第125話
西新宿の夜景が、いつものように彼の部屋の窓を淡く照らしている。
神崎隼人 "JOKER" は、ギシリと軋む古びたゲーミングチェアにその身を深く沈め、目の前のモニターに映し出された情報の海から、意識を引き上げた。
B級超位という名のテーブル。
その理不尽なルールを、彼は自らの知略と才覚で、完全に打ち破ってみせた。
彼のビルドは、今やB級というステージにおいては、敵なしの完成度を誇る。
だが、彼の魂は、もはやそのぬるま湯に安住することを許さなかった。
ギャンブラーの血が、新たなスリルを、未知なる、より高いレートのテーブルを、渇望していた。
彼の視線は、もはやB級にはない。
その、さらに先。
A級。
神々の領域へと続く、最初の門。
彼は、その重い扉を、自らの手でこじ開けることを決意した。
「…さてと」
彼は、椅子から勢いよく立ち上がった。
その瞳には、もはや情報の海をさまよう探求者の光はない。
ただ、獲物を見つけた狩人の光だけが、爛々と輝いていた。
彼はARコンタクトレンズを装着し、配信のスイッチを入れた。
そのタイトルは、彼の揺るぎない自信と、そしてこれから始まるショーへの期待感を、これ以上ないほど雄弁に物語っていた。
『【A級初挑戦】地獄の門、こじ開けてやるよ』
そのあまりにも不遜で、挑戦的なタイトル。
それが公開された瞬間、彼のチャンネルには、通知を待ち構えていた数万人の観客たちが、津波のように殺到した。
コメント欄は、期待と興奮と、そしてそれ以上に大きな不安が入り混じった、熱狂の坩堝と化していた。
『きたあああああああ!』
『ついにA級か!待ってたぜ!』
『地獄の門…!JOKERさんマジで行くのか!』
『B級とは次元が違うぞ!無理はするなよ、絶対に!』
『これは新たな伝説の始まりか、あるいは無謀な自殺か…。いずれにせよ、見逃せねえ!』
その熱狂を背中に感じながら、隼人は転移ゲートへと向かった。
彼が選んだ次なる戦場。
それは、SeekerNetのダンジョン情報でも、特にその陰鬱さとギミックのいやらしさで有名な場所だった。
A級下位ダンジョン【星霜の書庫】。
彼がゲートをくぐった瞬間、彼の全身を、ひんやりとした、そしてどこまでも静かな空気が包み込んだ。
そこは、天まで届くかのような巨大な本棚が、迷宮のように入り組んで並ぶ、古代の図書館。
床には、埃をかぶった分厚い絨毯が敷き詰められ、全ての足音を吸収する。
空気中には、古い紙とインクの匂い、そしてどこか甘い腐敗臭が混じり合っていた。
その静寂こそが、逆に彼の神経を、極限まで研ぎ澄ませていく。
そして、彼は感じた。
A級の洗礼。
世界の呪いが、強化される。
彼の魂に、直接冷たい枷がはめられたかのような、不快な感覚。
彼のARウィンドウに表示された全属性耐性の数値が、75%から一斉に引き下げられた。
火と氷は、64%へ。
雷は、75%へ。
鉄壁だったはずの彼の守りに、確かな「隙」が生まれた瞬間だった。
彼が最初の巨大な閲覧室へと足を踏み入れた、その瞬間。
戦いの火蓋は、唐突に切って落とされた。
ホールの四方八方、高い本棚の上から、無数の影が、一斉にその姿を現したのだ。
その数、およそ20体。
全てが、ボロボロの魔術師のローブをその身にまとい、その骨の手には、歪な木の杖が握られている、骸骨の魔術師。
【書庫の番人】。
そして、彼らがこの世で最も得意とする、たった一つの仕事。
それは、「沈黙」させること。
プリーストたちが、一斉にその骨の指先を隼人へと向けた。
一切の詠唱なく、その周囲の空間から、数十、数百という青白い魔力の弾丸が生成され、嵐となって隼人へと襲いかかった。
開幕、サイレンスと敵の魔法弾幕が襲う。
「――何!?」
隼人は、そのあまりにも理不尽な開幕に、思わず声を上げた。
彼は、咄嗟にその弾幕を盾で受け止め、ステップで回避しようとする。
だが、その弾丸の数はあまりにも多く、そしてその軌道は、いやらしく彼の回避ルートを塞ぐように放たれていた。
多段ヒットして、彼の体に、これまで経験したことのない衝撃が走る。
ガキン、ガキン、ガキンッ!
鎧が、悲鳴を上げる。
そして、彼の視界の隅で、赤い警告が激しく点滅した。
彼のHPバーが、一瞬にして7割も吹き飛んでいた。
HP、3割まで減る。
「…馬鹿げた火力だなおい!」
彼は、驚きを隠せない。
B級のボスですら、彼にこれほどのダメージを与えることはできなかった。
これが、A級の雑魚の通常攻撃。
世界の「格」の違いを、彼はその肌で、痛いほどに思い知らされた。
『うわああああ!』
『なんだ今の火力は!?』
『HPが一瞬で蒸発したぞ!』
『JOKERさん、逃げて!』
コメント欄が、悲鳴で埋め尽くされる。
だが、隼人はまだ死んではいなかった。
彼は、奥歯をギリと噛みしめながら、ベルトに差した最後の生命線…ライフフラスコを飲みながら、反撃の狼煙を上げる。
彼は、この膠着した戦況を、そしてこの理不-尽なテーブルを、自らの手でひっくり返すことを決意した。
やることは、ただ一つ。
必殺技を、4連発する。
「――お前ら、まとめて吹き飛べやッ!」
彼は、雄叫びを上げた。
そして彼は、そのありったけの魔力を解放した。
彼の右腕に、力が集中する。
長剣が、赤い闘気のオーラを、その身に激しく纏った。
【必殺技】衝撃波の一撃。
彼は、それを書庫の番人たちの集団のど真ん中へと叩き込んだ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
一発目。
凄まじい轟音と共に、書庫の床が砕け散る。
衝撃波を受け、番人たちの脆弱な体は、なすすべもなく吹き飛ばされる。
そして彼は、間髪入れずに二発目を叩き込む。
彼のMPは、まだ潤沢に残っている。
マナマスタリーがもたらした恩恵だ。
ドッゴオオオオオオオオオオオオオオンッ!!!
二発目。
数体の番人が、光の粒子となって消滅した。
そして、三発目。
四発目。
彼は、自らのMPが許す限り、その質量の暴力を戦場に叩きつけ続けた。
それは、もはや戦闘ではない。
ただ、一方的な爆撃。
広間全体が、彼の必殺技によって、何度も何度も揺れ動く。
やがて、衝撃波の嵐が収まった時、そこには、まだ数体の敵が残っていた。
雑魚敵は、4割程残る。
「…チッ、硬えな」
隼人は、舌打ちした。
彼の必殺技の4連発を、耐えきった。
それこそが、A級の証。
生き残った番人たちが体勢を立て直し、再び魔法の弾幕が襲う。
だが、隼人はもはや動じない。
彼は、その弾幕をあえて、その身に受け止める。
彼の体に、堅牢化のバフがスタックしていく。
ダメージカット、21%。
そして、彼の驚異的なHPリジェネ。
その二重の保険が、彼のHPを5割まで抑えられる。
だが、ここからが本当の地獄だった。
彼は、残った敵を、通常技で蹂躙していくことを選択する。
【無限斬撃】。
だが、彼の神速の剣は、これまでのように敵を捉えることができない。
『Miss』
『Miss』
無慈悲なシステムメッセージが、彼の視界に表示される。
彼の攻撃は、75%しか当たらない。
そして、当たっても敵は硬い。
一体の番人を倒すのに、数回の、いや十数回の斬撃が必要になる。
そして、その1匹の雑魚を処理してる間に、他の番人からの魔法弾幕の格好のまとになり、またHPが3割まで減る。
彼は、その死のループの中で、ただ舞い続けた。
攻撃を受け、HPが減る。
フラスコを飲み、回復する。
必死に攻撃を当てる。
だが、また攻撃を受け、HPが減る。
ギリギリの死のダンスをしながら、彼はなんとか、雑魚敵を全部倒すことができた。
静寂が戻る。
後に残されたのは、おびただしい数のドロップアイテムと、そしてその中心で、肩で息をしながら、膝に手をつき、荒い息を繰り返す、一人の満身創痍の王者の姿だけだった。
彼は、血の味のする口の中で、ARカメラの向こうの、言葉を失った観客たちに、静かに告げた。
その声は、疲労と、そして自嘲に満ちていた。
「…なるほどね。A級下位の洗礼を、充分満喫したぜ」
彼は、自らのステータスウィンドウを見つめる。
そこには、無慈悲な現実が映し出されていた。
「…耐性が11%落ちるのを、甘く見てた」
「上限の75%無ければ、死ぬな。これは」
彼は、そう断言した。
そして彼は、インベントリから一枚の巻物を取り出した。
【ポータル・スクロール】。
彼は、それを震える手で破り捨てた。
彼の足元に、青白い光の渦が生まれる。
彼は、その光に身を委ねるように、最後に一言だけ呟いた。
それは、彼のギャンブラーとしての、クレバーな、そして潔い決断だった。
「――撤退だ」
彼の初めてのA級挑戦は、こうして完全な「敗北」で幕を閉じた。
だが、その瞳の奥では、次なるリベンジへの、静かな、しかし確かな炎が、燃え盛っていた。