離を置きたかった。
ただ、何も考えずに時間を浪費する。
そんな普通の人間が、当たり前のように享受しているであろう、贅沢を味わってみたかったのかもしれない。
彼は、日本最大の探索者専用コミュニティサイト、『SeekerNet』を立ち上げた。
だが、彼が向かったのは、いつものような戦士クラスの、専門的なビルド考察スレではなかった。
彼は、珍しく目的を持たず、掲示板を見てる。
トップページに、無数に表示されるスレッドの森。
F級からSSS級までの、様々スレッドが立っている。
彼は、その森を、当てもなく彷徨い始めた。
彼は、まずF級探索者向けの、初心者質問スレッドを、適当に開いてみたりしてる。
『【助けて】ゴブリンの棍棒が、硬すぎて壊せません。どうすれば、いいですか?』
『ポーションが、高くて買えません。何か、いい金策はありますか?』
『パーティメンバーが、私のドロップ品を全部持って逃げました。』
そのあまりにも初々しく、そして切実な叫びの数々。
それに、隼人はふっと息を吐いた。
ほんの、数ヶ月前。
自分もまた、この世界の右も左も分からない、ひよっこだったのだと。
彼は、そのスレッドを静かに閉じた。
次に、彼が目に止まったのは、S級探索者たちのゴシップを扱う、スレッドだった。
『【速報】“雷帝”神宮寺猛、新CMの撮影で、A級モンスターをマジでワンパンしたらしい』
『【熱愛】“氷の女王”様、最近、妙に機嫌が良いとのタレコミ多数』
『次のSS級昇格は、誰だ!?』
そこは、彼が今いる世界とは全く違う、華やかで、そしてどこか現実離れした、神々の噂話が飛び交う場所だった。
彼は、そのまばゆい光に、少しだけ目を細め、そして興味なさげに、そのページも閉じた。
そうして、彼がいくつかのスレッドを渡り歩いていた、その時だった。
彼の目が、トップページの最も目立つ場所に、固定で表示されている、一つのスレッドに釘付けになった。
そのタイトルは、荘厳で、そして全ての探索者にとって、無視できない響きを持っていた。
『【公式発表】大冒険者時代10周年 - 東京ダンジョン白書』
「…ほう」
彼の口から、興味深げな声が漏れた。
公式ギルドから、官報があったようだ。
彼は、そのスレッドをクリックした。
そして、そこに記されていたのは、彼がこれまで漠然としか理解していなかった、この世界の本当の、「姿」だった。
内容は、以下の通り。
【東京の冒険者人口(10年目時点 / 最終FIX版)】
総登録者数: 約101万人
SSS級 (神の領域): 約8名
日本国内に存在する「十数名」のSSS級のうち、その半数近くが、政治・経済・そしてダンジョンの中心である、東京に拠点を置いている。
SS級 (伝説級): 約100名
もはや、生ける伝説。国家戦略級の戦力であり、その多くはギルドマスターや国家機関の要職に就いている。
S級 (英雄級): 約1,000名
メディアにも登場する、国民的な英雄たち。神宮寺猛のように、絶大な人気と影響力を持つ。 大手ギルドのトップは、ほとんどがこのランクに位置する。
A級 (エリート層): 約10,000名
ここまでが、世間一般で「一流」と呼ばれる、狭き門。
B級 (プロ層): 約50,000名
冒険者として、十分に裕福な生活を送ることができる、プロ探索者の中心層。
C~D級 (中堅層): 約250,000名
プロとして生計を立てる者が大幅に増え、冒険者という職業が、社会に確固たる地位を築いていることを示します。この層の厚みこそが、経済を回す原動力となっています。
E~F級 (ビギナー層): 約700,000名
**「副業でも肉体労働より遥かに稼げる(一日2万円は硬い)」**という魅力から、学生やフリーター、主婦層までもが参入する、巨大な市場となっている。
「…101万か」
隼人は、そのあまりにも巨大な数字に、思わず息を呑んだ。
自分が、今身を置いているこの世界。
それは、自分が思っていたよりも、遥かに巨大で、そして過酷な競争社会だったのだと。
彼は、スクロールを続ける。
その下には、ダンジョンの運営に関するルールが、記されていた。
【人気のダンジョン(共有エリア)】
常に多くの冒険者が訪れる、経験値や金策効率の良いダンジョンは、システムが処理しきれずに共有エリアとなります。そのキャパシティは、対象となる冒険者の人口に応じて、以下のように設定される。
A級の人気ダンジョン (対象: 約10,000人):
キャパシティ: 約300人~500人
エリートたちが集う、選ばれた者たちの狩場。常に、他のトップパーティの動向を意識しながら、立ち回る必要がある、緊張感に満ちた空間です。
C~D級の人気ダンジョン (対象: 約25万人):
キャパシティ: 約1,000人~2,000人
プロの冒険者たちが、日々の生活のために最も利用する、主戦場。ギルド間の縄張り争いや、効率的な狩りルートの奪い合いが、日常的に発生しています。
E~F級の人気ダンジョン (対象: 約70万人):
キャパシティ: 約3,000人~5,000人
「一日2万円は硬い」という噂を聞きつけたビギナーや、副業冒険者たちが殺到する、まさに「ゴールドラッシュ」の現場。 混沌としていますが、活気に満ち溢れています。
【通常の人気のないダンジョン(専用空間)】
上記以外のダンジョンは、訪問者が少ないため、ダンジョンシステムが自動的に**「インスタンス(専用空間)」**を生成します。ソロで入れば、完全に自分だけの空間となり、他の冒険者と遭遇することはありません。
その公式発表の最後には、いくつかの注意書きが添えられていた。
『人気のダンジョンは、公共の場です。他の探索者への配慮を忘れずに』
『モンスターの獲物の横取り(ルート・スチール)は、重大なマナー違反です』
『ギルドでは、定期的にパーティプレイのための、マナー講座の案内などを開催しています。積極的に、ご参加ください』
そのあまりにも優等生的な文言。
それに、隼人はふんと鼻を鳴らした。
そして彼は、全ての情報を理解した上で、一つの結論にたどり着いた。
彼は、椅子に深くもたれかかり、天井を仰ぎながら、独り言のようにぼやく。
その声は、ARカメラのマイクが、かろうじて拾っていた。
「…なるほどな。人気のダンジョンは、そんな面倒なことになってんのか」
「モンスターの奪い合いだの、横殴りだの、聞くだけでうんざりする」
「だから、俺は効率が悪くても、人のいない、クソまずいテーブルを選んできた。その方が、よっぽど気楽でいい」
「まあ、俺は人気のダンジョン、あまり行かないからな。冒険者に、なかなか出会わないしなー」
その一言。
それが、彼のこれまでの孤独な戦いの理由の、全てを物語っていた。
彼は、自らの意思で、その孤独を選んでいたのだ。
誰にも干渉されず、誰のルールにも縛られず。
ただ、自らの力と運命だけを信じて、戦う。
それこそが、神崎隼人 "JOKER" というギャンブラーの、唯一無二の在り方なのだから。
彼の日常は、まだしばらく続きそうだ。
次なる大勝負の、その時が来るまで。