第13話
水瀬雫から放たれた、あまりにも予想外の言葉。
「――配信者の、『JOKER』さん、ですか…?」
その問いかけは、静かな換金所の空気を切り裂く、鋭い刃のように神崎隼人の鼓膜を貫いた。
瞬間、彼の思考が、完全に停止した。
世界から、音が消える。目の前で微笑みかけてくる美しい受付嬢の姿も、周囲の喧騒も、全てがスローモーションのように遠ざかっていく。彼の頭の中を、ただ一つの、警報のような感情が支配していた。
(――なぜ、バレた?)
彼の全身が、反射的に強張る。それは、裏社会の暗がりで生き抜くために、彼の肉体に染み付いた、生存本能だった。
身元が割れる。それは、この世界では「死」を意味する。
自分の素性を知られ、弱みを握られ、骨の髄までしゃぶり尽くされる。雀荘で、ポーカーハウスで、彼はそんな人間たちを、嫌というほど見てきた。だからこそ、彼は常に「ジョーカー」という仮面を被り、決して素性を明かさず、誰にも心を許さず、まるで水面の木の葉のように、誰の記憶にも残らぬように立ち回ってきたのだ。
だというのに。
この、ダンジョンという新たなテーブルに着いて、わずか一日。最も安全であるはずの、この「表側」の世界で、いともたやすく、自分の正体が見破られた。
彼の瞳の奥に、一瞬だけ、野生の獣のような、鋭い警戒の色が浮かぶ。彼は、目の前の美しい女性を、値踏みするように観察した。
(誰だ、こいつは?ギルドのスカウトか?あるいは、裏の連中が差し向けた、ハニートラップか?俺のスキルや、あのガントレットの情報を聞き出すための…)
疑念が、次から次へと湧き上がってくる。彼の体は、いつでもカウンターを蹴り倒し、この場から逃げ出せるように、わずかに重心を低くしていた。彼の右手は、無意識のうちに、腰のナイフの柄に、いつでも触れられる位置へと、そろりと動いていた。
雫は、そんな隼人の微かな変化を、敏感に感じ取っていた。目の前の青年の空気が、一瞬にして、柔らかな青年から、触れれば斬られるような、鋭利な刃物のそれに変わったことを。
彼女は、自分が、彼の最も触れられたくない部分に、不用意に踏み込んでしまったことを悟った。
「あ…!」
雫は、慌てて、両手を軽く上げて、降参のポーズを取った。その仕草は、どこか子供っぽく、そして、彼の警戒心を解きほぐすような、不思議な愛嬌があった。
「ご、ごめんなさい!驚かせちゃって…!違うんです、決して、あなたの情報を探ろうとか、そういう怪しい者じゃ…!」
彼女は、必死にそう弁解すると、悪戯がバレた子供のような、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「実は、その…今日の配信、見てたんです」
その一言は、隼人の張り詰めていた警戒心を、わずかに、しかし、確かに緩ませた。
配信を?見ていた?
「今日の、お昼休憩の時に、同僚の間で、ものすごい新人がいるって、クリップ映像が話題になってて…。『ゴブリンの洞窟で、たった一人で神クラフトを成功させた、謎の配信者JOKER』って…」
雫は、その時の興奮を思い出したのか、頬をわずかに高揚させ、その大きな瞳をキラキラと輝かせ始めた。もはや、それは、プロの受付嬢の顔ではない。ただの、一人のファンの顔だった。
「最初は、合成映像かと思ったんです。でも、何回も見ているうちに、これは本物だって確信して…。そして、今、あなたがカウンターにいらっしゃった時、すぐに分かったんです。あの時の、配信で見た、瞳の奥の光と、同じだって」
彼女の言葉には、嘘や、下心の色は感じられなかった。ただ、純粋な、子供のような好奇心と、賞賛だけが、そこにはあった。
隼人の全身から、少しずつ、力が抜けていく。彼は、まだ油断はしていなかったが、少なくとも、目の前の彼女が、直接的な敵ではないことだけは、理解した。
鑑定用の機械が、ピ、という電子音と共に、作業の終了を告げた。雫は、はっと我に返ると、慌てて受付嬢の顔に戻り、モニターを確認する。
「あ、すみません!鑑定、終わりました。ええと、ゴブリンの魔石(小)が三つですね。純度、魔力量ともに、標準的なAランク。本日の相場ですと、一つ10,500円ですので…合計で、31,500円。端数はサービスさせていただいて、32,000円での買い取りとなりますが、よろしいでしょうか?」
彼女は、流れるような口調で、事務的な手続きを進めていく。だが、その指先は、興奮で、わずかに震えていた。
彼女は、手続きを進めながらも、どうしても、その興奮を抑えきれなかった。再び、声を潜め、ファンとしての質問を、隼人に投げかける。
「あの…本当に、すごかったです!特に、最後のクラフトのシーン…!【運命の天秤】でしたっけ?あのスキルを発動させて、【万象の守り】を創り出したところなんて、私、思わず、声が出ちゃいました。鳥肌が、ぶわーって!本当に、伝説の始まりを見ているようでした!」
彼女は、自分の腕をさすりながら、その時の感動を、熱っぽく語る。
隼人は、その言葉に、少し面食らった。
彼にとって、あの行為は、ただの、生き残るための、人生を賭けたギャンブルでしかなかった。それを、こんな風に、まるで英雄譚の一幕のように語られるのは、初めての経験だった。そして、それは、決して悪い気はしなかった。
「それと、ダンジョンに入るの、本当に今日が初めてなんですか?信じられないです。ゴブリン相手の立ち回りとか、攻撃を避けるタイミングとか…まるで、何年もダンジョンに潜っているベテランの方みたいでしたよ」
(…ベテラン、か)
隼人は、心の中で自嘲した。実際は、何度も死にかけて、脇腹には、今も鈍い痛みが残っているというのに。だが、彼女の目には、それが、計算され尽くした、華麗な立ち回りに見えていたらしい。
雫は、さらに言葉を続ける。その瞳は、尊敬と、好奇心で、爛々と輝いていた。
「あと、クラス選択の時も、びっくりしました!普通、あんな大事な選択、自分一人で決めるじゃないですか。それを、視聴者の意見を聞いてくれるなんて…。JOKERさんって、見た目はクールですけど、本当は、すごく優しい方なんですね!」
「…優しい、だと?」
隼人は、思わず、聞き返していた。
優しい。それは、彼が、人生で最も縁遠い言葉の一つだった。彼が視聴者の意見を聞いたのは、それが、最も合理的で、勝率の高い選択だと判断したからに過ぎない。優しさなどという、曖昧な感情からではない。
だが、彼女のフィルターを通すと、彼の冷徹な計算は、ファンを想う「優しさ」へと変換されるらしい。その解釈の違いが、隼人にとっては、新鮮で、そして、少しだけ、居心地の悪さを感じさせた。
「はい、お待たせいたしました。こちら、本日の買い取り金額、三万二千円になります」
彼女の言葉が、隼人を、内省の海から、現実へと引き戻した。
雫が、白い、滑らかな指先で、カウンターの下から、一つの封筒を差し出した。
茶色の、何の変哲もない事務用の封筒。だが、今の隼人にとって、それは、どんな高級な宝石よりも、眩しく、そして、重く見えた。
彼は、ゆっくりと、その封筒を受け取った。
指先に伝わる、紙の感触と、その中に確かにある、数枚の紙幣の厚み。
三万二千円。
これが、俺が、俺自身の力で、ダンジョンから、正当に稼いだ、最初の金。
隼人は、その封筒を、ただ、じっと見つめていた。様々な感情が、彼の胸の中を駆け巡る。雀荘で稼いだ金とは違う、誇らしさ。妹を救えるかもしれないという、確かな希望。そして、自分も、この「表側」の世界で、生きていけるのかもしれないという、淡い期待。
雫は、そんな隼人の様子を、黙って、優しく見守っていた。彼女には、彼が、この三万二千円という金額を、ただの金として見ていないことが、痛いほどに伝わっていたからだ。彼が、どれほどの覚悟でダンジョンに挑み、そして、どれほどの思いで、この金を手にしているのか。その横顔が、雄弁に物語っていた。
やがて、隼人は、顔を上げた。
彼は、いつも通りの、ぶっきらぼうな態度を装いながら、それでも、何とか、感謝の言葉を、喉の奥から絞り出した。
「…応援、どうも」
それは、かろうじて聞き取れるほどの、小さな声だった。だが、その一言には、彼の、これまでの人生にはなかった、他人に対する、偽りのない感謝の念が、確かに込められていた。
彼にとって、それは、ゴブリンの群れに一人で突っ込むよりも、ずっと勇気のいる行為だったかもしれない。
その、隼人の、たどたどしい感謝の言葉を聞いた瞬間。
水瀬雫の顔に、これ以上ないほど、美しい花が咲いた。
プロフェッショナルの笑顔ではない。ファンとしての興奮した笑顔でもない。
ただ、目の前の、不器用で、孤独な戦士の、ささやかな勇気を、心の底から祝福するような、聖母のような、あるいは、勝利の女神のような、屈託のない、満面の笑みだった。
「はいっ!」
彼女は、太陽のように明るい声で、答えた。
「次回の配信も、楽しみにしてますね、JOKERさん!無理だけは、絶対に、しないでくださいね!」
その笑顔と、その言葉は、まるで強力な回復魔法のように、隼人の、荒んで、ささくれ立っていた心の奥深くまで、じんわりと染み込んでいった。
これまで、彼は、誰にも認められず、誰にも期待されず、たった一人で、孤独に戦い続けてきた。全ては、妹を救うため。その重すぎる「義務感」だけが、彼を突き動かす、唯一の原動力だった。
だが、今、彼の心に、新たな光が灯った。
自分の戦いを、見てくれている人がいる。
自分の勝利を、自分のことのように喜んでくれる人がいる。
そして、自分の身を、案じてくれる人がいる。
隼人は、彼女に背を向け、換金所を後にした。もう、彼女の顔を、まともに見ることはできなかった。
ガラス張りの自動ドアを抜け、再び、西新宿の喧騒の中へと戻る。
彼は、歩きながら、手の中にある、現金三万二千円が入った封筒を、強く、強く握りしめた。
この金の重み。
そして、彼の心の中に、確かに残る、あの女神の微笑みの温かさ。
妹を救うため、という、絶対的な義務感。それに加えて、彼の戦う理由が、もう一つ、増えた瞬間だった。
「誰かが見てくれている」
「誰かが応援してくれている」
その事実は、彼の心に、これまでにない、軽やかで、そして、力強いモチベーションを与えてくれていた。
彼は、空を見上げた。
夕日が、高層ビルの谷間を、茜色に染めている。
美しい、と思った。
これまで、ただ、通り過ぎるだけだった日常の風景が、今日は、なぜか、特別な輝きを放って見えた。
彼は、次の戦いに向けて、決意を新たにする。
もっと強くならなければ。
もっと、稼がなければ。
妹のために。
そして、俺の戦いを、見てくれている、あの人のために。