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第12話

 洞窟から一歩外へ踏み出した瞬間、神崎隼人は、思わず目を細めた。

 数時間ぶりに浴びる太陽の光が、網膜に白く焼き付く。ダンジョンの中の、青白い苔の光と、濃密で湿った魔素の空気とは全く違う、現実世界の、乾いたアスファルトの匂いと、生暖かい風。そのあまりにも普通な日常の風景が、今の彼には、まるで異世界のように感じられた。


 バスと電車を乗り継ぎ、都心へと戻る。

 車窓から流れる景色を、彼はぼんやりと眺めていた。楽しそうに談笑する学生たち、疲れきった顔で吊革に掴まるサラリーマン、スマートフォンの画面に夢中な人々。彼らの日常と、つい先ほどまで自分が身を置いていた、命のやり取りをしていた世界との間には、あまりにも深い断絶があった。

 汚れた服、ところどころ裂けたズボン、そして腰に差した、剥き出しの刃こぼれのナイフ。周囲の乗客たちが、時折、奇異なものを見るような視線を彼に向けてくるのが分かった。無理もない。今の自分は、彼らの平和な日常に紛れ込んだ、明らかな「異物」なのだから。

 だが、隼人は、その視線を不快には感じなかった。むしろ、それは、自分が確かに「あちら側」の世界に足を踏み入れたのだという、奇妙な実感と、わずかな優越感を彼に与えていた。


 彼が向かったのは、新宿。

 だが、歌舞伎町の雑踏や、思い出の雀荘ではない。西新宿の、超高層ビルが林立する一角。その中でも、ひときわ新しく、ガラス張りの壁面が西日を反射して輝く、巨大なオフィスビルだった。

 隼人は、そのビルの前に立ち、目的の場所の看板を見上げた。


『関東探索者統括ギルド公認 新宿第一換金所』


 これまで彼が身を置いてきた、タバコの煙と欲望が渦巻く雀荘や、薄暗い路地裏の非合法ポーカーハウスとは、何もかもが違っていた。

 銀行のように、塵一つない、磨き上げられた大理石の床。柔らかな間接照明に照らされた、明るく、開放的なロビー。そして、入り口の両脇には、いかにも屈強そうな、元探索者であろう警備員が、鋭い視線を光らせて立っている。

 空気の匂いすら違う。ここは、クリーンで、秩序があって、そして、「金」そのものが持つ、冷たく、清潔な匂いがした。

 自分が、本当にここに足を踏み入れていいのだろうか。

 場違いだ、という感覚が、じわりと彼の心を締め付ける。裏社会の人間が、決して越えてはならない一線を、今、越えようとしているのではないか。そんな、漠然とした恐怖。


 隼人は、無意識に、ズボンのポケットに手を入れた。

 指先に、ひんやりとした、硬い感触が三つ。

【ゴブリンの魔石(小)】。

 この石ころが、本当に、現金に変わるというのか。あの、コメント欄に流れた「1万円」という数字は、本当に、現実のものになるのか。

 まだ、半信半疑だった。

 あまりにも、うますぎる話だ。これまでの人生で、彼が学んだたった一つの教訓は、「うまい話には、必ず裏がある」ということだった。この清潔で、安全そうに見える場所も、結局は、自分のような弱者から何かを搾取するための、巧妙なシステムなのではないか。

 疑念が、彼の足を、その場に縫い付けた。


(…帰るか?)


 一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。このまま、裏社会の、慣れ親しんだ薄暗い賭場に戻った方が、まだ安心できるのではないか、と。


 その時だった。

 彼の脳裏に、妹・美咲の笑顔が、ふと、浮かんだ。

 病院のベッドの上で、「お兄ちゃん、無理しないでね」と、気丈に微笑む、たった一人の家族の顔。

 そして、その笑顔の裏に隠された、途方もない金額が記された、請求書の束。

 そうだ。

 俺は、もう、後戻りはできないのだ。

 ちまちました賭場で、ハイエナのように他人の金を奪い、いつバレるか、いつ裏切られるかと怯えながら生きる日常では、もう、美咲を救うことはできない。

 この、新しいテーブルで勝負するしかないのだ。たとえ、その先に、どんな罠が待っていようとも。


 隼人は、大きく、一つ、息を吸った。

 そして、吐き出した息と共に、全ての迷いを吐き出した。

 彼は、背筋を伸ばし、顔を上げた。その瞳には、もはや戸惑いの色はない。ポーカーテーブルで、最強の手札を隠し持ち、相手を値踏みする時と同じ、冷徹なギャンブラーの瞳。

 彼は、まるで、このビルのVIPラウンジにでも招かれた客人のように、堂々とした足取りで、ガラス張りの自動ドアをくぐった。

 配信は、ダンジョンから出た時点で、すでに切ってある。

 今の彼は、配信者「JOKER」ではない。

 ただの、神崎隼人。その事実が、逆に彼の感覚を研ぎ澄ませていた。




 換金所の内部は、隼人の想像以上に、静かで、洗練された空間だった。

 高い天井、柔らかな絨毯が敷かれた床、そして、等間隔に並べられた観葉植物。銀行のロビーと、高級ホテルのラウンジを足して二で割ったような、落ち着いた雰囲気が漂っている。

 客の数も、それほど多くはない。

 カウンターの前には、数組の探索者たちが、それぞれの戦果を換金していた。全身を最新鋭の金属鎧で固めた、いかにもエリートといった雰囲気のパーティーが、大きな麻袋から、大量の魔石や素材をカウンターにぶちまけ、職員と談笑している。その一方で、隅のカウンターでは、フードを目深に被った、孤高の探索者ソロシーカーが、たった一つの、しかし、禍々しいオーラを放つアイテムを、静かに鑑定してもらっていた。

 誰もが、それぞれの物語を持ち、それぞれの戦いを終えて、この場所にたどり着いている。


 隼人は、その光景を横目で見ながら、空いているカウンターへと向かった。

「いらっしゃいませ。本日は、どのようなご用件でしょうか?」

 ガラス張りのアクリル板の向こうから、柔らかな、鈴を転がすような声が、彼を出迎えた。

 隼人は、顔を上げて、声の主を見た。

 そして、思わず、息を呑んだ。


 そこにいたのは、彼がこれまで出会った、どんな女性とも違う、圧倒的な美貌の持ち主だった。

 艶やかな、栗色の髪が、上品なサイドテールにまとめられている。大きな瞳は、優しさと知性を感じさせ、すっと通った鼻筋と、ほんのりと桜色に色づいた唇が、完璧な調和を保っていた。まるで、ファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようだ。しかし、彼女が放つ雰囲気は、決して冷たいものではなく、見る者を安心させるような、温かな包容力に満ちていた。

 制服の胸元につけられたネームプレートには、美しい手書き風の文字で、こう記されている。


水瀬みなせ しずく


 隼人は、一瞬、言葉を失った。

 裏社会で生きてきた彼にとって、女性とは、常に駆け引きの対象か、あるいは、利用すべき駒でしかなかった。これほどまでに、純粋な「美」を前にして、どう振る舞えばいいのか、分からなかったのだ。

 彼は、自分の動揺を隠すように、無言で、ポケットから三つの【ゴブリンの魔石(小)】を取り出し、カウンターのトレイの上に、そっと置いた。


 雫は、その三つの黒い石を一瞥すると、隼人の格好に、ほんのわずか、視線を走らせた。刃こぼれのナイフ、汚れた服。明らかに、ダンジョンに潜り始めたばかりの、新人探索者の姿。それでいて、アンコモン等級の魔石を、三つも持ち帰ってきている。そのアンバランスさに、彼女はプロとして、わずかな興味を抱いたようだった。

 だが、彼女は、そんな内心を一切顔に出さず、完璧なプロフェッショナルの笑顔を浮かべた。

「魔石の買い取りですね。承知いたしました。少々お待ちくださいませ」

 その所作は、どこまでも丁寧で、洗練されていた。彼女は、手慣れた様子で、三つの魔石を専用のピンセットでつまみ上げると、カウンターの横に設置された、最新鋭の鑑定用機械のトレイに、そっと乗せた。

 機械が、静かな駆動音と共に、魔石の鑑定を開始する。魔石の純度、内包されている魔力量、そして、市場価値。それらが、数秒で正確に分析されるのだ。


 鑑定結果が出るまでの、わずかな沈黙。

 隼人は、手持ち無沙汰に、ただ、目の前の機械が静かに光るのを眺めていた。

 その、隼人の横顔を、水瀬雫は、じっと見つめていた。

 彼女は、何かを思い出そうとするかのように、わずかに首を傾げている。今日の昼休憩の時間、同僚たちが見せてくれた、スマートフォンの画面。そこで話題になっていた、衝撃的な配信のクリップ映像。

『ゴブリンの洞窟で神クラフト』、『詳細不明のS級レアスキル』、『彗星の如く現れた新人、その名はJOKER』…。

 まさか。そんな偶然があるはずがない。

 だが、目の前にいる、この青年の顔。どこか眠たげで、それでいて、その奥に、底知れない狂気と自信を宿した、アンバランスな瞳。

 クリップ映像で見た、あの配信者の顔と、完全に一致していた。


 雫の心臓が、ドキドキと高鳴り始める。ファンとしての興奮と、本人を前にした緊張。そして、プロとして、お客様のプライバシーに踏み込んでいいものか、という葛藤。

 数秒間、彼女は迷った。

 だが、彼女の口は、その理性の制止を振り切って、自然に、言葉を紡ぎ出していた。

 彼女は、カウンターに身を乗り出し、他の客に聞こえないように、声を潜めて、そして、期待と、確信に満ちた声で、こう尋ねた。


「あの…」

「…もしかして、配信者の、『JOKER』さん、ですか…?」


 その言葉は、静かな換金所の空気に、小さな、しかし、確かな波紋となって、広がっていった。

 隼人の時間が、止まった。

 彼の完璧なポーカーフェイスが、ほんのわずかに、崩れかけていた。

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