第103話
神崎隼人 "JOKER" の日常は、再び、あの忌々しい、しかしどこか心地よい「停滞」の匂いを放ち始めていた。
B級ダンジョン【古竜の寝床】。
あれほど彼を苦しめたあの場所も、今や彼の絶対的な支配下にあった。
竜人族の精鋭部隊は、もはや彼の敵ではない。
ただ、彼の経験値と資産を積み上げるための「的」に過ぎなかった。
彼のレベルは32を超え、そのビルドは、もはやこのダンジョンにおいてはオーバースペックと言っても過言ではない。
彼の配信は、再びあのC級の頃のような、安定しきったショーへと回帰していた。
ただ違うのは、その背景に流れる音楽が、プログレッシブ・ロックからフリー・ジャズへと変わったことくらいか。
「いや、だからオーネット・コールマンの本当の凄さは、その自由な発想にあるんだって。調性とか、コード進行とか、そういう既存の音楽理論を完全に破壊して、ただその瞬間の感情だけでサックスを吹いてる。あれは、もはや音楽じゃねえ。魂の叫びだ」
彼のそのあまりにも前衛的な音楽談義に、コメント欄もまた、いつものように和やかなツッコミと笑いに包まれていた。
『出たw JOKERさんのフリー・ジャズ講座www』
『もう、完全についていけねえwww』
『でも、このJOKERさんが一番好きだわw』
その平和な時間。
だが、その平和こそが、彼のギャンブラーとしての魂を、ゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。
彼は、感じていた。
このままでは、ダメだと。
このぬるま湯に浸かり続けていれば、いずれ牙は抜け、爪は丸まり、本当の大勝負のテーブルに座ることすらできなくなるだろう。
もっと上へ。
もっと、スリリングな場所へ。
彼の魂が、新たな戦場を渇望していた。
その日の夜。
ダンジョンから帰還した隼人は、自室でいつものように、SeekerNetの情報の海へとダイブした。
彼の目的は、明確だった。
次なるテーブルを、探すこと。
彼は検索窓に、こう打ち込んだ。
『B級ダンジョン 評価 ランキング』
エンターキーを押すと、彼の目の前に一つのスレッドが表示された。
それは、百戦錬磨のベテランたちが、自らの経験を元に、関東近郊のB級ダンジョンを格付けするという、極めて実践的なスレッドだった。
『【ガチ評価】B級ダンジョンティアリスト Part.18』
彼は、そのスレッドを食い入るように見つめていく。
そして、彼は衝撃の事実を目の当たりにすることになる。
1 ダンジョンソムリエ
さて、諸君。今日も、我々の独断と偏見に満ちたB級ダンジョン格付けを始めようか。
まずは、ティア4…つまり、「B級の恥晒し」、「初心者でも周回可能」な、カモダンジョンからだ。
【ティア4:リハビリ施設】
【古竜の寝床】*
【冒涜の聖域】*
言わずもがなだな。
この二つは、B級とは名ばかり。敵の動きは単調で、ギミックも分かりやすい。
耐性さえ確保すれば、C級を卒業したての新人でも、十分に攻略可能なレベル。
我々は、ここを、B級の洗礼を受けた探索者が心と体を癒すための、「リハビリ施設」と呼んでい-る。
「…は?」
隼人の口から、間抜けな声が漏れた。
リハビリ施設?
俺が、あれほどの死闘を繰り広げたあの場所が、ただのリハビリ施設だと?
彼のプライドが、グシャリと音を立てて踏み潰された。
彼は、震える指でスレッドをスクロールしていく。
そして、そのさらに上に君臨する、本物の「地獄」の存在を知ることになる。
1ダンジョンソムリエ
次に、ティア3。ここからが、本当のB級の始まりだ。
我々は、ここを「中位B級」と呼ぶ。
【ティア3:中位B級(本物の地獄の入り口)】
【静寂の図書館】*
【機械仕掛けの心臓】*
【嘆きの海溝】*
この三つのダンジョンに共通しているのは、ただ一つ。
「殺意」だ。
敵のAI、ギミック、そしてダンジョン構造、その全てが、探索者を殺すためだけに最適化されている。
生半可な覚悟で足を踏み入れれば、一瞬でその心を折られるだろう。
ここを安定して周回できて初めて、お前は「B級探索者」を名乗ることを許される。
そのあまりにも挑発的な、文章。
隼人の心に、火がついた。
面白い。
面白いじゃ、ねえか。
B級に、まだ上があるというのか。
俺が今まで戦ってきた場所は、ただのチュートリアルに過ぎなかったと。
その事実が、彼の停滞していた魂を、激しく揺さぶった。
彼は、もはや戦わざるを得なかった。
自らの力が、本物であることを証明するために。
そして、この世界の本当の深淵を覗き込むために。
彼は、その場で配信のスイッチを入れた。
その瞳には、もはや退屈の色はない。
ただ、最高の獲物を見つけた狩人の光だけが、爛々と輝いていた。
配信のタイトルは、シンプルに、そしてどこまでも挑戦的だった。
『【新・B級挑戦】中位ダンジョン攻略ショー』
そのタイトルが公開された瞬間、彼のチャンネルには、数万人の観客たちが津波のように殺到した。
コメント欄は、期待と興奮の熱気で沸騰していた。
『新しいB級!?』
『おいおい、JOKERさん、古竜の寝床はもう卒業かよ!』
『中位B級…!あの地獄に、挑むのか!』
『面白くなってきたじゃ、ねえか!』
その熱狂を背中に感じながら、隼人は転移ゲートへと向かった。
彼が選んだ、次なる戦場。
それは、三つの地獄の中でも、最も彼のビルドと相性が悪いとされる場所だった。
B級ダンジョン【静寂の図書館】。
そこは、かつて古代の賢者たちがその叡智を集積した、巨大な図書館がダンジョン化した場所。
出現するモンスターは、そのほとんどが魔法攻撃を主体とし、そして何よりも、「沈黙」や特殊なデバフを多用してくるという。
まさに、最悪のテーブル。
だが、それ故に、最高のギャンブルだった。
物語は、主人公が自らのプライドを賭けて、そしてさらなるスリルを求めて、未知なる本当の地獄の門を叩く、その最高の瞬間を描き出して幕を閉じた。