第126話
西新宿の夜景が、やけに目に染みた。
神崎隼人 "JOKER" は、自室の、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアに、その身を深く沈めていた。
彼の目の前のモニターは、暗転したままだ。
だが、彼の脳裏には、先ほどの屈辱的な敗走の記憶が、まるで呪いのように、何度も、何度もフラッシュバックしていた。
ひんやりとした、静寂の図書館。
本棚の影から現れた、骸骨の魔術師たち。
そして、その指先から放たれた青白い弾幕に触れた瞬間、彼の魂を内側から蝕んでいった、あの忌々しいデバフ。
《静寂の呪詛》
A級の雑魚モンスターが放つ、B級ボスに匹敵するほどの、圧倒的な火力。
HPバーが、一瞬にして蒸発していく、あの絶対的な絶望感。
そして最後に、尻尾を巻いてポータルで逃げ帰ってきた、あの惨めな姿。
「…クソがっ」
彼の口から、心の底からの悪態が漏れた。
これまで彼は、どんな強敵を前にしても、決して絶望はしなかった。
【骸骨の百人隊長】の凍結ループも、【古竜マグマロス】の圧倒的な暴力も、彼にとっては解き明かすべき、最高のパズルだった。
だが、今回の敗北は違う。
質の悪いイカサマに、ハメられたかのような後味の悪さ。
戦う土俵にすら、上がらせてもらえなかったという、絶対的な屈辱。
それが、彼のプライドをズタズタに引き裂いていた。
(面白いテーブルに着くには、イカサマを攻略しないといけないってことだ…!)
彼の瞳に、再び闘志の炎が灯る。
そうだ、このまま終わらせるわけにはいかない。
あの忌々しいA級下位ダンジョンに、最高のリベンジを果たしてやる。
そのためには、まず敵を知り、そして自らの弱点を完璧に埋める必要がある。
彼は、怒りに震える指でキーボードを叩きつけ、再びあの情報の海…『SeekerNet』へと、その意識をダイブさせた。
彼の戦いは、もう始まっている。
彼がまず分析したのは、自らの敗因だった。
プレイヤースキルか?いや、違う。
戦術か?それも、違う。
問題は、もっと根本的な部分にあった。
A級の呪い…全属性耐性-50%という、あまりにも過酷な世界のルール。
それを、彼は甘く見ていた。
彼の火と氷の耐性は、64%。
上限の75%から、わずか11%の低下。
その、たった11%の隙間。
それを、A級のモンスターたちは、容赦なく、そして的確に突いてきた。
あの魔法弾幕の、多段ヒット。
その一発一発は、大したダメージではないのかもしれない。
だが、その無数の小さなダメージが、彼の許容量をあっけなく超えさせたのだ。
(…耐性が11%落ちるのを甘く見てた。75%無ければ、死ぬな)
彼は、そう結論付けた。
A級というテーブルでは、耐性の上限である75%を確保すること。
それが、参加するための最低限の、「マナー」なのだと。
ならば、やるべきことはただ一つ。
彼のビルドの、唯一にして最大の「穴」。
あの貧弱な胴装備を、更新すること。
【魔道士の革鎧】。
HP+10、MP+50。
C級の段階では、確かに有用だった。
だが、A級の戦場では、もはや紙切れ同然。
胴装備の更新が、急務だな。
彼は、そう判断した。
こいつを、火耐性と氷耐性、11%以上に更新出来れば、なんとかA級下位ダンジョンというテーブルにつく事が出来る。
彼の次なる目標が、明確に定まった。
彼は、SeekerNetの公式マーケットへとアクセスした。
彼の視線は、もはやB級やC級のアイテムが並ぶ、安価なコーナーにはない。
A級。
トップランカーたちが、その資産とプライドを賭けて、最高の逸品を奪い合う、神々の領域。
彼は、そのハイレートなテーブルを、フリーマーケットを覗くように、吟味し始めた。
検索窓に、彼が求める条件を打ち込んでいく。
『種別: 胴鎧』
『要求レベル: 35-45』
『MOD: 最大ライフ、最大マナ、火耐性、氷耐性』
エンターキーを押すと、彼の目の前に、いくつかの候補が表示された。
だが、そのどれもが、彼の心を動かすには至らない。
HPは高いが、耐性が低い。
耐性は高いが、MPが付いていない。
そして、何よりもその価格。
どれもが、彼の全財産を投げ打っても、手が届くかどうかという、絶望的な数字だった。
(…やはり厳しいか)
彼が、そう思い、ブラウザを閉じようとした、その時だった。
彼のギャンブラーとしての直感が、そのリストの一番下に、たった今出品されたばかりの、一つのアイテムを見つけ出した。
それは、他のきらびやかなユニーク装備に埋もれて、ほとんど目立たない、地味なレアアイテムだった。
だが、そのプロパティの組み合わせ。
それが、彼の脳内に電流を走らせた。
彼は、そのアイテムの詳細を、食い入るように見つめる。
そして彼は、確信した。
これこそが、俺が探し求めていた、唯一無二の「当たり」のカードだと。
彼は、そのお目当ての胴装備を見つけると、その性能を、何度も、何度も確認した。
【鋼鉄の炉心 (こうてつのろしん)】【レア】
鎧 装備の防御値:物理耐性+400 装備条件:レベル40、筋力100
性能:
最大HP +100
最大MP +50
冷気耐性 +15%
火耐性 +35%
完璧だ。
あまりにも、完璧すぎる。
彼は、脳内で高速のシミュレーションを開始した。
(火耐性+35%、氷耐性+15%... 俺の素の耐性値は、火、氷、114%。A級の呪い-50%で、64%に落ちる。この鎧を装備すれば、火は64+35=99%。氷は64+15=79%。どっちも、上限の75%を余裕で超える。完璧だ)
(最大ライフ+100、最大マナ+50。今の貧弱な胴装備からの、とんでもないアップグレードだ。物理耐性+400も、地味に、だが確実に効いてくる)
彼のビルドの全ての弱点を、たった一つで埋めてくれる、奇跡の一品。
問題は、値段だけだった。
彼は、恐る恐るその価格表示に目をやった。
そして、そこに表示された数字に、彼は思わず息を呑んだ。
金額は、1000万円。
彼の現在の資産の、ほぼ全て。
普通の人間なら、ここで躊躇するだろう。
もっと安い代替案はないのかと、さらに情報を探すだろう。
だが、彼は違った。
彼のギャンブラーとしての魂が、叫んでいた。
これは、買いだと。
これは、リスクではない。リターンしかない、最高の投資だと。
勝負のテーブルで、必勝のカードが見えた。
ここで張らないギャンブラーは、三流だ。
彼は、一秒たりとも迷わなかった。
「――買いだ」
彼は、即決する。
彼の指が、躊躇なく『購入』のボタンを押した。
確認のウィンドウが表示される。
彼は、それを見ることすらなかった。
ただ、エンターキーを叩きつけるように、押す。
取引は、一瞬で成立した。
彼の銀行口座から、家が一軒買えるほどの金額が、一瞬で消え去る。
だが、彼の心には、何の未練もなかった。
彼のインベントリに、新たに一つの、重厚な鋼の鎧が追加された。
彼は、その鎧の詳細な装備条件を、改めて確認する。
要求レベル、40。
要求筋力、100。
(レベルが足りないのは、B級超位でレベル上げしたら良い)
彼は、現在のレベルが38であることを思い出す。あと、2レベル。B級超位を本気で周回すれば、数日で到達できるだろう。
(筋力は、ポイントが余ってるので、余裕でクリア出来る)
彼の未割り振りのステータスポイントは、125。要求値の100など、あってないようなものだ。
全てのパズルは、解けた。
全ての壁は、崩れ去った。
彼の目の前には、A級ダンジョンへと続く、まっすぐな道だけが広がっていた。
「…いい買い物だった」
彼の口から、満足のため息が漏れた。
新たな、そして最強の力を手に入れた彼。
その視線は、もはやこの小さな部屋にはない。
次なる戦場。
あの忌々しいA級下位ダンジョン、【星霜の書庫】へと、向けられていた。
リベンジの時だ。
彼は、自らの手で、運命の扉をこじ開けたのだ。