第10話
神崎隼人は、自らの手のひらの上で、鈍い紫色の光を放つ【ゴブリンの魔石(小)】を、じっと見つめていた。
それは、彼の人生で初めて、自らの力で掴み取った、確かな「価値」だった。これまで彼が手にしてきた、雀荘の卓の下でこっそりと受け渡される汚れた紙幣や、ポーカーハウスのチップとは、その意味も、重みも、全く違っていた。
これは、正当な対価だ。
命という究極のリスクを支払い、自らの才覚と、ほんの少しの幸運によって得た、クリーンで、そしてあまりにも大きなリターン。
彼の視界の隅で、コメント欄が「1万円」という数字で埋め尽くされている。その無機質な数字の羅列が、隼人の脳内で、これまでとは比較にならないほど、生々しい現実感を伴って再構築されていく。
(1万円…)
それは、妹・美咲の、一週間分の薬代だ。
それは、彼女が病院のベッドの上で、痛みに顔を歪めることなく、穏やかに眠れる時間を、数日分だけ買い取ることができる金額だ。
それは、彼女が「お兄ちゃん、無理しないでね」と、気丈に微笑む、その笑顔の裏にある、途方もない金額が記された請求書の、ほんの一部を支払うことができる、確かな現金。
隼人の瞳から、ギャンブラーとしての狂気や、配信者としての享楽的な光が、すっと消えていた。
後に残されたのは、獲物だけを見据える、飢えた獣の瞳。
狩人の瞳だった。
レベルアップなど、もはやどうでもいい。
名声など、今は必要ない。
彼が今、この瞬間に求めるものは、ただ一つ。
この、確かな価値を持つ「魔石」を、一つでも多く、その手に入れること。
彼は、静かにARウィンドウを操作した。
これまで表示されていた、どこかふざけたような配信タイトルを、一文字ずつ削除していく。
『【人生RTA】無職ギャンブラー、全財産ベットでダンジョンに挑んでみた #1』
そして、彼は、新たな決意を、そこに刻み込んだ。
『【魔石ハンターJOKER】妹の治療費、稼ぎ終わるまでRTA』
視聴者A: お、タイトル変えた
視聴者B: 魔石ハンターJOKER…かっこいいじゃん
視聴者C: 借金返済じゃなくて、妹さんの治療費だったのか…
視聴者D: RTA編ってことは、本気でやるんだな…
視聴者E: 笑えねえよ…頑張れJOKER
コメント欄の空気が、わずかに変わった。これまでの、物珍しい見世物に対する野次馬のような好奇心から、一人の男の壮絶な戦いを見守る、証人としてのそれへと。
だが、隼人は、そんな視聴者の感傷に付き合うつもりはなかった。彼は、ただ、自らの目的を達成するために、最も合理的で、最も効率的な手段を選択するだけだ。
彼は、初めて手に入れた魔石を、まるで大切な護符のように、ポケットの奥深くへとしまい込んだ。ズボンの生地越しに感じる、石の硬い感触が、彼の覚悟を新たにする。
そして、彼はカメラの向こうの二千人の観客へ、静かに、しかし、力強く宣言した。
「目標は変わった。これより、このダンジョンに生息するゴブリンから、ドロップする可能性のある全ての魔石を、俺が狩り尽くす」
その言葉に、ハッタリや、パフォーマンスの響きはなかった。それは、ただ、揺るぎない事実を告げる、決定事項の通知。
「理由は、単純明快だ」
彼は、洞窟のさらに奥、まだ見ぬ闇が広がる方角へと、視線を向けた。
「――奥に行けば、もっと多くの獲物がいるはずだからな」
その思考は、もはやダンジョンを探索する「探索者」のものではない。限られた時間の中で、最高の結果を出すことを至上命題とする、冷徹な「狩人」のそれへと、完全な変貌を遂げていた。
彼の新たなショーが、今、静かに、そして、より熾烈に、その幕を開けた。
神崎隼人の「狩り」は、凄絶を極めた。
彼は、もはや一体一体のゴブリンと、丁寧に対峙しようとはしなかった。彼の頭の中にあるのは、ただ一つ。「時間対効果」の最大化。いかに短い時間で、いかに多くのゴブリンを処理し、魔石ドロップの試行回数を稼ぐか。その一点のみだった。
洞窟の奥へと進むにつれて、ゴブリンの出現頻度は、彼の予想通り、高まっていった。
二体、三体と、群れで行動している個体も珍しくない。
クラスを得る前の彼であれば、絶望的な状況。だが、今の彼にとって、それは、まとめてチップを稼げる「ボーナスタイム」でしかなかった。
「グルルル…」
三体のゴブリンが、彼を包囲するように、じりじりと距離を詰めてくる。
隼人は、その動きを冷静に観察し、最適解を瞬時に導き出す。
(――三体の中心、そこが、最も効率よくダメージを与えられる一点)
彼は、臆することなく、その包囲網の中心へと、自ら飛び込んでいった。
視聴者F: うお!囲まれてるのに突っ込んでったぞ!
視聴者G: 無謀だろ!
だが、それは無謀ではなかった。
彼が中心に飛び込むのと同時に、彼は脳内でスキルを発動させた。
「――【パワーアタック】」
右腕に力が集中する。彼は、まず正面のゴブリンの棍棒を、以前のようにナイフで弾き飛ばした。そして、そのがら空きになった胴体へ、蹴りを叩き込む。筋力ボーナスを得た彼の蹴りは、ゴブリンの体を軽々と宙に浮かせた。
浮き上がったゴブリンは、背後にいた別のゴブリンと激突し、二体まとめて体勢を崩す。
隼人は、その一瞬の隙を逃さない。
彼は、残った最後の一体へと向き直り、まだ効果が残っているパワーアタックを乗せたナイフを、その心臓部へと叩き込んだ。一撃で、一体を仕留める。
そして、彼は即座に、体勢を崩した二体へと向き直る。
もはや、パワーアタックのクールダウンを待つ必要はない。彼の左腕、【万象の守り】がもたらす「攻撃速度+15%」の恩恵が、ここで最大限に活かされる。
速い。
彼の振るうナイフが、残像を描く。一体の首を切り裂き、返す刃で、もう一体の喉を貫く。
わずか十数秒。三体のゴブリンが、なすすべもなく、光の粒子となって消えていった。
視聴者H: 強すぎワロタ
視聴者I: 今の連携、マジで新人かよ…
視聴者J: パワーアタックで一体吹き飛ばして、残りを速度で処理する。完璧な最適解だ…
戦闘は、もはや「戦い」ではなく、流れるような「作業」だった。
隼人は、ドロップしたアイテムを素早く回収し、魔石がないことを確認すると、すぐに次の獲物を探しに動き出す。その姿には、一切の無駄がない。
彼は、この蹂躙の中で、常に思考を巡らせていた。どうすれば、もっと速く?もっと、低燃費に?
その時、コメント欄のある質問が、彼の目に留まった。
視聴者K: そういや、JOKERさん、レベルアップした時のステータスポイント、まだ振ってなかったよな?5ポイント、どうすんの?
そのコメントに、他の視聴者たちも次々を反応し始める。
視聴者L: 確かに!あれ振れば、もっと強くなるじゃん!
視聴者M: やっぱ筋力一択か?いや、生存率上げるために体力もアリだぞ
視聴者N: 敏捷に振って、攻撃速度をさらに上げるのもロマンあるな!
再び、彼のクラス選択の時のように、コメント欄がステータス振りの議論で白熱し始めた。
隼人は、その様子をしばらく楽しむように眺めていたが、やがて、足を止めた。そして、一つの考えに至る。
(…なるほどな。これも、ショーの「演出」になるか)
彼は、配信者としての顔を取り戻し、カメラに向かって不敵に笑いかけた。
「ステータスポイント、か。いいだろう。お前らが、そんなに『力』を見たいって言うんなら、見せてやるよ。俺が、この5ポイントで、どれだけ変わるのかをな」
彼は、芝居がかった仕草で、自らのステータス画面を配信に共有した。
『残りステータスポイント: 5』
その数字が、大きく表示される。
「選択肢は、筋力、体力、敏捷…いろいろあるが、今の俺が求めるものは、ただ一つだ」
彼のカーソルが、迷いなく、一つのステータスへと移動する。
「――より、圧倒的な、蹂躙の力だ!」
彼は、5ポイント全てを、**【筋力】**の項目へと叩き込んだ。
【筋力】 15 -> 20
筋力が上昇しました。物理攻撃力が増加します。
視聴者O: うおおおおお!筋力極振りきたああああ!
視聴者P: なんて脳筋!だが、それがJOKERさんだ!
視聴者Q: 攻撃は最大の防御なり、か!最高だぜ!
コメント欄が、彼の脳筋采配に熱狂する。
隼人は、その熱狂に応えるように、次の実験台を探した。すぐに、通路の奥から、一体のゴブリンが姿を現す。
「丁度いいところに。お前が、俺の新しい力の、最初の犠牲者だ」
隼人は、再び【パワーアタック】を発動させる。彼の右腕に、先ほどよりも、さらに濃密な魔力が集中するのを感じた。
ゴブリンが、棍棒を振りかぶる。
隼人は、それを、もはや弾き飛ばすことすらしなかった。
彼は、ゴブリンの攻撃が、自分に届くよりも速く、その懐へと踏み込んだ。そして、力を極限まで高めたナイフを、ゴブリンの胸の中心へと、叩き込む。
次の瞬間、洞窟内に、これまでとは比較にならないほどの、凄まじい破壊音が響き渡った。
ドッゴオオオオオオンッ!!
それは、もはや肉や骨が砕ける音ではない。小さな爆弾が、至近距離で炸裂したかのような、轟音。
ゴブリンの体は、原型を留めていなかった。
パワーアタックの圧倒的な運動エネルギーを受け止めきれず、その肉体は、文字通り、内側から**“爆散”**したのだ。血肉の代わりに、おびただしい光の粒子が、洞窟内に吹き荒れる。
しん、と静まり返るコメント欄。
誰もが、今目の前で起こった、あまりにも理不尽な光景に、言葉を失っていた。
やがて、一人の視聴者が、震える声で、コメントを打ち込む。
視聴者R: …いまの、パワーアタック…だよな…?
視聴者S: これが…筋力20の世界…
視聴者T: ゴブリンが…蒸発した…
隼人は、その反応に満足げに頷くと、光の粒子が収まった後の地面に、目をやった。
そして、彼の口元が、再び歪んだ。
そこには、いつものガラクタに混じって、あの、鈍い紫色の輝きが、確かに存在していたのだ。
彼は、ゆっくりとそれを拾い上げる。
【ゴブリンの魔石(小)】を入手しました
これで、二つ目だ。
彼の「狩り」は、さらに加速した。
筋力を極限まで高めた彼の前には、もはやゴブリンは、虫けら同然だった。一体、また一体と、文字通り「消し飛ばして」いく。
そして、さらに数体を処理した後、彼は、三つ目となる魔石を、ドロップさせることに成功した。
ポケットの中の、三つの魔石。
その確かな重みが、彼の心を、これ以上ないほどの達成感で満たしていた。
今日の稼ぎ、合計3万円。
それは、彼の人生が、確かに、良い方向へと転がり始めた、何よりの証拠だった。