前書き 2 ―大学前のデモー
昼の明応大学近くを、田代雄太は歩いていた。飲食店街が目の前に並び、一つの店を通りすぎると同時に違う食べ物の匂いが鼻腔に染みこんでゆく。若者たちがラフな格好で道を埋め尽くし、その表情は皆多種多様だ。
田代は一限目の森山教授の話を思い出していた。
「人間というものは、時に自己という存在を自ら捨て去ることがある」
セミの鳴く音が少しずつ大きくなっている。それに比例して教授の声がこだまして、それが徐々に大きくなっていく。
「なあ、田代はあそこ行くのか?」
一時限目が終わったあと、友人の佐伯が訊ねてきた。佐伯は五月に体育実習で一緒にキャッチボールをした後、いつのまにか一緒に会話をする仲になっていた。髪色は全て金色に染められているものの、目は十五夜に見る三日月と同じくらいに細くなるまでに、思いっきり笑う。
「ジェームズ・トラック?」
「そう。教授が言ってたやつだよ。だけどさ、単位を互換してくれないんだろ、その話を聞いても。意味ないよな」
「まあ、な」
田代はゆっくりと自分の頭上で鳴っているセミを探した。昔、祖母とよく大木を見上げてセミを探していた。四角い部屋を丸く掃くのではなく、四角い部屋をしっかりと四角く掃く。セミ探しも同じだ。丁寧に、しらみつぶしに探していく。
記憶をたどる作業も同じだ。セミを探す作業一つ一つを思い出すにしても、その記憶の一瞬一瞬を静かに取り出していく。
突然、田代は前方で、メガホンから発せられた怒鳴り声を聞いた。
「中国国家主席、胡陽邦の来日反対!売国奴政府は出ていけ!」
一人の眼鏡をかけた学生が「故陽邦来日反対」というプラカードを掲げ、シュプレヒコールをあげている。その仲間らしき学生は、隣で黄色いビラを道行く人に配っている。しかし、見ている限り多くの通行人はそれを無視して通り過ぎる。
田代は、別に思想を同じくするわけではないが、同じ学生として「頑張って」と一言言ってあげようと思い始めていた。ホームレスへ投げ銭することと同じような感覚だった。
しかし、田代はそれを目の前に来てやめた。
そのデモをやる二人の視線は、常に空を見上げていた。通行人でも、目の前の建物でもない。ずっと虚空を見上げ、そこに訴えかける対象は見えなかった。
田代はそのまま無視を決め込み、十メートルほど通り過ぎた。その時だ。
「君たち!これは何をしているんだね」
ついさっき聞いた覚えのある声。森山教授その人だった。ちょうど地下街へつながる階段から地上に出て来た時だった。
「何をって・・見て分かりませんか?デモをしています。捨て身の覚悟でデモをしているんです」
メガホンの隣にいる学生が、森山教授に黄色いビラを渡そうとした。
だが、森山教授はそれを一瞥した限り、「君たちのやっていることは、デモじゃない」
ビラを渡した学生が、腕を下し、ビラを放した。石膏のように全身が固まり、「じゃあ、あなたは何だと思うんです?これがデモじゃなければ、何だと思うんですか?正義を胸に、母国への忠誠心を露わにして中央政府に異議を唱える。これがデモでなければ、一体何だと思うんですか?」
森山教授は、吸い寄せられるように右手を学生の肩に乗せ、視線をメガホンに向けた。それは学生たちを諭すというよりも、自らに焦点を当てて、自らに語り掛けているように見えた、
「君たちがやっているのは、デモじゃない。ただ駄々をこねているだけだ」
「駄々?」
メガホンを持っている学生が、隣の少年の肩に置いた教授の手を払い、言った。
「我々は全日本青年保守連盟、青保連のメンバーである。我々は除籍を覚悟して母国のために闘っている。それを〝駄々″?撤回を求める」
教授に掴みかかるように、切迫して要求した。だが、教授は、コーヒー豆を焙煎しているマスターを見るような目つきで、おおらかな笑みを浮かべながら言った。
「本当の学生運動はな、除籍覚悟は当たり前なんだ――命だよ、賭けるのは」
「命?」
「本当のデモっていうのは、自分の命を賭してでも、自分の尊厳と主張だけを信じて団結するものだ」
二人の学生がたじろぐ。だが、教授は言葉を続けた。
「メガホン、君に問う。隣のビラ学生が機動隊に狙撃された時、君はどうする?」
メガホン学生は、下唇を嚙みながら目を落とし、ゆっくりと言った。
「助ける。仲間を見殺しにはできない」
教授は、次にビラ学生に問うた。
「君はどうだ?」
「俺も――助ける。最後の最後まで仲間を大切にする」
教授は一呼吸置き、そして口を開いた。三人の間に流れる空気を慎重に吟味し、それを静かに判断しているように見えた。
「屍を乗り越えろ!無視しろ!集団でいるテーゼを優先して抗え!」
二人の学生はそのまま、二体の棒人間のように生命感を失い、無機質な物体としてそこに取り残っていた。
「それが、本当のデモであり、学生運動である」
黄色いビラが一様に外に散っていった。それは無残に散った黄色い花弁のようにも見えるし、何かのスタートを唱える号砲の合図のようにも見えた。




