第117話
B級ダンジョン【嘆きの海溝】。
その血と錆の匂いが染み付いた深海の回廊は、もはや神崎隼人 "JOKER" にとって、第二の書斎と化していた。
あれほどの死闘を繰り広げた【深淵のクリムゾンルーラー】との戦いを終えてから、数週間。
彼は、このダンジョンを自らの新たな「作業場」として、淡々と、しかし圧倒的な効率で周回し続けていた。
彼の配信スタイルは、再びあのC級ダンジョンを蹂躙していた頃の、絶対的な安定感を取り戻していた。
いや、その安定感は、もはや以前とは比較にならない、別次元の領域へと達していた。
彼の耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは、クラシック音楽が流れている。
バッハの、厳格で、しかしどこまでも美しい無伴奏チェロ組曲。
その数学的なまでに完成された旋律に、彼の思考はシンクロしていく。
「…このプレリュードのアルペジオ。一見、単純な分散和音に聞こえるだろ?だが、違うんだ。この一つ一つの音の中には、隠された対旋律がいくつも折り重なってる。バッハは、たった一本のチェロでオーケストラを表現しようとしたんだ。まさに、変態的な試みだ」
彼のそのあまりにもアカデミックな音楽談義に、コメント欄がいつものように和やかなツッコミと笑いに包まれる。
『出たwwwww JOKERさんのクラシック講座wwwww』
『プログレの次は、バッハかよ!振り幅が広すぎる!』
『でも、この優雅な音楽をBGMに敵をミンチにしていくスタイル、最高にサイコパスで好きだわw』
彼がそう語りながら、ひょいと角を曲がった、その瞬間。
彼の目の前に、ぬめりとした体表を持つ【深海の追跡者】の一団が現れた。
だが、隼人はその雑談を止めることはない。
彼の右手は、もはや彼の意識とは別の生き物のように滑らかに動き、その腰に差されたユニーク長剣【憎悪の残響】を抜き放つ。
そして、ただチェロの旋律に合わせるかのように、優雅に一閃。
ザシュッ!
彼の長剣が通り過ぎたその軌跡上の全ての追跡者が、その体を青黒い霜で覆われながら、一瞬で砕け散り、光の粒子となって消えていく。
出血デバフを受ける、暇すら与えない。
あまりにも、一方的な蹂躙。
彼のレベルは、あのボス戦の後、この地道な周回によってさらに二つ上昇し、ついに38の大台に到達していた。
その圧倒的な基礎能力の向上は、B級中位の雑魚モンスターなど、もはや彼の敵ではないことを、雄弁に物語っていた。
だが、彼は満足していなかった。
彼の心には、常に一つの小さな、しかし無視できない棘が刺さっていたのだ。
それは、出血への対策を一本のライフフラスコに依存しているという、構造的な脆弱性。
確かに、今の彼の力ならば、雑魚モンスターの群れに不覚を取ることはない。
だが、この先、B級上位、あるいはA級という未知なるテーブルに挑む時。
このたった一本のフラスコが尽きた、その瞬間が、彼の「死」を意味するのではないか。
その漠然とした、しかし確かな不安。
それが、彼のギャンブラーとしての完璧主義を許さなかった。
その日の周回を終え、インベントリがおびただしい数のB級の魔石で満たされたことを確認すると、彼はダンジョンを後にした。
自室の古びたゲーミングチェアに深く身を沈め、彼は自らの次なる一手について思考を巡らせる。
そして、彼の脳裏に一つの記憶が蘇った。
それは、かつて彼がC級の壁にぶち当たり、絶望の淵にいたあの時。
SeekerNetの情報の海の中から見つけ出した、一つの「解法」。
レベル38から解禁されるという、あのスキルコンボ。
「…潮時か」
彼は、呟いた。
レベルは、38に到達した。
軍資金も、十分すぎるほどにある。
もはや、躊躇する理由はない。
彼は決意した。
自らの防御戦略を、次なるステージへと引き上げる、新たな力を手に入れることを。
彼は、SeekerNetのマーケットへとアクセスした。
そして検索窓に、その二つのスキルジェムの名前を打ち込んだ。
【スティールスキン】
【被ダメージ時キャストサポート】
表示された、アイテムリスト。
どちらも高レベルの探索者からの需要が高く、それなりの値段で取引されている。
特に、【スティールスキン】はレベル10まで育成済みのものが人気で、価格も高騰していた。
だが、今の彼の資産の前では、もはや問題にならない。
彼は躊躇なく、最も状態の良い【スティールスキン レベル10】と【被ダメージ時キャストサポート レベル1】をカートに入れ、購入を確定させた。
合計、20万円。
その大きな投資。
だが、彼は確信していた。
これは、彼の未来の生存率を劇的に引き上げる、最高の「保険」になると。
数分後。
彼の手元に、二つの新たなスキルジェムが転送されてくる。
一つは、鋼鉄の輝きを放つ赤い宝石。
もう一つは、血のような模様が浮かぶ不気味な赤い宝石。
彼は、その二つのジェムを手に取り、自らの魂へと意識を集中させる。
彼の魂の内側には、スキルをセットするための神聖な盤面が広がっている。
彼は、その盤面の空いているスロットに、この二つのジェムを厳かにセットした。
そして、彼は脳内で二つのジェムを光の線…「リンク」で繋いだ。
その瞬間。
彼の魂に、新たな力が刻み込まれる。
彼のスキルウィンドウに、新しいアイコンが表示された。
それは、彼が直接発動させるスキルではない。
ただ静かにその時を待つ、カウンターのための罠。
「さてと」
彼は、満足げに頷いた。
「こいつの性能を、試させてもらうか」
彼の瞳には、再び闘志の火が灯っていた。
向かう先は、決まっている。
あの忌々しい、しかし今となっては最高の実験場。
B級中位ダンジョン【嘆きの海溝】。
新たな力を手に入れた彼が、その成長を確かめるための最高の舞台が、彼を待っていた。
◇
翌日の配信。
隼人は、再び【嘆きの海溝】の、血のように赤いサンゴの扉の前に立っていた。
彼のその姿に、コメント欄がざわつく。
『おお!また嘆きの海溝か!』
『新しいスキル、試すんだな!』
『スティールスキン、そんなに強いのか?』
隼人は、その期待の声に不敵な笑みで応えると、ダンジョンの奥深くへと進んでいく。
そして、彼は一体の【深海の追跡者】と対峙した。
彼は、あえて動かない。
ただその場に仁王立ちし、追跡者の攻撃を待つ。
「キシャアアアッ!」
追跡者が、その鋭い爪を振りかぶり、隼人の胸元へと叩きつけてきた。
ザシュッ、という生々しい音。
彼の鎧が切り裂かれ、HPバーがわずかに削られる。
そして、彼のステータスウィンドウに、あの忌々しい出血のアイコンが点灯した。
だが、その直後だった。
彼の体がダメージを受けた、その瞬間。
彼の魂にリンクされた二つのスキルジェムが、自動で反応した。
【被ダメージ時キャストサポート】がトリガーとなり、【スティールスキン】が発動する。
彼の全身を、まるで第二の皮膚のように、鋼鉄の輝きを放つ半透明のバリアが、一瞬で包み込んだ。
彼のHPバーの上に、新たな青いゲージが表示される。
『ガード値: 464』
そして、何よりも劇的な変化。
彼の体を蝕んでいた出血のデバフアイコンが、その鋼鉄のバリアが展開された瞬間、まるで嘘のように浄化され、消え去ったのだ。
「…はっ。なるほどな」
隼人は、そのあまりにも劇的な効果に、満足げに頷いた。
「ダメージを受けた瞬間に、自動で発動。そして、出血を無効化か。こりゃ、楽でいいな」
彼は、追跡者の追撃をその鋼鉄のバリアで受け止める。
バリアのガード値が、わずかに削れる。
だが、彼のHPには傷一つ付かない。
そして数秒後、バリアの効果が切れると同時に、彼は反撃に転じた。
もはや出血を恐れる必要のない彼の剣は、これまで以上に自由で、そして鋭い。
彼は追跡者を一瞬で切り伏せると、その新たな力の感触を確かめるように、拳を握りしめた。
『すげええええ!』
『出血、消えたぞ!』
『これがスティールスキンか!強すぎる!』
『ダメージも肩代わりしてくれるし、まさに鉄壁じゃねえか!』
コメント欄が、熱狂に包まれる。
隼人はその声援を背に、ただ静かに頷いた。
「ああ、これで防御面は、ほぼ完成だな」
彼は、そう呟いた。
出血対策をフラスコに依存するという不安定さ。
その最後の弱点が、今、完全に埋められた。
彼のビルドは、また一つ、完璧なものへと近づいていた。
だが、彼は満足していなかった。
彼のギャンブラーとしての魂が、囁きかけるのだ。
(防御は、完璧になった。だが、それだけじゃ足りない)
(B級中位を、「安定して攻略する」だけじゃダメだ)
(俺が求めるのは、圧倒的な「蹂躙」だ)
彼は、思う。
今の俺の、火力。
確かに、強い。
だが、B級中位の敵を倒すには、まだ数回の攻撃が必要だ。
その時間が、まだるっこしい。
もっと速く。
もっと、圧倒的に。
一撃で敵を粉砕する、絶対的な火力が欲しい。
彼の視線は、自然と自らのビルドの最大の弱点へと向かっていた。
【魔道士の革鎧】。
あのアメ横のフリーマーケットで手に入れた、古びた胴当て。
あそこを更新し、火力に直結するステータスを手に入れることができれば。
彼の殲滅速度は、飛躍的に向上するはずだ。
「…次は、胴装備か」
彼は、呟いた。
新たな目標が、定まった。
だが、そのためには、また莫大な軍資金が必要になるだろう。
彼の思考が金策へと移りかけたその時、彼はもう一つの可能性に気づいた。
(…そういや、パッシブポイントも溜まってたな)
レベル38。
あのB級ボスとの死闘の後、彼は一度もパッシブスキルツリーを開いていなかった。
つまり、15ポイントの未割り振りのパッシブスキルポイントが、彼の魂に眠っているはずだ。
大分、余裕ができたな。
彼の心に、新たな期待の光が灯る。
この15ポイントを、どう使うか。
火力に振るか?
それとも、さらなる生存能力か?
あるいは、全く新しい可能性の扉を開くか?
彼の頭の中で、無数のビルドの構想が、火花を散らし始めた。
物語は、主人公が自らの防御を完璧なものへと昇華させ、そして次なる渇望…「火力」を求めて、新たな思考の迷宮へと足を踏み入れた、その瞬間を描き出して幕を閉じた。