最終話 モーニングコールは寝ぼけ眼の彼女から
風さえ吹かない静かな夜。
薄暗い部屋の中で聞こえてくるのは、成瀬さんが私の勉強机でカリカリとペンを走らせる音だけ。
ベッドの上で横になった私は、卓上ライトに照らされた彼女の美しい横顔をぼんやり眺めていた。
ちなみに私が酸欠状態になってからすでに数十分が経過していたが、特に体調に問題があるわけではない。
成瀬さんがかなり心配していたので、彼女を安心させるためにベッドで大人しくしているだけだ。
まあキスの最中にいきなり後頭部から倒れ込み、ベッドの上でエヘエヘと笑い出しのだから、私の頭の心配をするのはいろんな意味で当然だと思う。
とはいえ部屋の電気まで消されてしまうのはさすがに予想外だったけど……。
でも彼女が卓上ライトを使うことにしたのはそのおかげだろうから、特に文句を言う気もなかった。
本当に、ライトアップされた成瀬さんは、いつにもまして美しい。
観覧料が取れるレベルだと思う。
「ん……」
視線を感じたのだろうか、成瀬さんがこちらを振り向く。
そして私と目が合うと、気遣うように微笑んでくれた。
「大丈夫? お水でも持ってこようか?」
「ううん。――成瀬さんの横顔に見惚れてただけ」
「そ、そっか」
彼女は嬉しそうに笑っていた。
そして机を離れこちらに近づくと、私の頬にちゅっと口づけ。
「えへへ……」
だらしなく笑っている成瀬さん。
可愛い。
お小遣いをあげたい。
とはいえお財布が手元にないので、代わりに質問を投げかける。
「なに書いてたの?」
「うん? 交換日記だよ」
「交換日記? ああ……」
ショッピングモールで買ったあれか。
つい数時間前の出来事なのに、なんだか遠い昔のことのようだ。
「でも交換日記って私からスタートじゃなかったっけ」
「うん」
成瀬さんはコクリと頷く。
そして照れたように頬を指でかいていた。
「でもこの状況じゃ萌花ちゃんは書けそうにないし、割り込ませてもらおうかなって。ほら、今日は色々と書きたいことがあったから。私が帰ったあとで読んでね?」
「ん。それで私が土曜と日曜の分を書いて、月曜日に渡せばいいんだね」
「そうそう。――よいしょっと」
成瀬さんは、身体全体で私を壁側に押し込みながら、ベッドの上にゴロンと寝転がる。
「日記は? もういいの?」
「うん。もう書き終わったから」
休憩しにきたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
彼女は「ふぃぃ~」と奇妙な声で呻きながら、私のすぐ隣でぐぅーっと身体を伸ばしていた。
「……そろそろ眠る?」
「そうしよっかな」
軽く頷く成瀬さんは、机を照らすライトに背を向けて、ジッとこちらを見つめている。
その口元には緩やかな微笑みがあった。
「ねえ、萌花ちゃん。抱き枕になってくれるって約束、忘れてないよね?」
「もちろん」
自分から提案しておいてなんだけれど、あんな刺激的な話を忘れられるわけが無い。
「よかった」
私の返事を聞くやいなや、成瀬さんがぎゅっと抱きついてきた。
そして、じんわりと熱のこもった瞳をこちらに向けてくる。
「おやすみのちゅーとかする?」
「いいけど。口? ほっぺ?」
「くち……ううん、やっぱりほっぺにしようか。軽いキスじゃないと、眠れなくなっちゃいそう」
「だね。じゃあ今度は私から――」
私は身を乗り出し、成瀬さんの頬に軽くちゅっと口づける。
そして耳元でささやいた。
「おやすみ」
「ふふ……おやすみなさい」
彼女はくすぐったそうに笑っていた。
だがその直後、なにかに気付いたかのように真顔になる。
「……」
私を見る成瀬さんの瞳が、意味ありげに妖しく輝いていた。
……夜中にベッドの上でふたりきり。
この家には私たち以外には誰もいない。
例えどんな行為をしたとしても、絶対に親にバレることはない。
そのことに気付いた私は、思わず唾をのむ。
もしかして成瀬さん、そういうことに興味があったりする……?
緊張が高まる中――成瀬さんはげんなりした表情で、のそのそと起き上がっていた。
「……机の電気、消し忘れてた。ちょっと消してくる……」
「…………うん」
このまま大人な関係になるのかと思ったけれど、どうも私の考えすぎだったようだ。
まあ、成瀬さんが普通に眠るつもりだったのは明らかだし、このことで彼女を責めるのは酷だろう。
それに、正直ちょっとホッとした。
やっぱり大人な関係になるのは、もう少し大人になってからでいいと思う。
例えば……成人してから?
なんにせよ、お互いに好き同士なのだから、別に慌てる必要なんて無い。
だから――。
「やけに萌花ちゃんの顔が輝いて見えると思ったんだよねぇ……」
億劫そうにベッドを抜け出し机に向かう成瀬さんを、私はくすくす笑いながら見送ったのだった。
◇◇◇◇◇
ふっと目が覚めた。
きっかけがなにかは分からない。
……いや、そんなこともないか。
成瀬さんの手の甲が、私の鼻の上に置かれていた。
思い返してみると、夢うつつに衝撃を受けた記憶があるので、彼女に顔面を痛打されて目覚めたんだと思う。
いま何時だろ……?
私はベッドの上で薄く目を開き、ぼんやりと天井を見つめる。
カーテンの隙間から陽射しが差し込んでいるところをみると、すでに朝なのは間違いない。
問題は具体的な時間だ。
7時くらいなら寝直してもいいんだけど、10時を過ぎているようなら……さすがに起きたほうがいいかな。
………………。
ちなみにスマホも時計も机の上に置きっぱなしなので、正確な時刻を確認するにはベッドを離れる必要がある。
それはやだ。
めんどくさい。
成瀬さんは私の鼻の上に手をのせたまま、すうすうと眠っていた。
……まあいいや、私ももう少し寝よう。
予定があるわけじゃないし、お昼まで眠りこけたとしても問題はあるまい。
「……すぅ~」
目を閉じるとまだ眠気が残っていたようで、すぐに自身の呼吸が深くなっていくのが分かった。
心地よい微睡み。
意識が薄れていくなか――ふと思う。
……そういえば昨日の夜からスマホに触れてない。
もし父さんから連絡があったとしたら、ずっと無視してる可能性が……。
心配性な父さんなので、ちょっと返信しないだけでも、かなり気を揉んでいることだろう。
さすがに仕事をほったらかして帰ってくることはないだろうけど……いやでも、無くは無いな……。
………………………………。
「……ふう」
パチリと目を開く。
二度寝するつもりだったが、これはもう無理だ。
気になって目が冴えてしまった。
決心した私は、慎重に成瀬さんの手を顔から下ろす。
そしてベッドからそっと抜け出し、スマホを確認。
「…………」
特に連絡は無かった。
なるほどなるほど。
そういう感じ?
なるほどね。
どうも、父さんより私のほうが心配性だったようだ。
もちろん信用してくれてるから連絡も寄越さなかったんだろうけど……でもなんかちょっと寂しい。
……まあいいや。
今度こそ寝なおそう。
何とも言えない複雑な心境だから、正直眠れるか分からないけど……。
お守りのようにスマホを握りしめながら、ベッドに潜り込む。
「んうぅ」
真横からうめくような声が聞こえた。
見ると、成瀬さんが猫のように身体を丸めている。
細心の注意を払ったつもりだったが、迂闊にも彼女を起こしてしまったようだ。
「んう」
そして寝ぼけ眼で、もぞもぞと枕もとのスマホに手を伸ばす成瀬さん。
目をぱちぱちとしながらスマホの画面を眺める、気だるそうな彼女の動きを間近で観察していると……。
「ええぇっ!?」
いきなり成瀬さんはガバッと布団をはね飛ばし、ベッドの上に立ち上がる。
そしてスマホ片手に驚愕の表情。
「も、もう7時すぎてるうっ!? らんでぇ!?」
すごい慌てようで、ろれつも回っていない。
もしかしてなにか用事でもあったのだろうか。
見たいテレビがあったとか?
「あわわ……」
口頭であわわと言い出した成瀬さんは、片手でスマホを操作しながら、もう片方の手で乱れた髪を直している。
あれはなにをしてるんだろ?
急いで身だしなみを整えるのは分かるけど、スマホをいじってるのは……電話を掛けてるのかな?
こんな時間にいったい誰に……。
そう思った瞬間、私のスマホに着信。
表示された名前は――成瀬るう。
一瞬迷ったが、電話に出ることにした。
「もしもし」
「あ、えっと、ごめんなさい! 寝坊しちゃって!」
「寝坊?」
「あのね、もう7時すぎてるの!」
その言葉でようやく彼女が電話してきた理由に気付いた。
もしかしてこれ……いつものモーニングコール?
今日を平日と勘違いした成瀬さんが、私とお泊りしていることを忘れ、電話を掛けてきてくれた?
「あっ、あっ、そうだよね、萌花ちゃんはもちろん起きてたよね。でもほらやっぱりわたしが電話するって言いだしたのに、急にしなくなったら萌花ちゃんもびっくりしちゃうかなって――」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
別に彼女の慌てようが面白かったわけではない。
寝坊したと勘違いした成瀬さんがまず最初に思い浮かべたことは、『萌花ちゃんにモーニングコールしないと!』なのだ。
成瀬さんは、よっぽど私のことが好きなんだろう。
彼女の気持ちがまっすぐ伝わってきて、ついつい笑顔になってしまった。
私が返事もできずに、ベッドで横になったままニヤニヤしていると、成瀬さんもさすがに違和感に気付いたらしい。
「え……?」
視線を下げた成瀬さんと、ばっちり目があった。
彼女はおばけを見たような驚きの表情でこちらを見下ろしていて、私は思わず笑いを噛み殺す。
「なんかごめん。今日は土曜日だから、モーニングコールはいらないってあらかじめ言っておけば良かったね」
「……っ!」
顔を真っ赤にする成瀬さん。
寝ぼけていた彼女も、ようやく状況を理解できたらしい。
「でもまさか、すぐ隣に私がいるのに電話してくれるとは思わなかったよ。そんなに電話越しの私の声が聞きたかったの?」
「もうっ!」
彼女は勢いよくベッドに座り込み、寝そべる私の身体をぼふぼふと叩く。
「いた、いたいって」
「いじわる! ばかぁ! 気付いてたのなら、ちゃんと教えてよぉ!」
こちらに罵声を浴びせつつも彼女は楽しそうだ。
「えいやぁ!」
そして照れ隠しなのか、私に力いっぱい抱きついてくる成瀬さん。
私も軽く抱きしめ返す。
そして優しくささやいた。
「いつも、こんな感じで電話してくれてたんだね。なんか嬉しかったよ」
「……こんな感じじゃないよ。普段はもっとちゃんと起きた状態で電話してるし……」
「ふふ」
成瀬さんは口を尖らせて抗議してきたが、明らかにそれは嘘だ。
だっていっつも寝ぼけ声で掛けてくるし。
なんなら、寝坊したと思い込んでいた今日のほうが、普段よりはきはきと話をしていたくらいだ。
でも、そんな見栄を張る彼女が、なんだかとても愛おしい。
「ところでね、萌花ちゃん」
「なに?」
「お父さんが帰ってくるのって、明日の夜なんだよね?」
その質問に、私の胸がときめく。
だって、わざわざそんなことを聞いてくるのだから、彼女が言いたいことは明白だ。
「……そうだよ」
期待に胸を膨らませながら答えると、成瀬さんは予想通り頬を軽く赤らめていた。
「もしよかったらなんだけど……今日もお泊りしていい?」
「――もちろん」
私は間髪入れず答えた。
この素晴らしい日が、もう一日続く。
断る理由なんて無い。
むしろこちらからお願いしたいくらいだ。
「あっ、そうだ。今日も泊まるのなら成瀬さんに言っておかないといけないことがあった」
「え、なに?」
不思議そうな成瀬さんに、私は笑顔を向ける。
「――明日は日曜日だから、モーニングコールはいらないからね」
「……もうっ!」
からかわれたことに気付いたらしく、またもやぼふぼふと私の身体を叩いてくる成瀬さん。
「ごめんごめん」
謝りながら彼女の身体を抱き寄せた私は、そのぬくもりを感じながら、そっと目を閉じた。
人生ってほんとうになにが起こるか分からない。
高校生になるまでの私は本当にいじけていて、周囲に不幸を呼ぶ私に友達なんて作る資格はないと思っていた。
でも違った。
――成瀬さん。
私のことを、私以上に大切にしてくれる人。
彼女との出会いで、私の人生は変わった。
変わることができた。
だから私も、成瀬さんのことを成瀬さん以上に大切にしよう。
どんなときでも、絶対に成瀬さんの味方になってあげよう。
――などと殊勝なことを考えつつ。
「でも寝ぼけ眼でモーニングコールしてくれる成瀬さん、最高に可愛かったよ」
「もぉー! 耳元でそんなことささやかないでよ! うれしくなっちゃうじゃん!」
リアクションまで可愛い成瀬さんをからかうのは、当分やめられそうにない。
そんなことを思う、意地の悪い私なのであった。




