パーソナリティ
私は男だ。名前、名前か。どこから来たかも分からないのだ。名前だとか、自分が何者だとか、覚えているはずがない。覚えているはずがないのだ。
だが、私は覚えている。このマンションは、以前に見知っている。
車二台が精いっぱいの道幅に面した、数年前なら洒落たものだったのだろう、白を基調とした門がある。
門の左右には、イスノキと呼ばれる植物が、目線より少し高いところまで伸びていて、そこを進むと、急に石畳が始まるところがある。
石畳は一号棟の階段の位置を意味しているが、そのまま向こうへ辿っていくと、途中でカクンと曲がるところがある。更に辿ると、もうひとつマンションが見えてくるはずだ。
私はいま、そこへ向かっている。
なぜだろう。私にも、なぜその場所へ向かうのか、さっぱりわからない。もしかすると私は記憶を失くしていて、記憶を失くす前にここへ来るように言われたのかもしれない。
そんなことを覚えているものか? といわれると、この説には自信が持てなくなる。しかし、現に分からないのだから、可能性はなくもない。
そうこうしているうちに、石畳の先に着いた。
二号棟の入口だ。
自分が何をしに来たのか、なぜここを知っているのか。やはり謎のままだ。だが、足取りはカエルのように軽かった。
トントンと階段を登り、踊り場で一八〇度方向転換し、三階へと向かう。三階につくと、とても良い匂いがした。これは、そうだな。懐かしいバニラかなにかの香水かもしれない。
鼻腔に意識を集中させている間も、足は休まなかった。
三〇一号室を過ぎ、三〇二号室も過ぎ、三〇三号室に着いた。
ここに来てもやはり、記憶は戻らない。
戻らないのだが、なにかこうしなければいけないという衝動に駆られてしまって、玄関横に置いてある植木鉢に手を突っ込み、爪切りを掘り起こした。
その植木鉢から出てきたムカデを軽く十回ほど踏み潰し、同じだけ床に擦り付けた。
爪切りを持った瞬間、どうも四肢の先がむずがゆくなって、とりあえず靴を脱いだ。
すると、足の爪が指より少し出ていた。
これじゃああまりにも長すぎる。
手に持った土付きの爪切りを各指にあてがい、パチパチと数回ずつ爪を折っていった。
長さは平均くらいにしたかったので、指の半分ほど残しておいた。切った爪のうち、小指の爪は、三〇三号室の郵便受けに入れた。
これは私の意思ではない。そうしなければいけないと、私の中で誰かが指示したからだ。その指示に従う理由は私にも不明だが、わざわざ逆らう理由もないからだ。
そうして、両足の爪を切り終えると、こんどは両手の爪も削ぎ落とした。パチパチと細かく細かく刻んで、半分ほどは粉状になってしまって、床に落ちた。
仕方がないので、粉の爪を落としてしまったところを丁寧に舐め取り、残りの細く切った爪は植木鉢に植えておいた。
それでようやく仕事が終わった気がして、そのまま階段の欄干を超えて、下まで飛び降りた。
そのとき妙な音がしたので、気になってあちらこちらを見渡してみると、着地の瞬間に亀を踏んづけてしまったことに気づいた。
どうにも甲羅が割れてしまったようで、可哀想に思ってしまい、割れた甲羅をかき集めて丸めて捨てようとした。
しかし、その亀を丸める度に、どうも足の先が痛んだ。これでは立つこともままならないし、捨てることもできない。仕方がないので、持っていた爪切りで、足首から先を地に落とした。
すると、雨が降ってきた。そこにはすぐに池ができて、亀がのんびり泳いでいる。
楽しそうで何よりだと感傷に浸って、しばらく亀を眺めていた。踏んづけてお詫びにと、せめてもの罪滅ぼしで、亀を池で泳がせようとしたが、この亀は土砂にぶつかると、それ以上は自発的に動こうとしなかった。
不思議に感じた私は、亀に被された合成皮革とキャンパス素材を、池で洗ってみた。それでもやはり動かない。
私はさすがにうざったく感じて、亀を動かすことを諦め、地を這いずって門の外へ出た。
そしたら、自分のことを少しだけ思い出した。
この場所は、私が思いを寄せていた女性が住んでいた場所だ。昔に見た時とずいぶん雰囲気が変わっていたので、すぐには思い出せなかったのだろう。あの匂いは、彼女の匂いだ。
なるほど。つまり、思いを寄せていた女性の元へと、無意識のうちに引き寄せられていたのだ。
私は何者なのだ? いったい、どこに帰ればいいのだ? ここから、いまから、何をして生きていけばいいのか。
最後まで残った疑問を、薄れゆく意識に問いかけた。
即興小説からの転載です。
お題:見覚えのあるマンション
必須要素:小指の爪
制限時間:1時間