第102話
B級ダンジョン【古竜の寝床】。
その灼熱のカルデラは、もはや神崎隼人 "JOKER" にとって、完全に自らの庭と化していた。
あれほど彼を苦しめた古竜マグマロスとの死闘の記憶は、すでに遠い。
今の彼にとって、この場所は、ただ安全に、そして効率的に自らの力を蓄えるための、最高の「作業場」でしかなかった。
あれから、さらに一週間。
彼の日常は、何ら変わることはなかった。
朝目を覚まし、最低限の食事を腹に詰め込むと、彼はダンジョンへと向かう。
配信のスイッチを入れ、数万人の観客たちと他愛のない雑談を交わしながら、ただ黙々と竜人族の精鋭たちを「処理」していく。
その光景は、もはや彼の配信の風物詩となっていた。
視聴者たちもまた、その安定しきった彼の姿に心地よい安心感を覚え、それぞれの日常の中で、彼の配信をBGMのように流し続けていた。
その地道な努力の結果。
彼の力は、着実に、そして恐るべき速度で成長を遂げていた。
一週間前、レベル27だった彼のレベルは、ついに32の大台に到達していた。
レベル30を超えたことで彼の基礎能力はさらに底上げされ、その戦闘能力は、もはやB級の領域を完全に超越していると言っても過言ではなかった。
彼の資産もまた、雪だるま式に増え続けていた。
B級ダンジョンでの一日の稼ぎは、平均して40万円。
彼はその稼ぎの半分を、妹・美咲の治療費として病院へと送金し、残りの半分を、次なる投資のための軍資金として着実に蓄えていく。
その結果、彼の銀行口座の残高は、ついに400万円という、彼にとっては天文学的な数字にまで膨れ上がっていた。
全てが、順調だった。
あまりにも、順調すぎた。
そして、その順調さこそが、彼のギャンブラーとしての魂に、新たな渇きを生じさせていた。
その日の夜。
ダンジョンから帰還した隼人は、自室で一人、自らのビルドと向き合っていた。
彼はARウィンドウを開き、自らの装備一覧を静かに眺める。
武器、盾、頭、手、足、首、指輪、ベルト。
そのほとんどが、ユニークか、あるいは神がかったMODを持つレア装備で固められている。
だが、その完璧に見える布陣の中で、一つだけ。
明らかに、その輝きが見劣りするパーツがあった。
「…やはり、こいつか」
彼の視線は、一つの部位に釘付けになっていた。
胴装備。
彼が今身に着けているのは、アメ横のフリーマーケットで手に入れた、【魔道士の革鎧】。
HP+10、MP+50。
C級の段階では、確かに有用だった。
だが、レベル32となり、全身の装備がインフレしていく中で、この胴装備の貧弱さは、もはや隠しようもなかった。
ここが、今の彼のビルドの、唯一にして最大の「穴」だった。
(…こいつを、更新する必要がある)
彼は、決意した。
400万円という、潤沢な軍資金。
これを使い、彼のビルドを完璧なものにする、最後のピースを手に入れる。
彼が求める条件は、明確だった。
最大HP+100、最大MP+50以上。
そして、欲を言えば、各種耐性が付いていると尚良い。
彼はその条件を胸に、SeekerNetのマーケットへとアクセスした。
そして、彼はすぐに気づいてしまった。
その、あまりにも厳しい現実に。
彼が求める条件を満たす、胴装備。
それは、確かに存在した。
だが、そのどれもが、彼の想像を遥かに超える値段で取引されていたのだ。
最低でも、300万円。
少しでも良い耐性が付けば、その価格は500万、600万へと跳ね上がる。
彼の全財産を投げ打っても、手に入るかどうか。
あまりにも、高すぎる壁。
「…マジかよ」
彼は、思わず声を漏らした。
(狩りの時間を減らして、マーケットに一日中張り付くか…?)
彼は、思う。
(そうすれば、いつか掘り出し物が見つかるかもしれない。俺が、あの指輪を手に入れた時のように)
だが、彼はすぐにその考えを打ち消した。
(…いや、稼ぎが下がるのはまずい。レベル上げも、止まるからな)
そうだ、レベルを上げれば道は開ける。
より高レベルのダンジョンに行けば、より良い装備が手に入る可能性もある。
値段も跳ね上がるが、それ以上に稼ぎも増えるはずだ。
歩みを止めるのは、危険だ。
彼のギャンブラーとしての勘が、そう告げていた。
レベルを取るか、装備を取るか。
時間と金を天秤にかける、究極の選択。
(…難しい問題だな…)
彼は一人悩み、そして気づけば、その悩みを配信のスイッチを入れて、カメラの向こうの観客たちに打ち明けていた。
「…なあ、お前ら。ちょっと聞いてくれ」
その、いつになく真剣な彼の声に、コメント欄がざわついた。
彼は、自らが抱えるジレンマを正直に語り始めた。
現状の装備の限界。
だが、それを更新するために必要な、莫大な資金。
レベル上げを優先すべきか、それとも金策に集中し、装備更新を目指すべきか。
その彼のあまりにも人間的な悩みに、コメント欄の有識者たちが、待っていましたとばかりに、その叡智を披露し始める。
元ギルドマン@戦士一筋:
JOKER、その悩みは、全ての探索者が一度は通る道だ。
俺個人の意見を言わせてもらえば、答えは一つ。
「レベル上げを、止めるな」だ。
ハクスラ廃人:
ああ、ギルドの旦那の言う通りだぜ。
装備なんてのはな、所詮「水物」だ。
いつ、どんな良いものがマーケットに転がり込んでくるかなんて、誰にも分かりゃしねえ。
その不確定なもののために、お前の貴重な時間を費やすのは悪手だ。
それよりも、レベルという確実な資産を積み上げる方が、結果的に近道になる。
ベテランシーカ―:
ええ。それに、レベルが上がれば装備できるアイテムの選択肢も広がります。
今は手が届かないと思っているあの神々の装備も、レベルが上がれば、現実的な目標となるかもしれません。
上位のステージに上がるために、レベル上げを止めるのは、本末転倒というものです。
そのあまりにも的確で、そして経験に裏打ちされたアドバイス。
隼人は、深く頷いた。
そうだ、俺は少し焦りすぎていたのかもしれない。
目の前の壁の高さに幻惑され、最も基本的なセオリーを見失っていた。
地道な努力の積み重ねこそが、勝利への唯一の道なのだと。
「…そうだな。あんたらの言う通りだ」
彼は、感謝の言葉を述べた。
「もう少し、このままレベル上げを続けてみるか」
彼の心は、決まった。
だが、その議論の中で一人の視聴者がぽつりと呟いた一言。
それが、彼の心に新たな波紋を広げることになる。
『まあ、この問題はPTを組めば一発で解決できるんだけどな。一人、ローテーションでマーケットの見張り番を作ればいいだけだからな』
そのコメントに、他の視聴者たちも次々と同意の声を上げた。
『確かにw』
『ソロの限界ってやつか』
『JOKERさん、そろそろ仲間探したらどうだ?』
パーティ。
仲間。
その言葉は、彼がこれまで最も遠ざけてきた概念だった。
だが、彼は否定できなかった。
その選択肢が、最も合理的で、そして効率的であるという事実を。
彼の脳裏に、二人の女性の顔が浮かび上がる。
水瀬雫。
そして、鳴海詩織。
彼女たちとなら、あるいは。
いや、と彼は首を振った。
まだ、早い。
俺はまだ、一人でやれる。
一人で、どこまで行けるのか試してみたい。
彼の心に、新たな、そしてより複雑な葛藤が生まれた瞬間だった。
物語は、主人公が自らの成長の踊り場で次なる一歩を見出せずに足踏みしながらも、その先に広がる新たな可能性の扉に気づき始める、その繊細な心の揺らぎを描き出して幕を閉じた。