第104話
神崎隼人 "JOKER" の魂は、新たな戦場を渇望していた。
B級ダンジョン【古竜の寝床】。
そのテーブルは、もはや彼にとってぬるすぎた。
彼のギャンブラーとしての本能が、より高いレートを、よりスリリングなゲームを求めて叫んでいた。
SeekerNetでその存在を知った三つの地獄…「中位B級ダンジョン」。
その中でも、彼のビルドと最も相性が悪いとされる場所。
それこそが、彼が次に選ぶべき最高のテーブルだった。
その日の夜。
彼の配信チャンネルに、新たなショーの幕開けを告げるタイトルが表示された。
『【新・B級挑戦】静寂の図書館。――本当の地獄を見せてやる』
そのあまりにも挑戦的で、そしてどこか自虐的なタイトルに、彼のチャンネルは瞬く間に数万人の観客で埋め尽くされた。
コメント欄は、期待と興奮と、そしてそれ以上に大きな不安の声で沸騰していた。
『うおおおお!新しいダンジョン!』
『静寂の図書館!?マジかよ、JOKERさん!あそこはヤバいって!』
『戦士殺しで有名な場所じゃねえか!サイレンス地獄だぞ!』
『これは、さすがに無謀すぎるだろ…!』
その熱狂と心配の声をBGMに、隼人は転移ゲートをくぐった。
彼がたどり着いたのは、静寂と、そして死の匂いに満ちた空間だった。
天まで届くかのような巨大な本棚が、迷宮のように入り組んで並んでいる。
床には埃をかぶった分厚い絨毯が敷き詰められ、全ての足音を吸収する。
空気中には、古い紙とインクの匂い、そしてどこか甘い腐敗臭が混じり合っていた。
B級ダンジョン【静寂の図書館】。
そのあまりにも荘厳で、そして不気味な光景に、隼人はゴクリと喉を鳴らした。
「…なるほどな。雰囲気は、最高じゃねえか」
彼は長剣【憎悪の残響】を抜き放つと、その静寂の迷宮へとその第一歩を踏み出した。
彼が、最初の一冊の巨大な本棚の角を曲がった、その瞬間。
それは、現れた。
カタカタと骨の擦れる音と共に、本棚の影から一体の骸骨がその姿を現したのだ。
だが、それは彼が見慣れた剣と盾を構えた骸骨兵ではなかった。
その骸骨はボロボロの魔術師のローブをその身にまとい、その骨の手には歪な木の杖が握られている。
そして、その空虚な眼窩には、青白い知性の光が不気味に灯っていた。
【図書館の司書】。
このダンジョンの、番人だった。
「…魔法使いタイプか。面倒だな」
隼人は、舌打ちした。
だが、彼の心に油断はなかった。
ここは、B級。
何が起こるか、分からない。
彼はセオリー通り、距離を詰め、速攻で仕留めることを選択した。
彼が地面を蹴り、司書との距離を詰めようとしたその瞬間。
司書が、動いた。
その骨の指先が、隼人を指し示す。
そして、一切の詠唱なく、その周囲の空間から十数発の青白い魔力の弾丸が生成され、弾幕となって隼人へと襲いかかった。
「――何!?」
隼人は、そのあまりにも速い攻撃速度に驚愕した。
彼は咄嗟にその弾幕を盾で受け流し、あるいはステップで回避する。
だが、その弾丸の数はあまりにも多く、そしてその軌道は、いやらしく彼の回避ルートを塞ぐように放たれていた。
数発の弾丸が、彼の鎧を捉える。
ガキン、ガキン、と鈍い音が響く。
ダメージは、大したことはない。
彼の高い元素耐性が、そのほとんどを無力化していた。
(…なんだ、この程度か)
彼がそう思い、反撃に転じようとしたその瞬間だった。
彼の体に、異変が起きた。
彼のステータスウィンドウに、一つの見慣れない、そして忌々しいデバフアイコンが点灯したのだ。
《静寂の呪詛》
そして彼は、気づいた。
自らのMPバーが、これまでにない異常な速度で削られていくのを。
MP: 144... 134... 124... 114...
毎秒10。
その数字が持つ意味。
彼は、瞬時に理解した。
(…サイレンスか!)
これか。
これこそが、このダンジョンが「戦士殺し」と呼ばれる所以か。
彼は、慌てて反撃の剣を振るった。
【無限斬撃】。
ザシュッ!
彼の長剣が、司書のローブを切り裂く。
そして、マナ・リーチの効果で、彼のMPがわずかに回復した。
だが、その回復量は、サイレンスの呪いがもたらす減少量に、全く追いついていない。
戦えば戦うほど、MPが枯渇していく。
この、絶望的な現実。
「キシャアアアッ!」
司書は、甲高い、嘲笑うかのような奇声を上げると、再びその指先から追加の青い弾幕を放ってきた。
隼人は、その弾幕を必死に回避する。
だが、その数発が再び彼の体を捉えた。
そして、彼のデバフアイコンの効果時間がリセットされる。
5秒のカウントが再び始まったその瞬間、彼のMPはあっという間に底をついた。
MP: 10... 0。
彼の全身から、力が抜けていくような感覚。
オーラの輝きが、わずかに揺らめく。
彼は、もはやスキルを使うことができない。
「…クソが」
彼は、悪態を吐いた。
MPがなければ、彼のビルドはその真価を発揮できない。
残された攻撃手段は、ただの通常攻撃のみ。
だが、目の前の司書はひらりひらりと彼の攻撃をかわし、決して決定的なダメージを与えさせてはくれない。
幸い、司書の攻撃頻度はそれほど高くはない。
即座に死ぬことは、ないだろう。
だが、このままではなぶり殺しだ。
じわじわとMPを吸われ、スキルを封じられ、そしていずれHPも尽きる。
彼のギャンブラーとしての勘が、告げていた。
――このテーブルは、降りろ、と。
これ以上付き合っても、リスクがリターンを上回るだけだ。
彼の勘には、従うべきだ。
「…面白い手品を、見せてもらったぜ」
彼は、ARカメラの向こうの観客たちに聞こえるように呟いた。
その声には、悔しさではなく、むしろ新たなパズルを見つけたことへの喜びの色が滲んでいた。
「今日のところは、これくらいで勘弁してやる」
彼はそう言い放つと、インベントリから【ポータル・スクロール】を取り出し、その場で破り捨てた。
青白い光の渦が、彼を包み込む。
彼はその光の中で、最後に一度だけ振り返り、静かに佇む司書の姿をその脳裏に焼き付けた。
(…必ず戻ってくるぜ。その時は、お前のその忌々しい沈黙を、俺の力でこじ開けてやるからな)
物語は、主人公がB級の新たな洗礼を受け、初めて本当の「戦略的撤退」を余儀なくされたその屈辱と、そして次なるリベンジへの静かな闘志を描き出して幕を閉じた。