第115話
ここが【嘆きの海溝】の最深部。
このダンジョンの主が潜むエリアだ。
彼の配信のコメント欄もまた、その荘厳で不気味な光景に息を呑んでいた。
『なんだ、この場所…』
『雰囲気が、ヤバすぎる…』
『ボスは、どこだ…?』
隼人は長剣【憎悪の残響】を構え直し、慎重にその広大な空間へと足を踏み入れた。
張り詰めた空気が、彼を包む。
風も、水の流れも感じられない。
ただ、耳の奥でキーンと響くような圧迫感だけがあった。
その静寂は、唐突に破られた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
空洞の奥。
最も巨大な沈没船の影が、ぐらりと揺れた。
いや、影ではない。
影そのものが、意志を持ったかのように動き出したのだ。
地響きと共に、巨大な何かがそのおぞましい姿を現す。
それは、甲殻類を彷彿とさせる異形の怪物だった。
全長は、20メートルを優に超えるだろう。
フジツボや発光生物に覆われたその巨体は、まるで古代の要塞が歩いているかのようだ。
だが、その隙間から覗く甲殻は、血で濡れたようにぬらぬらと赤黒く光り、絶えず粘性の高い液体を滴らせていた。
怪物は、非対称な一対のハサミを持っている。
右腕のそれは、船の残骸をも砕かんばかりに分厚く巨大で、防御を主眼とした盾のようだ。
対して左腕のハサミは、剃刀のように鋭く長く、獲物を切り裂くためだけに進化してきたことが一目でわかった。
無数にある脚が砂地を掻き、ゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感をもって、こちらへとにじり寄ってくる。
頭部と思われる部分には、複眼のような光がいくつも明滅していた。
それが、隼人を捉えた瞬間。
空気が、震えた。
『――――――』
声にならない、咆哮。
それは、音波ではない。
純粋な殺意の波動となって、彼の精神を直接揺さぶった。
ARシステムが、その脅威の名を表示する。
【深淵のクリムゾンルーラー】
「――来るぞ」
隼人は短く呟くと、その全身の神経を極限まで研ぎ澄ませた。
B級中位ダンジョン、ボス戦。
その幕が、今、切って落とされた。
王の初手は、攻撃ではなかった。
クリムゾンルーラーがその巨体をわずかに沈ませると、その全身から、まるで蒸気のように赤黒い霧が噴出した。
霧は、瞬く間に周囲に広がり、視界を赤く染め上げていく。
それは、単なる目くらましではなかった。
《裂傷(出血)デバフを付与されました。5秒間行動を停止すると解除されます》
隼人の視界の端に、無慈悲なシステムメッセージが浮かび上がる。
「いきなりかよ!」
隼人が、悪態をつく。
ただそこにいるだけで、立っているだけで、生命力が削られていく。
これが、このボスの基本的な戦闘スタイルなのだと、彼は瞬時に理解した。
そして、彼は即座にベルトに差した一本のフラスコを呷った。
出血解除の、ライフフラスコ。
彼の体を蝕んでいた出血の呪いが浄化され、4秒間の出血耐性を得る。
だが、それも束の間。
霧の中にいる限り、耐性が切れれば、すぐにまたデバフが付与される。
フラスコは、わずかな延命措置にしかならない。
(…この霧から、逃れるのが先決か)
彼は、そう判断した。
だが、クリムゾンルーラーは、彼にその思考の時間すら与えてはくれなかった。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ!
霧の中から、無数の鋭い何かが飛来する。
いや、違う。
地面からだ。
隼人が立っている砂地から、血でできたかのような鋭利な棘が、まるで生き物のように彼を追尾して突き上げてくる。
「くそっ、これじゃ止まれない!」
隼人は、歯噛みする。
一撃の威力は、低い。
だが、その発生速度と追尾性能が、異常に高い。
一発でも食らえば、出血デバフのタイマーがリセットされることは、火を見るより明らかだった。
彼は、その執拗な追撃を華麗なステップで回避し続ける。
回避、回避、また回避。
攻撃に移るための、予備動作に入ることすらできない。
これこそが、【深淵のクリムゾンルーラー】の戦術。
エリア全体に継続的な出血効果を与え、挑戦者のHPを常に減少状態に置く。
そして、地面からの追撃で執拗に動きを強制し、出血を解除するための「5秒間の静止」を、絶対に許さない。
直接的な大ダメージを与えるのではなく、じわじわと、しかし確実に相手を消耗させ、リソースを枯渇させて殺す。
まさに、この【嘆きの海溝】というダンジョンそのものを体現したかのような、陰湿で狡猾な戦闘スタイルだった。
このままでは、ジリ貧だ。
それは、誰の目にも明らかだった。
何か、何か流れを変えるきっかけがなければ。
隼人は、思考を加速させる。
ボスの攻撃パターンを、分析する。
常時展開の、霧。
断続的な、地面からの追撃。
この二つが、今のところボスの攻撃の全てだ。
だがあの巨大なハサミを、一度も使ってきていない。
特に、あの剃刀のような左のハサミ。
あれが、飾りであるはずがない。
いつ、来る?
どんな、時に?
その瞬間。
痺れを切らした隼人が、動いた。
彼は地面から突き上げる棘の波を強引に突き抜け、一直線にクリムゾンルーラーへと突進した。
そして、その巨大な脚の一本に、渾身の一撃を叩き込んだ。
ガギンッ!と鈍い音が響き、ボスの巨体がわずかに揺らぐ。
ボスの複眼が、鬱陶しい小虫を見るかのように隼人を捉えた。
そして、ついに動いた。
これまで一度も見せなかった、左の巨大なハサミ。
それが、ゆっくりと、しかし天を衝くほどの高さまで持ち上げられる。
予備動作は、大きい。
だが、その先端に集約されていく魔力の密度は、これまでの攻撃とは比較にならなかった。
「――来るぞ!」
隼人は、その一撃を誘発させたまさにその張本人でありながら、その圧倒的なプレッシャーに息を呑んだ。
彼は、即座にその場から飛び退き、回避に専念する。
直後。
ゴウッ!という風切り音と共に、巨大なハサミが振り下ろされた。
それは、彼が先ほどまでいた場所を、砂地ごと抉り取った。
衝撃波が走り、周囲の沈没船の残骸がビリビリと震える。
もし食らっていたら、盾ごと両断されていただろう。
だが、隼人はその光景を見逃さなかった。
巨大なハサミを振り下ろしたクリムゾンルーラーは、その巨大さゆえか、ほんの一瞬、動きを止めていた。
そして、もう一つ。
彼の視界の端で、システムメッセージが更新されていない。
つまり、あの巨大なハサミには、出血効果が付与されていなかったのだ。
これだ。
隼人の脳内で、光明が差した。
この硬直時間こそが、俺が唯一「5秒間静止」できるタイミング。
そして、それだけじゃない。
あそこが、最大の攻撃チャンスにもなる!
作戦は、決まった。
意図的に、巨大なハサミによる攻撃を誘発させる。
そして、それを回避した直後の、ボスのわずかな硬直時間。
その数秒間が、この絶望的な状況を打開するための、唯一の鍵だった。
「――もう一丁、行くぜ!」
隼人の目に、闘志が宿る。
彼は再びボスの懐へと飛び込み、その脚に斬撃を叩き込む。
鬱陶しそうに、クリムゾンルーラーの複眼が彼を捉える。
そして狙い通り、再び左の巨大なハサミが、ゆっくりと持ち上げられた。
「――来いよ!」
隼人が、叫ぶ。
天高く掲げられたハサミが、頂点で一瞬静止し、そして振り下ろされる。
「――今だ!」
隼人は今度は後ろに下がるのではなく、ボスの懐に潜り込むようにして回避した。
轟音と共に、巨大なハサミが地面を穿つ。
生まれた、わずか数秒の静寂。
そして、安全地帯。
だが、隼人はその貴重な時間を出血デバフの解除には使わなかった。
彼は、その時間を全て攻撃に注ぎ込むことを選択した。
「うおおおおっ!」
彼は、ボスの硬直した巨体へと突進していた。
彼の愛用する長剣【憎悪の残響】が、紅蓮の光を纏う。
ボスの巨大な脚の付け根、比較的装甲が薄い関節部分を狙って、渾身の一撃を叩き込んだ。
ゴギャンッ!という、これまでとは明らかに違う手応え。
ボスの赤黒い甲殻が砕け散り、そこから体液のようなものが噴き出した。
クリムゾンルーラーが、初めて苦痛の声を上げた。
『ギギギギギッ!』
「やったか!」
手応えに、隼人の口元が緩む。
だが、喜びも束の間だった。
ダメージを受けたクリムゾンルーラーは、硬直から回復すると同時に、その行動パターンを変化させた。
ゴボゴボッ、と不気味な音を立てて、クリムゾンルーラーの巨体が砂地へと沈み込んでいく。
「消えた!?」
「いや、潜ったんだ!」
隼人が、警告を発する。
これは、HPが半分以下になった時の行動パターンか。
こちらの攻撃が、確実に効いている証拠だった。
しかし、喜んでばかりもいられない。
次の瞬間、彼の足元の砂地が、不気味に赤く発光した。
「――しまっ…!」
隼人は、即座にその場から飛び退く。
直後。
ズドンッ!という轟音と共に、クリムゾンルーラーの巨体が、まるで巨大な杭のように、彼の真下から突き上げた。
「危ねえな、おい!」
彼は、冷や汗を拭う。
だが、クリムゾンルーラーの攻撃は、さらに激しさを増していた。
赤黒い霧の濃度が、先ほどよりも濃くなっている。
出血による、ダメージ量が増加しているのだ。
地面から突き上げる棘の数も増え、その追尾性能も上がっているように感じられた。
もはや、巨大なハサミによる攻撃を誘発して安全地帯を作るという戦法だけでは、押し切れなくなっていた。
ボスの硬直時間は変わらないが、その後の反撃が苛烈になりすぎている。
消耗戦。
じりじりと、しかし確実に、彼は追い詰められていく。
ライフフラスコの残量も、残りわずか。
これが尽きれば、回復手段はなくなる。
そして、その時は刻一刻と迫っていた。
戦闘領域も、徐々に狭まっていた。
クリムゾンルーラーは時折その巨大な右のハサミを振るい、戦闘の障害物となっていた沈没船の残骸を、破壊し始めたのだ。
身を隠し、地面からの棘の射線を切るために利用していたマストや船壁が、次々と瓦礫に変えられていく。
視界は開けていくが、それは同時に、身を守るものがなくなっていくことを意味していた。
「…やるしか、ねえか」
隼人は、覚悟を決めた。
このまま戦い続けても、先に尽きるのはこちらだ。
ならば、残された全てを、次の一撃に賭けるしかない。
彼は、最後のライフフラスコを呷った。
4秒間の、出血耐性。
そして、彼は動いた。
ターゲットは、ただ一つ。
クリムゾンルーラーの頭部。
その複眼が、集まる弱点。
彼はこれまでの死闘の中で、その一点だけが、他の部位よりもわずかに脆いことを見抜いていた。
彼はボスの猛攻を紙一重でかわしながら、その懐へと飛び込む。
そして、彼は残された全ての魔力と魂を込めて、その一撃を放った。
彼の、最大最強の切り札。
彼の長剣が、紅蓮の闘気のオーラをその身に激しく纏った。
そして、その切っ先が、クリムゾンルーラーの複眼の中心へと、吸い込まれるように突き刺さった。
ズッッッッッッッッッ
これまでとは比較にならない、凄まじい破壊音。
クリムゾンルーラーの硬い頭蓋が内側から破壊され、その複眼から、青黒い体液が噴き出した。
『ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?』
クリムゾンルーラーが、断末魔の絶叫を上げた。
その巨大な体はもはやその存在を維持することができず、ゆっくりとその場に崩れ落ちていく。
ゴゴゴゴ…と地響きを立てながら、かつてこの領域を支配した王は、ただの巨大な亡骸となって、船の墓場の砂地へと沈んでいった。
静寂が、戻る。
赤黒い霧が晴れ、視界がクリアになる。
鬱陶しかった出血デバフの表示も、もうどこにもない。
「…はぁ…はぁ…」
隼人は、その場に膝から崩れ落ちた。
全身が、鉛のように重い。
だが、彼の心はこれ以上ないほどの達成感と、勝利の陶酔に満たされていた。
勝ったのだ。
この絶望的なテーブルで、俺は勝ったのだ。
「…出血対策なしだったら、死んでたな」
彼は、ぽつりとそう呟いた。
あのライフフラスコがなければ、最初の数分で削り殺されていただろう。
改めて、準備の重要性を噛みしめる。
その瞬間。
彼の全身を、これまでにないほど強く、そして温かい黄金の光が包み込んだ。
B級中位の主を討伐した、莫大な経験値。
それが、彼の魂と肉体を一気に次のステージへと引き上げたのだ。
【LEVEL UP!】
【LEVEL UP!】
祝福のウィンドウが、彼の視界に立て続けに二度ポップアップする。
彼のレベルは、36から38へと一気に二つ上昇した。
やがて、ボスの亡骸が光の粒子となって消えていき、その場に一つのアイテムがドロップした。
それは、ひときわ強い輝きを放つ一つの指輪だった。
プリズムのように、虹色の光を放つ美しい指輪。
隼人は、その指輪を手に取った。
ARシステムが、その詳細な性能を表示する。
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名前: 孤高の印
ベース: プリズムの指輪
【性能】
要求レベル 30
暗黙MOD: 全ての元素耐性 +10%
他の指輪を装備できない
全ての元素耐性 +40%
アタックでヒットを与えた敵1体ごとに、30のマナを獲得する
アタックでヒットを与えた敵1体ごとに、60のライフを獲得する
プレイヤーに対する呪いの効果が50%減少する
【フレーバーテキスト】 仲間とは、弱者のための松葉杖だ。真に強き者は、己ただ一人で事足りる。
そのあまりにも特徴的で、そしてどこか彼自身を象徴するかのような性能。
それに、コメント欄が即座に反応した。
『うおおおお!ユニーク指輪!』
『孤高の印!これ、結構有名なやつじゃん!』
『耐性やべえな!これ一つで、50%も上がるのかよ!』
その熱狂の中で、いつもの有識者たちが、冷静な分析を始めた。
元ギルドマン@戦士一筋:
ほう、孤高の印か。確かに、良いユニークだ。
これ一つで、耐性の問題はほぼ解決する。B級の呪いを受けても、お釣りが来るレベルだ。
ライフ・オン・ヒットとマナ・オン・ヒットも強力。手数の多いJOKERのビルドとは、最高の相性だろう。
呪いの効果減少も、地味に嬉しい。
ハクスラ廃人:
だが、問題はデメリットだな。「他の指輪を装備できない」。
これが、痛すぎる。
JOKERのビルドの核である、【元素の円環】と【亀裂のある螺層】。その二つを、外さなければならない。
【元素の盾】のオーラが使えなくなるし、リジェネも大幅に低下する。
まさに、一長一短。ビルドの、根本的な見直しが必要になるな。
ベテランシーカ―:
ええ。ですが、そのデメリットを差し引いても、この指輪が強力であることには変わりありません。
特にソロプレイヤーにとっては、これ一つで多くの問題が解決しますからね。
まさにその名の通り、「孤高」を貫く者のための指輪です。
相場も安定していて、大体100万円くらいで取引されていますよ。
100万円。
その金額に、隼人は少しだけ心を動かされた。
だが、彼はすぐに首を横に振った。
「うーん…」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに聞こえるように呟いた。
「確かに、強い。強いが、俺のビルドとは合わねえな」
「【元素の円環】と【亀裂のある螺層】を外すデメリットが、デカすぎる。それに、俺はもう耐性には困ってねえしな」
彼はそう言うと、その美しい指輪をインベントリへと仕舞った。
「まあ、売れば100万か。臨時収入としては、美味しいな」
そのあまりにもドライで、そして彼らしい判断。
それに、コメント欄が再び沸き立った。
『潔い!w』
『それでこそ、JOKERだ!』
『100万ゲット!おめでとう!』
彼はその新たな資産を手に、ゆっくりとダンジョンの入り口へと向かう。
【嘆きの海溝】の攻略は、彼にとってこれまでで最も過酷で、そして最も大きな実りをもたらす戦いとなったのだった。