前書き 1
「人間というものは、時に自己の存在を自ら捨て去ることがあります」
大講堂いっぱいに広がる比較文化学の教授、森山一郎の声が耳を貫く。一時限目という朝早い時間から始まるこの授業。来る学生は、皆、顔を下に向け、瞼を静かに落としている。矢のように鋭い教授の声にびくりと身体を震わせる学生も、ちらほらと見える。
教授は、一拍間を置いた後、学生陣を舐めまわすように、まんべんなく視線を配った。大きなアイスクリームを舌で静かに味わうように、教授は大講堂の空気を丁寧に吟味していた。
「皆さん、ここで一つ、質問をしてみたいと思います」
教授はマイクを教卓に置き、ゴホンと一つ咳払いをした。そして、ウイルス予防のマスクを外し、飛沫防止シートを目の前に置き直した。
「自分が人間であることを、あなたたちはどう証明しますか?」
自分が人間であること――。
「もう少し分かりやすく言いましょう。自分が自分であることを、どう証明しますか?」
教授は気味の悪い笑みを浮かべた。罠にかかった獲物を見て浮かべるような、攻撃的な笑みでもある。それは学生を試しているのか、何らかのメッセージ性をここに刻印しようとしているのか、そのどちらとも取れない不思議な言葉だった。
「答えを聞きたい人は、13時30分、大学の隣にあるコーヒー店、『ジェームズ・トラック』の突き当りのボックス席に来なさい。純粋にその答えを知りたい者だけを対象とします。来る者に特別単位を与える予定はございませんし、来なかった者の単位を落とすこともございません。これは――」
教授は宙を見上げ、目を瞑った。古びたCDの音楽をまだ再生できるかどうか、レコードにセットしている。その音楽は、ずっと外界に出していない、記憶の類のようなものなのかもしれない。
「怖い話ともいえるし、悲しい話でもあるし、切ない話でもある。だけど、私がこの世で一番大切にしている、ある大事な人との話でもあるのです」
春学期最終局面の授業。陽光が教室に入り始めると同時に、その授業は早めに切り上げられた。