狼の牙を抜く教育/暴言の必然
子どもが他人に対して「キモい」や「死ね」という言葉を使うのに対して、こういった情操教育が必要だ、とか、しかし今の親にはそれをしてやる余裕がない、だとか、そんなネット記事があった。子供の暴言について、大人は、それをいけないことだと子供に教えようとする。他人の心に寄り添う事、他人に優しさを示すこと、人の気持ちになって考えること、こういった心を情操教育として養いたいという。
私も少し前までは、そう思っていた。子供の言葉が荒れている、それは心が荒んでいるからだ、と。しかし本当にそうだろうか。むしろ、強い言葉を使って他人をけん制し、警戒することは、生物として(特に男)普通のことではないだろうか。
私は、暴言が嫌いだ。上記したような恫喝じみた言葉は、自分に向けられていなくても、その場から離れたくなるほどの不快感を覚える。一方で、そういった暴言の中に居ても平気な人たちもいる。ここで、もっと物事をシンプルに考えたい。
即ち、牙を抜かれた狼と牙を持った狼だ。教育者が情操教育と言っているものは、狼の例でいえば、牙を抜くことに他ならない。戦う力を失わせているのだ。他方、そうではない狼は、戦うことができる。この社会は、果たしてどっちだろう。天敵のいない一時期のニュージーランドのような平和な場所なのか、それとも、捕食者の潜む森なのか。
メリー・ポピンズの作者・パメラ・トラバースを題材にした『ウォルトディズニーの約束』という映画がある。この中でパメラは、「子供を無防備なまま社会に出すつもりか」と、『メリー・ポピンズ』の映画をメルヘンに仕立てようとするディズニーに憤慨する場面があった。まさに私は、子供の暴言をどうとらえるかの本質はここにある様に感じる。
大人の言うことを聞く真面目で素直な子たちは、果たして社会に出て、その点で苦労をしていないだろうか。情操教育では、社会は優しいもの、「一人は皆のために、皆は一人のために」という考え方で回っているものと教える。素直な子供はこれを信じる。「人の痛みのわかる大人になりましょうね」。しかし現実は違う。誤解を恐れないで書くが、社会は敵だらけだ。自分の痛みには敏感なくせに他人の痛みを気にしない人間が当たり前のようにいるのだ。そういうことを、情操教育では教えない。つまり、現実を教えていない。
こういった観点から見ると、子供の暴言というのは、むしろ、人間(特に男)にとっては当たり前の反応だ。それを教育と称して牙を抜こうとするのだが、教育者は、牙を抜かれた狼のその後については一切考えない。「良い教育をした」と悦に浸っている。確かに情操教育も大事だが、同時に、現実も教えなければ、戦う術を失った狼は、簡単に他の狼に食い殺されてしまう。
いじめについて、格闘家や警察官や自衛隊などはユーチューブの中で、「やり返せ」と言っている。これは、ごく当たり前の理屈だ。やり返すから、相手は反撃を恐れて、それ以上やってこない。やり返さなければ、相手の暴力・暴言はエスカレートする。これを、いじめをする方が悪いと何万回言ったところでむなしいだけだ。現実、牙を持った狼はいるのだから。
学校も社会だ。学校の中で、あるいは外でも良いが、子供たちがどのように暴言を使っているか、大人は学ばないといけない。
「何だよお前、キモいんだよ」「うっせー、死ね」「は、お前が死ねよ」
暴言に対しては暴言で対応して、自分を守っている会話の一例だ。もしここで片方が、例えば「キモい」と言われて傷つき、それを表に出して引き下がったらどうなるか。そういう戦えない狼が、いじめの標的にされるのだ。
これが、情操教育の弊害だ。
戦えない狼を作り出していることが、社会は見えていない。真面目で、素直な子ほど教育の影響を受ける。もっと極端な言い方をすると、いじめられっ子は、社会が作っている。最近の若者が弱いと言うが、それを作り出したのは誰だろうか。
暴言が良いとか悪いとかの問題ではない。戦わなければ食われるとなれば、戦うべきだという、それだけの話だ。その戦うための道具が、子供にとっては暴言なのだ。大人はもうちょっと利口なやり方で戦うが、道具が違うだけで本質は同じだ。暴言はいけない、やめさせたい、情操教育万歳――なんてことをうたっている脳みそお花畑の大人たち、「子供を無防備なまま社会に出すつもりか」。