第130話
西新宿の夜景が、彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された、自らが周回するA級下位ダンジョンのライブ映像を、静かに、そしてどこか退屈そうに眺めていた。
A級下位ダンジョン【星霜の書庫】。
一度は彼に屈辱的な敗北を味わわせたあの場所も、今や彼の日常の一部と化していた。
【鋼鉄の炉心】を身に着け、75%の上限に達した元素耐性。
堅牢化による、鉄壁の物理防御。
彼のビルドは、A級下位というテーブルにおいて、絶対的な安定性を誇っていた。
敵の攻撃は、もはや彼のHPを5割以上削ることはなく、彼の驚異的なリジェネ能力が、そのわずかな損害を、即座に回復させていく。
彼の配信は、絶対的な王者がその支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的に安定しきったショーとなり、数万人の視聴者たちは、その心地よい安心感に酔いしれていた。
だが、その安定こそが、彼のギャンブラーとしての魂を、ゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。
(…完璧すぎる)
彼は、思う。
(それ故に、つまらない)
勝てると分かっているテーブルで、ただチップを積み上げるだけの作業。それは、ギャンブルではない。ただの労働だ。
彼は、自らのビルドが、あまりにも美しく、そして効率的に完成してしまったが故の、奇妙な「停滞感」に囚われていた。
彼の視線が、ステータスウィンドウの装備欄の一点に、吸い寄せられる。
指輪(左):【元素の円環】
それは、彼のビルドの、まさに根幹を支える、最重要パーツの一つだった。
この指輪がなければ、彼は【元素の盾】という強力な防御オーラを、ノーコストで展開することはできない。
この指輪がなければ、彼の鉄壁の元素耐性は、存在しなかった。
彼は、その恩恵を、誰よりも理解していた。
だが、それ故に、思うのだ。
(…こいつの仕事は、MP予約コストを100%減少させるだけなのは、どうにかしたいな)
そうだ。
このあまりにも強力な効果。
その、たった一つの効果のために、彼は貴重な指輪のスロットを、一つ完全に潰してしまっている。
HPも、MPも、耐性も、火力も、何も上がらない。
ただの、コスト削減ツール。
ビルドが未完成だった頃は、それでよかった。
だが、他の全てのパーツが、ユニークや神がかったレア装備で埋め尽くされた今。
この、たった一つの効果しか持たない指輪が、彼の完璧なデッキの中で、唯一浮いているように見えた。
あまりにも、「効率」が悪い。
この無駄を、どうにかしたい。
そのゲーマーとしての、そしてギャンブラーとしての飽くなき探求心が、彼を再びあの情報の海へと駆り立てた。
彼はブラウザを立ち上げ、慣れた手つきで日本最大の探索者専用コミュニティサイト、『SeekerNet』へとアクセスした。
彼の次なる、「獲物」を探すために。
彼は、検索窓にいくつかのキーワードを打ち込んだ。
『【元素の円環】更新先』
『指輪 耐性 HP MP』
エンターキーを押すと、彼の目の前に、おびただしい数のスレッドが表示された。
そして、その中に、彼は自らの心をそのまま映し出したかのような、一つのスレッドを見つけ出した。
『【Lv40~】元素の円環いつまで使う?【ビルドの壁】 Part. 3』
彼は、そのリンクをクリックした。
そこは、彼と同じようなレベル40代の探索者たちが、同じ悩みが書かれてる、共感と諦観の溜まり場だった。
211: ハンドルネーム『中堅ウォリアー』
諸兄に、聞きたい。
みんな、元素の円環っていつまで使ってる?
A級下位を、安定して周回できるようになったんだが、正直、この指輪のステータスが何もないのが、キツくなってきた。
でも、これを外すと、耐性がガタ落ちして、A級中位以上のダンジョンに挑戦できなくなるし…。
かといって、耐性を他の部位で補おうとすると、今度は火力が下がる。
まさに、八方塞がりだ。
便利だけど、そろそろ更新したいんだが、何かいい装備はないだろうか?
そのあまりにも切実な魂の叫び。
スレッドには、『分かる』、『俺もそれで悩んでる』、『詰んでるよな』といった、共感のコメントが溢れていた。
この誰もがぶつかる、巨大な壁。
それを打ち破る、魔法のようなアイテムは存在しないのか。
皆が、そう諦めかけた、その時だった。
スレッドに、一つの光が差し込んだ。
投稿主は、あの知的な軍師、『ベテランシーカ―』だった。
235: ベテランシーカ―
皆さん、お悩みはよく分かります。
元素の円環のジレンマ。それは、全ての探索者が、A級のさらにその先を目指す上で、一度は通る道です。
ですが、安心してください。
この世界には、いつだってその壁を越えるための、「答え」が用意されています。
それは、決して安くはありません。
ですが、その価値は、皆さんの想像を遥かに超えるでしょう。
私がオススメするのは、このユニーク指輪です。
彼は、そう言うと、一つのアイテムの画像をスレッドに貼り付けた。
それは、プリズムのように虹色の光を放つ、美しい指輪だった。
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名前: 【原初の調和】
装備条件:レベル40
性能:
HP+200
MP+50
【元素の盾】のMP予約コストを100%減少させる
【元素の盾】を使用している間、あなたのダメージが10%増加する
フレーバーテキスト: 「万物が生まれる以前、元素はただ一つの調和の中にあった。攻めるとは守ること。守るとは攻めること。その理を識る者のみが、この指輪を操る資格を得る」
そのあまりにも完璧な性能。
スレッドが、一瞬にして静まり返った。
そして、次の瞬間、爆発した。
『うおおおおおお!なんだこの指輪は!』
『【元素の円環】の完全な上位互換じゃねえか!』
『HP+200にMP+50…?これだけで生存率が爆上がりするぞ!』
『しかも、ダメージ10%増加まで付いてるのかよ!強すぎるだろ!』
その熱狂の中で、一人のユーザーが、冷静な、しかし最も重要な質問を投げかけた。
『で、これいくらすんだよ…?』
その問いに答えたのは、このスレッドのもう一人の主。
『元ギルドマン@戦士一筋』だった。
258: 元ギルドマン@戦士一筋
落ち着け、新人ども。
それが、問題だ。
この【原初の調和】はな、そのあまりにも汎用性のある効果故に、全てのトップランカーが通る道だ。
戦士も、盗賊も、魔法使いも、関係ない。
【元素の盾】を使う全てのビルドにとって、これは中間装備候補の一つだ。
レベル40以上になっても、愛用者がいるくらいな装備だからな。
公式オークションで、1500万円から2000万円で取引されてる、代物だ。
1500万から、2000万。
そのあまりにも具体的で、そして重い数字。
スレッドの熱狂は、一瞬にして現実的なため息へと変わった。
『うわー…やっぱり、そのくらいはするか…』
『日給50万として、一ヶ月まるまるダンジョンに籠もって、ようやくか…』
『手が届くけど、キツいな。冒険者以外の生活の出費がな…。家賃とか、色々あるし…』
『嫁さんに、一ヶ月分の給料全部指輪に変えたなんて言ったら、殺されるわ…w』
スレッドは、夢のアイテムを前にした、リアルな生活感の漂う、苦笑と諦観の空気に包まれた。
だが、その中で。
神崎隼人は、ただ一人、静かに、そしてどこか楽しそうに、口元に笑みを浮かべていた。
(1500万か)
彼は、脳内で高速の計算を開始する。
(今のA級下位の周回で、日給は60万から70万。…なるほどな。約1ヶ月かかるか。A級中位、いや上位のテーブルに本格的に参加するための、入場料としては、妥当な値段だ)
彼は、ブラウザを閉じた。
そして彼は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もはや一切の迷いも、退屈もない。
ただ、目の前の最高のテーブルを前にした、勝負師の光だけが、爛々と輝いていた。
「――さてと」
「次の、獲物が決まったな」
彼の新たな、そして最も過酷な、金策という名のギャンブルが、今、始まろうとしていた。