第128話
西新宿の夜景が、彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアから、静かに立ち上がった。
彼の魂は、これ以上ないほどの、静かな、そして確かな闘志に満ち溢れていた。
レベル40。
要求筋力、100。
そして、彼のビルドの最後の弱点を埋める、究極の胴装備、【鋼鉄の炉心】。
A級への挑戦権を得るための、全てのピースは揃った。
昨夜、彼はあの忌々しい敗北から、多くのことを学んだ。
そして今、その学びを「結果」として証明する時が来た。
彼のギャンブラーとしての血が、最高のテーブルでの次なる勝負を求めて、熱く、そして激しく脈打っていた。
彼は、配信のスイッチを入れた。
そのタイトルは、彼の揺るぎない決意と、そしてこれから始まるショーへの絶対的な自信を、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
『【A級リベンジ】星霜の書庫、完全攻略』
そのタイトルが公開された瞬間、彼のチャンネルには、通知を待ち構えていた数万人の観客たちが、津波のように殺到した。
コメント欄は、期待と興奮と、そしてそれ以上に大きな不安が入り混じった、熱狂の坩堝と化していた。
『きたあああああああ!リベンジマッチ!』
『待ってたぜ、JOKERさん!』
『レベル40!そして、あの鎧!見せてくれ、あんたの本当の力を!』
『でも、相手はA級だぞ!本当に、大丈夫なのか…?』
『今度こそ、勝ってくれ!俺たちの、希望なんだ!』
その熱狂と心配の声をBGMに、隼人は転移ゲートをくぐった。
彼がたどり着いたのは、静寂と、そして死の匂いに満ちた、あの場所。
A級下位ダンジョン、【星霜の書庫】。
天まで届くかのような巨大な本棚が、迷宮のように入り組んで並んでいる。
床には、埃をかぶった分厚い絨毯が敷き詰められ、全ての足音を吸収する。
空気中には、古い紙とインクの匂い、そしてどこか甘い腐敗臭が混じり合っていた。
前回、彼に屈辱的な敗北を味わわせた、因縁の舞台。
そして、彼は感じた。
A級の洗礼。
世界の呪いが、強化される。
彼の魂に、直接冷たい枷がはめられたかのような、不快な感覚。
彼のARウィンドウに表示された全属性耐性の数値が、一斉に引き下げられた。
だが、彼の表情は、前回とは全く違っていた。
彼の全身を、あの時とは比較にならない、重厚な鋼の鎧…【鋼鉄の炉心】が守っていたからだ。
その鎧がもたらす、火耐性+35%、冷気耐性+15%の恩恵。
それが、A級の呪いによって削られた彼の耐性を、完璧に補っていた。
彼の元素耐性は、火、氷、雷、その全てが、再び上限である75%の輝きを取り戻していた。
鉄壁の、再構築。
彼が最初の巨大な閲覧室へと足を踏み入れた、その瞬間。
戦いの火蓋は、唐突に、しかし彼の予想通りに、切って落とされた。
ホールの四方八方、高い本棚の上から、無数の影が、一斉にその姿を現したのだ。
その数、およそ20体。
全てが、ボロボロの魔術師のローブをその身にまとい、その骨の手には、歪な木の杖が握られている、骸骨の魔術師。
【書庫の番人】。
そして、彼らがこの世で最も得意とする、たった一つの仕事。
それは、「沈黙」させること。
プリーストたちが、一斉にその骨の指先を隼人へと向けた。
一切の詠唱なく、その周囲の空間から、数十、数百という青白い魔力の弾丸が生成され、嵐となって隼人へと襲いかかった。
開幕、サイレンスと敵の魔法弾幕が襲う。
前回、彼のHPを一瞬にして蒸発させた、悪夢の光景。
だが、今の隼人は違った。
彼は、その弾幕を避けない。
彼は、その場に仁王立ちし、左手に構えた盾、【背水の防壁】を、その前面に構えただけだった。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ!
無数の魔法弾が、彼の体に次々と着弾する。
その多段ヒットして、彼の体に、これまで経験したことのない、凄まじい衝撃が走る。
ガキン、ガキン、ガキンッ!
鎧が、悲鳴を上げる。
そして、彼の視界の隅で、赤い警告が激しく点滅した。
彼のHPバーが、一瞬にして大きく削り取られる。
だが、その減少は、前回の絶望的なそれとは、明らかに違っていた。
彼のHPは、6割削る程度である。
残りのHPは、4割。
死には、まだ遠い。
彼は、その確かな手応えにニヤリとして、ARカメラの向こうの観客たちに、そして目の前の骸骨の軍勢に、宣言した。
「――早速、装備更新した結果が出たな」
その言葉は、絶対的な王者の宣告。
彼は、奥歯をギリと噛みしめながら、ベルトに差した最後の生命線…ライフフラスコを呷り、反撃の狼煙を上げる。
彼は、この膠着した戦況を、そしてこの理不尽なテーブルを、自らの手でひっくり返すことを決意した。
やることは、ただ一つ。
必殺技を、4連発する。
「――お前ら、まとめて吹き飛べやッ!」
彼は、雄叫びを上げた。
そして彼は、そのありったけの魔力を解放した。
彼の右腕に、力が集中する。
長剣が、赤い闘気のオーラを、その身に激しく纏った。
【必殺技】衝撃波の一撃。
彼は、それを書庫の番人たちの集団のど真ん中へと叩き込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
一発目。
凄まじい轟音と共に、書庫の床が砕け散る。
衝撃波を受け、番人たちの脆弱な体は、なすすべもなく吹き飛ばされる。
そして彼は、間髪入れずに二発目を叩き込む。
彼のMPは、まだ潤沢に残っている。
マナマスタリーがもたらした恩恵だ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
二発目。
数体の番人が、光の粒子となって消滅した。
そして、三発目。
四発目。
彼は、自らのMPが許す限り、その質量の暴力を戦場に叩きつけ続けた。
それは、もはや戦闘ではない。
ただ、一方的な爆撃。
広間全体が、彼の必殺技によって、何度も何度も揺れ動く。
やがて、衝撃波の嵐が収まった時、そこには、まだ数体の敵が残っていた。
前回の同じく、雑魚敵の数は、4割残った。
「…チッ、まだ残ってやがったか」
隼人は、舌打ちした。
彼の必殺技の4連発を、耐えきった。
それこそが、A級の証。
生き残った番人たちが体勢を立て直し、再び魔法の弾幕を放ってくる。
だが、隼人はもはや動じない。
彼のHPは、【背水の防壁】の驚異的なリジェネ能力によって、すでに5割以上にまで回復している。
彼は、その弾幕をあえて、その身に受け止める。
彼の体に、堅牢化のバフがスタックしていく。
ダメージカット、21%。
そして、彼の驚異的なHPリジェネ。
その二重の保険が、彼のHPを5割まで抑えられる。
ここからが、前回とは違う。
彼は、残った敵を、余裕を持って通常技で殲滅することを選択する。
【無限斬撃】。
だが、彼の神速の剣は、時折、敵を捉えることができない。
『Miss』
彼の攻撃は、75%しか当たらない。
そして、当たっても敵は硬い。
一体の番人を倒すのに、数回の斬撃が必要になる。
前回であれば、その1匹の雑魚を処理してる間に、他の番人からの魔法弾幕の格好のまとになり、またHPが3割まで減るという、悪夢のループに陥っていたはずだ。
だが、今の彼は違う。
彼のHPは、確かにじりじりと削られていく。
だが、その減少量を、彼のリジェネが上回っている。
彼は、もはや死なない。
その絶対的な安心感が、彼の立ち回りに、これまでにないほどの「余裕」を生み出していた。
彼は、もはやギリギリの死のダンスをしながら戦う必要はない。
ただ、冷静に、そして確実に、一体、また一体と敵を処理していく。
その動きは、あまりにもきれいに倒していけるなと、彼自身も思うほど、洗練されていた。
静寂が戻る。
後に残されたのは、おびただしい数のドロップアイテムと、そしてその中心で、肩で軽く息をしながらも、その表情に一切の焦りを見せない、一人の王者の姿だけだった。
彼のリベンジは、終わった。
そして、その光景を見ていた数万人の観客たちが、一斉に爆発した。
コメント欄が、**「リベンジ成功!」**という、祝福と賞賛の嵐で、埋め尽くされていく。
『うおおおおおお!勝った!』
『これが…これが、俺たちのJOKERだ!』
『あの絶望的な弾幕を、耐えきったぞ!』
『装備更新、大正解だったな!』
彼は、その声援に、静かに頷いた。
そして彼は、ARカメラの向こうの観客たちに、そして自らの魂に言い聞かせるように、呟いた。
「…なるほどな」
「A級下位の洗礼は、充分満喫したぜ」
「――だが、もうこのテーブルのルールは覚えた」
彼は、ドロップした魔石を拾い上げると、この忌々しい、しかし最高の学びの場となった図書館の、さらに奥深くへと、その歩みを進めていく。
彼の本当のA級攻略が、今、始まった。