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第116話

 B級中位ダンジョン【嘆きの海溝】。

 その血と嘆きの領域を、完全に支配下に置いてから、数日が経過していた。

 神崎隼人 "JOKER" は、その日も、自らの「庭」となったあの深海のダンジョンを、淡々と周回していた。

 レベルは38に到達し、彼のビルドは、もはやこの場所において敵なしの完成度を誇っていた。

 出血のギミックは、もはや彼にとってただの作業工程の一つに過ぎない。

 出血を食らえばフラスコを呷り、4秒間の無敵時間で敵の群れを殲滅する。その、あまりにも完成されたループ。

 彼の配信は、再びあのC級ダンジョンの頃のような、絶対的な王者がその支配領域をただ巡回するだけの、圧倒的に安定しきったショーへと、その姿を変えていた。


 だが、彼の心は満たされてはいなかった。

 この安定は、心地よい停滞だ。

 ギャンブラーの魂が、新たなスリルを求めて渇望していた。

 B級中位は、卒業だ。

 次なるステージへ。

 そのためには、軍資金が必要だった。


 その日の周回を終え、インベントリがおびただしい数のB級の魔石といくつかの高価なレアアイテムで満たされたことを確認すると、彼はダンジョンを後にした。

 向かう先は、ただ一つ。

 もはや、彼の第二の我が家とも言えるあの場所。

 新宿のギルド本部ビル、その一階にある換金所。

 そこに、彼の最高の「軍師」がいることを、彼は知っていたからだ。


 ガラス張りの自動ドアをくぐると、そこにはやはり彼の期待通りの人物がいた。

 艶やかな栗色の髪をサイドテールにまとめた、知的な美貌の受付嬢。

 水瀬雫。

 彼女は隼人の姿を見つけると、その大きな瞳をぱっと輝かせた。

 その表情には、いつものような純粋な喜びと、そして彼の無事を確認した安堵の色が浮かんでいた。


「JOKERさん!お待ちしておりました!」

 その声は、弾んでいた。まるで、待ちわびた英雄を出迎えるかのような、純粋な喜びに満ちていた。

「【嘆きの海溝】完全攻略、本当におめでとうございます!あのクリムゾンルーラーとの戦い、本当に素晴らしかったです!」

「…ああ」

 隼人は、その手放しの賞賛に少しだけ照れくさそうに答えながら、インベントリから、この数日間の全ての稼ぎである大量の魔石とドロップアイテムを、カウンターのトレイの上に置いた。

 その圧倒的な量に、雫は改めて息を呑む。

「…これ、全部、この数日で…?信じられません…。B級中位の周回速度としては、異常ですよ」

 彼女は、手慣れた、しかしどこかうっとりとした手つきで、それらを鑑定機へとかけていく。

 その鑑定を待つ、わずかな時間。

 それは、彼らにとって恒例となった、貴重な作戦会議の時間だった。


「ええ、本当に見事でした」

 雫は鑑定機のモニターを見つめながら切り出した。その横顔は、再びプロの軍師のそれへと戻っていた。

「B級中位ダンジョンは、これで完全に攻略したと言って差し支えないでしょう。JOKERさん、あなたはまた一つ、大きな壁を越えられましたね」

「まあな」

 隼人は、ぶっきらぼうに答える。

「だが、満足はしてねえ。あの程度のボスに、あれだけ苦戦させられてるようじゃ、この先が思いやられる」

「ふふっ、相変わらずご自分に厳しいですね」

 雫は、楽しそうに笑った。

「ですが、その向上心こそが、あなたの強さの源泉なのでしょう。…それで、次なる目標は、もうお決まりですか?」

 その問いかけに、隼人は静かに頷いた。

「ああ。B級上位か、あるいはA級か。どちらに挑むにせよ、今の俺の装備じゃまだ足りない。特に、こいつがな」

 彼は、自らの胴体を指し示した。

 彼が今身に着けているのは、アメ横のフリーマーケットで手に入れた、【魔道士の革鎧】。

 HP+10、MP+50。

 C級の段階では、確かに有用だった。

 だが、レベル38となり、全身の装備がインフレしていく中で、この胴装備の貧弱さは、もはや隠しようもなかった。

 ここが、今の彼のビルドの、唯一にして最大の「穴」だった。


「なるほど…。胴装備の更新ですか。確かに、それは急務かもしれませんね」

 雫は、深く頷いた。

「ですが、JOKERさん。あなたの理想を満たす胴装備となると、それこそ数百万、数千万円単位の投資が必要になりますよ。今の軍資金で、果たして手が届くかどうか…」

「分かってる」

 隼人はそう言うと、インベントリから一つの指輪を取り出した。

 プリズムのように虹色の光を放つ、美しい指輪。

【孤高の印】。

「こいつを、売る」

 その、あまりにも潔い決断。

 それに、雫は少しだけ驚いたような表情を浮かべた。

「…よろしいのですか?確かに、あなたのビルドとは少し相性が悪いかもしれませんが、それでもこれ一つで耐性が50%も確保できる、素晴らしいユニークですよ?」

「ああ、構わねえ。俺には、俺のやり方がある」

 隼人の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。

「こいつを軍資金に変えて、俺だけの最強の胴当てを手に入れる。それこそが、俺が選んだ道だ」

 その力強い言葉に、雫は静かに頷いた。

「…承知いたしました。では、こちらの【孤高の印】、公式オークションハウスに出品させていただきますね。開始価格は、いかがなさいますか?」

「…100万で、頼む」

「承知いたしました。では、手続きを進めます」


 雫が、テキパキとオークションの出品手続きを進めていく。

 その間、隼人は自らのスマートフォンを取り出し、SeekerNetのマーケットを開き、理想の胴装備を探し始めた。

 彼が求める条件は、明確だった。

 最大HP+100以上。

 最大MP+50以上。

 そして、火、氷、雷、三つの元素耐性がバランス良く付与されていること。

 欲を言えば、混沌耐性も欲しい。

 だが、彼の目に飛び込んでくるのは、絶望的な現実ばかりだった。


(…ダメだ。どれもこれも、高すぎる…)

 彼の条件を満たす装備は、確かに存在する。

 だが、そのどれもが、彼の想像を遥かに超える値段で取引されていたのだ。

 最低でも、200万円。

 少しでも良い耐性が付けば、その価格は500万、1000万へと跳ね上がる。

 彼の全財産を投げ打っても、ギリギリ買えるかどうかだ。

 あまりにも、高すぎる壁。


「…クソがっ」

 彼の口から、苛立ちの混じったため息が漏れた。

 この世界の現実は、非情だ。

 B級とA級の間には、彼が思っていた以上に、深く、そして暗い絶望の谷が横たわっていた。

(…どうする?このままじゃ、埒が明かねえぞ…)

 彼は、思考を巡らせる。

(やはり、地道にB級を周回して金を貯めるしかないのか…?それとも、あの腐敗のオーブを使って、一世一代の大博打に出るか…?)

 彼の心が、揺れ動く。

 その彼の内なる葛藤を見透かしたかのように、雫が静かに声をかけた。

「JOKERさん。オークション、始まりましたよ」


 彼女の言葉に、隼人ははっと我に返った。

 そうだ、まだ勝負は終わっていない。

 このオークションの結果次第で、彼の未来は大きく変わる。

 彼は、スマートフォンの画面をオークションのページへと切り替えた。

 そこに表示された光景。

 それは、彼の想像を絶する熱狂の始まりだった。


 開始価格、100万円。

 その数字が表示された瞬間。

 入札の通知が、立て続けに鳴り響いた。

 101万円。

 102万円。

 103万円。

 価格は、まるで壊れたスロットマシンのように、凄まじい勢いで吊り上がっていく。

「…なんだ、これ…」

 隼人は、その異常な光景に呆然と呟いた。

 雫が、その理由を解説する。

「…やはり、こうなりましたか。JOKERさん、あなたの影響力は、もはやあなたが思っている以上に巨大なものになっているんですよ」

「どういうことだ?」

「あなたの配信を見て、多くのソロプレイヤーが希望を抱いた。そして、彼らが今、こぞってこの【孤高の印】を求めているんです。JOKERと同じ装備を手に入れれば、自分も彼のようになれるかもしれないと」

「…馬鹿げてる」

「ええ、馬鹿げています。ですが、それもまた人の夢というものなのでしょう」


 オークションは、白熱していた。

 最終的に、二人のプレイヤーによる一騎打ちの様相を呈してきた。

 一方は、堅実に1万円ずつ価格を上乗せしてくる。

 もう一方は、それを嘲笑うかのように、常に2万円、3万円と大きな額を提示してくる。

 心理戦。

 そして、チキンレース。

 隼人は、その光景をただ固唾を飲んで見守っていた。

 やがて、価格は110万円の大台を突破した。

 そして、残り時間1分を切ったその瞬間、それまで堅実に刻んでいたプレイヤーが動いた。

 彼は、これまでの全てを覆すかのような大きな賭けに出たのだ。


『現在価格: 1,150,000円』


 一気に、5万円の吊り上げ。

 そのあまりにも大胆な一手に、オークションハウスがどよめいた。

 そして、その一撃が、この長い戦いに終止符を打った。

 もう一方のプレイヤーは、完全に沈黙した。

 そして、カウントダウンがゼロになる。


『オークションは終了しました。最終落札価格: 1,150,000円』


 その数字を見て、隼人は思わず息を呑んだ。

 115万円。

 彼の予想を、遥かに上回る金額。

 手数料を差し引いても、100万円以上の大金が彼の手元に転がり込んでくる。

 今日の稼ぎと合わせれば、彼の資産は再び1000万円を超えるだろう。


「…やったな」

 彼は、短く呟いた。

 その声には、確かな喜びと、そして安堵の色が滲んでいた。

 だが、その喜びも束の間だった。

 彼は、再びマーケットの画面へと視線を戻す。

 そして、そこに表示されている、千万円からそれ以上という、絶望的な数字の羅列を見つめた。

 1000万円。

 それは、確かに大金だ。

 だが、この神々のテーブルでは、まだまだ端金に過ぎない。

 理想の胴装備を手に入れるには、全く足りない。



※2025/07/17 読者から指摘がありレベルをガバって間違えてたので修正しました。

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