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遺文 六~十枚目

「ヒロ。これあげる」


病室に訪れた俺に、由生は唐突に紙袋を差し出しました。

部屋の中央にある応接セットに鞄と手荷物を置いて、今まさにソファに腰掛けようとしていた俺は、ベッドでこちらへ片腕を伸ばしている彼へ顔を向けました。

袋は、見慣れないロゴが入っていました。

俺は座るのを止めて、ベッド傍へ歩み寄り、その袋を受け取りました。


「何?」

「プレゼント」

「おおー。ありがとう。何だろ?」


一度受け取った袋をベッド端のシーツ上に置き、近くにあったパイプ椅子を引き寄せてそこに座りました。

袋を開けると、中にはプラスチックのケースが入っており、更にその中に、青いガラスでできたペンと青いインクの瓶が入っていました。

ちょっと少女趣味な気もしましたが、綺麗な品でした。


「インクペン? …ガラスでできてる。綺麗だな」

「だろ? あんまりペンとか使わないんだろうけど、綺麗だから買ってきたんだ」

「何処で? 下の購買?それとも道渡った向こうの本屋?」

「ううん。学校の駅のとこにある雑貨屋」


それを聞いて、一瞬ざわりと鳥肌が立ちました。

すぐに引きはしましたが、思わず聞き返します。

声に力が無かったのは、ひたすらに驚いていたからでした。


「…雑貨屋?」

「そう。インクの色も色々あったけど、ペンの色と合わせたんだ。黒の方が良かった?」

「…」

「でも、黒のガラスって…何かほら。綺麗じゃなかったんだ。だから青」


俺が手にしたケースを覗き込むようにしながら、由生が続けました。

病院の駅ではなく学校最寄りの駅での買い物を、ここ最近俺は由生と行った覚えはありません。

そもそも、俺にプレゼントと称して手渡すからには、当然俺以外の誰かと行ったということです。

まず由生一人で、あまり馴染み無く人の多い、ざわついている駅前に行くとは考えられないので。

そしてその店に行くのだという話も、俺は一切聞いていませんでした。

…何だかぽっかりと胸に空洞ができたことを悟られないように、素知らぬ顔で俺は問います。


「いや、青でいいよ。せっかくペンが青なんだから、同じ色の方がいいしね。…守田と行ったの?」

「ううん。袴田くんと一緒に」


袴田…!

予想外の名前の登場に、俺は軽い目眩を覚えました。

袴田はかまだという男は隣のクラスの生徒です。テニス部に所属しており部活の成績はなかなかのものですが、他人にあまり興味のない俺が知っている程度に、あまり良い意味でなく目を惹く奴です。

彼は守田のような優等生然としているわけではありません。

髪は明るい茶色をしており、片耳にピアスを空け、毎月行われている服装チェックで必ず引っかかり教師陣に呼び出しを喰らうような、そんな奴です。

…勿論、うちの学校の校風自体が割と落ち着いているので、“不良”と呼ぶには足りません。容姿が目立つだけという一点のみですが、それでもやはり、うちのクラスの連中などと比べると、嫌悪感と呼ぶには大袈裟な違和感を、俺はさほど親しくない彼に感じていました。

少なくとも、守田などと違って、由生の友達には相応しく無い。

そう思います。

…一体、どんな経緯で彼と由生が知り合ったのか。

二人が友達であるというそれ自体よりも、そこから他ならぬ俺が知らないということが、俺の中で衝撃でした。


「…袴田?」

「そう。雨降ってた時、帰ろうとしたらギリギリの所でバスに乗り遅れちゃった奴がいたから、駅まで送ってあげたんだ。それが袴田くん。隣のクラスなんだって。ヒロ知ってる?」

「ああ、知ってるよ。テニス部だよね」

「そう。雨だから休みだったんだってさ」


その時の俺は頭の中で、いつの頃の話なのか記憶を遡っていました。

俺が今現在部活で手がけている絵のモデルは由生ですが、何も放課後毎日拘束しているわけではありません。

そもそも、由生は毎日学校には来ませんし、モデルが嫌だと言い出さない程度に手伝ってもらっているというレベルであるので、彼が「今日は帰る」と言ったら俺は引き留めず、そのまま昇降口のところで別れていました。

由生の雨男ぶりは確定的で、ここ一ヶ月雨が多く、そんな中の一日だったのでしょう。


「今度、一緒に遊ぼうって言ってくれたよ」

「ああ、そうなんだ。他のクラスにまで友達ができるなんて、良かったじゃないか」


由生の嬉しそうな声に、殆ど反射的に同意を口にするという自分の唇の特徴に気付いたのは、確かこの時だったと思います。

…しかしまあ、出てしまうものは仕方がないので、相変わらず和やかに俺は続けました。


「でしょー!結構馴染んでるよね、僕。すごくない?」

「すごいすごい」

「よっし!」

「…」


少し投げやりになってしまった俺の言葉に、由生はガッツポーズを取って意気込んでいました。

飲み物の用意をする振りをして背を向け、棚からレギュラーコーヒーの小袋を取り出しながら、ひっそりと溜息を吐きました。

その日はついに、“袴田はどうかと思う”という自分の意見を言えないまま、終わってしまいました。

俺が由生にそのように伝えることができたのは、三日後の体育の時でした。







その日、体育は午後でした。

最近にしては珍しい快晴で、俺たちはテニスコートへと移動し、体育教師が何事か説明し、二人一組になって打ち合いから始めるという流れでした。

俺のペアが誰だったかは問題ではなく、その打ち合いが始まる前、ラケットやボールを各自で取っていた時、俺はコートの側面にある壁…。テニスコート端にあるベンチに座っている見学組の方へ、ラケットとボールを自分の分の他に一つずつ取って歩み寄りました。


「由生」

「んー?」


距離が近くなって呼ぶと、教師の言い付けてボールカゴへ両手を添えて移動させていた由生が、足を止めて顔を上げました。

実際に活動はしなくても、彼のジャージ姿もなかなか見慣れてきて、だから何だか本当に、このままずっとが約束された“普通”のようで、だから彼のなかにあるその“普通”を、少しでも助長させようと思いました。


「ほら、取ってきてやったぞ」

「え…?」


顔を上げた彼に、手にしていたラケットとボールを一組ずつ手渡すと、由生はきょとんとそれらを手にして俺を見ました。


「え、でも…。やっちゃまずいし…」

「当たり前だろ。…かっちりはできないけど、これくらいならできるだろ?」


そう言って、俺はボールをラケットの上に置き、ぽんぽんと垂直に宙へとボールを弾ませました。

俺自身、あまり運動神経は良くないのですが、このくらいだったらいくらでも続けられます。

不安がっていたような由生が、きらりと目を輝かせて渡したラケットを握りしめ、前のめりに俺が弾ませているボールを覗き込みました。


「おお…!ヒロすげー!」

「試合はできなくても、ラケット振る程度なら問題無いだろ。あんまり握る機会もないし、ただ触ってるだけでも面白――」


――と、その時でした。


 ズバンッ――!!


「…!」

「うわ…!?」


物凄い勢いで、俺と由生の間を小さな物体が通過し、すぐ横の緑色の壁に当たりました。

その物体が何であるか、何処から飛んできたとか…。

そんなことよりも、その音と予想外の飛行物体により、こういった日常的突発的事象に“普通”レベルの免疫すらない由生が衝撃に対する受け身も取れず、大袈裟に身を引いてそのままバランスを崩し、ボールカゴを巻き込んでその場に尻餅を着きました。


「…! 由生!」


その様子に一瞬驚愕して固まっていた俺も我に返り、すぐに彼の傍に屈み込み、肩に手を添えました。


「い、いったあー…」

「大丈夫か?」

「うん。…でも、びっくりした。何、今の。ボール?」

「みたいだな…」

「あっははは!」


ざわざわと周囲が今の音と大量に転がるボールに気付いてこちらへ視線を集める中、けらけらと笑う笑い声が耳について、俺は立ち上がると声のする方へ視線を投げました。

当然、そちらは今ボールが飛んできた方角で、更に肩にラケットを引っかけ、もう片方の手をジャージのポケットに入れた状態で例の人物が愉快そうに笑い飛ばしていたのです。

それが袴田です。

うちの学校は、体育ばかりは隣のクラスと二組で行うことになっていました。

俺たちの間に容赦のない速度でボールを打っておいて、謝るどころか、奴は得意気に口笛を短く吹きました。

にやにやと嫌な笑みに反吐が出そうになります。


「いえーい。ビビってんのー」

「…おい」

「あ…。今の袴田くんがやったの?」


注意の一つでも言ってやろうかと思った俺が言葉を続けるより先に、由生が立ち上がって彼の方を向きました。

驚くことに、その顔に驚きはあっても怒りや怯えは一切ありませんでした。

由生の声に、袴田は軽く顎を上げて肩にかけていたラケットを下げました。


「まーあな」

「当たりそうだったよ。びっくりした」

「当たんねーよーに打ってっから平気だっつーの。俺はコントロールいいっつっただろ。見せてやろーと思ってよ。…つか、こんなことでボールぶちまけてんなよ。拾えよな、見学」

「こぉら、袴田―!お前何やってんだー!!」

「あー? うぜー」


それだけ言って謝りもせずに背中を向けた袴田へ、すぐさま教師が声を張りながら近寄っていくと、短く注意を始めたようでした。

そのせいですっかり俺は発言する機会を失い、それ故に発散もできず、めらめらと燃え上げるような怒りが胸の内側に燻った状態が続いていました。

…何なんだあいつ。

舌打ちして改めて隣を向くと、既に由生は健気にもボールを集め始めていました。


「…大丈夫か?」

「え? 何が?」

「擦り剥いたりしてない?」

「ううん。全然平気だよ、これくらい」


拾った数個のボールをカゴに入れ、離れた場所へ転がっているボールを拾いにまたカゴから離れます。

俺も足下のボールを拾ってカゴに入れていると、由生がまたカゴへ拾ったボールを入れに来ました。

そのタイミングで批難の続きをと思い、俺は露骨に溜息を吐きました。


「まったく…。危ないことするよな」

「袴田くん?」

「普通人に向けて打たないだろ。…俺はいいけど、由生に当たったらどーすんだよって話だよね」

「でも、俺とヒロの間を狙って打ったとしたら、すごくない? このくらいの距離だったよね?」


さっき会話していた距離を再現するように傍に来て、由生が俺と自信を交互に指さしてスペースの狭さを主張しました。

彼の反応に、俺は眉を寄せるのを隠すことができませんでした。

…だって、そんな話じゃない。

あいつのコントロールが上手いとか下手だとか、そんな話はしていない。

どうして今のを許すんだ。

どうしてあいつと友達になったんだ…。

そこが俺の中の争点であるにもかかわらず、由生は一切問題視していないのです。

しかも相手を褒めてすらいる。

…彼の穏やかさは長所ですが、ちょっと気にし無さ過ぎです。

寂しく感じると同様に、袴田に対する怒りが芽生えました。


「由生。あいつはちょっと派手めだから、あんまり仲良くしない方がいいよ」


そこで漸く、俺は由生に伝えることができました。

彼の為を思ってプラス、客観的に見てそうするのがいいと思ったのですが(人が話している間にボール打つなんてどうかしていると思うでしょう?)、露骨な嫉妬の台詞のようで、思っていたその言葉を声に出すにはなかなか度胸が要りました。

発言し、やり遂げた感を感じたのは一瞬だけで、


「えー? そんなことないよ。袴田くんちょっと見た目恐いかもしれないけど、優しいし、僕好きだよ?」


…という彼の言葉に、遂行の悦びは何処かへ飛んでいってしまいました。

…。

“…ああ。どうしよう…。”

その時に感じたのは、そんな漠然とした感情による、胸中の発熱でした。






誰でも、意識していてもいなくても宝物があると思うのですが、俺のそれは由生だったのです。

ちょっとイっちゃってる表現になりますが、正しくそんな感じです。

俺は、俺が持っていない彼の誠実さと純粋さが好きであって、そんな彼がじわじわと世俗に影響されている過程を目の当たりにし、困惑しました。

普通に立っている彼の足下から、黒い色が上っていくのが目に見えたのです。

その時から、きっと俺はどうかしていたのかもしれません。

だって本当に見えていましたから。その黒いシミが。

手がけた絵が、誰かに上から筆で一塗されたような、そんな“台無し感”がありました。

…けど、それは彼にとって学校や友人というそれ自体が珍しいからに他なりません。

多少のことには目を瞑らなくてはいけない。

何も、悪いことをしているわけではないのですから。

実際に袴田が彼へ悪いことを誑し込めばそれは激怒して引き裂きますが、今の所いけ好かないというだけでそこまで目くじら立てることもない……ということは、分かっているつもりです。

由生が楽しいのなら、それが一番いい。

…そう自分を宥めて、やっぱり素知らぬ顔をして穏やかに日々を過ごしました。

それでもやはり気にしてしまうものは気にしてしまうので、それまでよりも少しだけ、俺は由生との時間を共有するよう努めました。

具体的には、美術室に連れ込む時間を増やし、一緒に帰るようにしたのです。

彼が、その日はモデルが嫌だと言えば、俺も帰宅しました。

度々、廊下で袴田を見かける度に由生は彼の方へ飛んでいきましたが、それには目を瞑ることにしました。

一緒に帰るわけでもないし、立ち話くらいは許してあげよう…と、そんな傲慢な気持ちでいました。

遊びに出られるよりはよっぽどマシですから。

そんな日を何日か繰り返すうちに、俺と袴田とは何となく微妙な空気が流れ、そのうち袴田の方は俺がウザイとばかりに舌打ちくらいするようになりましたが、まあ予想範囲内でした。

俺は大して彼自身を気にしてはいません。

問題は、あくまで由生の汚染度なのです。






由生は、体調が良好なのをいいことに、少し気持ちが前のめりになっていました。

自分の身体が丈夫ではないこと、周囲の人間と違うことを、忘れつつあるように思えました。

自分を取り囲む周りの基準に、無意識に自分の基準を合わせようとしてしまうことは仕方ないのかもしれませんが、そこを忘れてしまってはいけない。大事になってしまう危険性があります。

だから俺は度々彼に「大人しくするように」「あんまりうろちょろしないこと」などと注意しましたが、その時は頷いておいて、どうやら事の重要性を本人が分かっていないようでした。

…学校なんか、来させない方が良かったのではないだろうか?

そのうちに、俺はそんな非道なことまで考えるようになりました。

外へ出る度、新しい人と友達になる度、彼の世界は広がりを見せ、それまで彼の庭であった<聖域>を仕切る柵は壊れはじめていました。

このまま、彼が“普通”になってしまったらどうしよう…。

俺はそのことを日増しに心配するようになっていました。

その辺にいるような、俺のような何の変哲もない輝きの消えた、どこにでもいる男子高校生になってしまっては、俺が彼に抱いた理想はどうなってしまうのか。

彼は俺の親友であり、俺の憧れの少年期その具現化です。

…でも、多少外部からの刺激があっても由生は由生。

人間の本質は何をやったところであまり変わらないと思うので、俺は、多少のことがあっても、彼は揺るぎなく彼なのだろうと信じていました。


だからこそ、あの時の衝撃が強かったというわけです――。





それは休日の午後でした。

自宅一階のリビング横にあるサンルームで、庭の花をスケッチしていた時です。

横の小さなテーブルに置いていた携帯から着信音が鳴り、筆を動かしながら左手で携帯を取りました。

相手が誰かまでディスプレイは見ませんでしたが、声ですぐに分かりました。


『弘くん、こんにちは』


それは由生の母親でした。

病気の関係や見舞いなどの都合上、俺は父親も含めて新田家全員の携帯番号を登録してありました。


「ああ、こんにちは。…どうしたんですか?」

『ええ。夕飯のことなんだけどね』

「…夕飯?」


あまりにも唐突すぎる単語に、俺は筆を動かす手を止めて、両足の間にその腕を下げ、椅子の背もたれに寄りかかりました。

…夕飯?

今日は病院へ行く予定は無く、当然一緒に食事をする予定に覚えもありません。

しかし彼女が夕飯というからには何か約束があって、俺が忘れているだけなのかも…。

聞き返す傍ら、俺は頭の中でスケジュール帳を開き、予定を振り返りました。


『ごめんなさいね、弘くんに電話しちゃって。今日、知人からレシピ教わって、ちょっとビーフシチュー作ってみようと思うのよ。だから、ご飯食べずにそのままうちに帰ってこない? 勿論弘くんも一緒に』

「…? …あの、すみません」


彼女の話をそっと遮り、俺は言葉を入れました。

おかしな話です。

やはり俺に新田家で夕食を取るような予定は覚えが無く、また、今の台詞を聞く限り、彼女の中では俺はどうやら自宅でない所にいると思いこんでいるらしい。

加えて、“帰ってこない?”なんていう表現は俺には適さないはずでした。

新田家が俺の家ではないので。

…彼女の言っていることが分からず、俺は問いかけました。


「ごめんなさい。今日って…何か約束ありましたっけ? 病院には明日行こうと思ってますし、今日は俺に外出する予定はありませんけど…。夕食に誘ってもらえたって話で合ってます?」

『…。……え?』


俺がそう言った瞬間、携帯の向こうで空気が凍り付いたのが分かりました。

一 二秒の沈黙のあと、彼女がそれまでと声色を変え、弱々しい細声で口を開きます。


『え…? あの…。今、由生がそこにいるんでしょ?』

「…え?」

『あの子と一緒よね?』

「…。いいえ。俺は家にいますけど…」


その後も会話は続いたが、もうそこで察しはつきました。

俺はその段階で筆をケースに戻すと、立ち上がって外出の用意を始めました。

耳に添えたままの携帯からは由生の母親が狼狽を初めており、聞いているこっちが目を回したくなるような狼狽えっぷりでしたが、何とか宥めて事情を聞くと、大体予想通りの答えが返ってきました。

由生は、今日俺と出かけるのだと言って、“家”を出たそうです。

…そう。由生は、数日間の外泊許可を取っていたようでした。

今日の彼の拠点は自宅であったのです。

しかし、俺はそれを知らず、また俺と遊びに行くという予定も事実無根。

全てが初耳でした。

断じて浮き足立っているわけではなく、それでも体内が空洞のような妙に軽すぎる足取りで、俺は家を出ました。

駅へ向かいながら携帯で由生にかけましたが、母親の言うとおりそれは電源が入っていないようで、一切繋がることはありませんでした。






家を出た時は溜息を吐く程度だったはずなのに、道中で何があったのでしょう、駅前に着く頃、俺は半ば狂気に片足を入れていました。

段々段々苛々してきて、沸々と身体の内側が沸騰してきて、“病弱な友達を捜す”というよりは“親を殺した仇を捜す”という表現の方が正しいくらいの凄味で、駅前の複数の店を回りました。

よく行く古本屋、好きなアイスクリームショップ、病院にもあるカフェ、ショーウィンドウにやたら足を止めていたスポーツショップ、袴田と行ったとかいう大型書店…。

しかし、いずれも由生の姿を見つけることはできませんでした。

由生の行動範囲は、決して広くないはずなんです。

少なくとも、俺の知っている由生は。


「…はあ、はあ……」


散々足早に歩き周り、駅前のオブジェに戻ってきたところで、俺は足を止めました。

競歩レベルに歩くだけでも結構疲れるものです。

脹ら脛に乳酸が溜まり、随分固くなりました。

肩でしていた息を整えながら、疲れてきた足を見下ろし、それからもう一度周囲180度を見回したところで、はた…と駅の改札口で視線を止めました。

…あと思い当たる場所といえば、学校くらいです。

休日に学校なんて、可能性は薄いのですが、もうそこくらいしか由生と外界を繋げる場所を俺には上げられませんでした。


「…。これで、新しい場所とかにいたら…殺すからな…」


一人でぽつりと呟いて、まだ荒い息のまま、俺は定期の入っている財布をポケットから取りだしながら、改札をくぐりました。

無意識に飛び出た言葉ですが、勿論言葉の綾です。

本当に殺すわけないじゃないですか。そんなつもりすらない。

俺が由生をなんて…。

有り得ない。






休日に学校に行くのは妙な感じでした。

バスの本数は少ないものの、タイミングのいい時間帯にバス停に着いたので、学校行きのバスにはすぐに乗れました。

…取り敢えず、教室に行ってみるか。

その後は美術室だ。いないと思うけど。

そう思って昇降口へと向う途中、第一体育館があります。

そこから物音が聞こえてきました。

ボールが弾む音でしたが、それにしては音は多くなく、またざわざわと複数の人の気配もないものでしたから、部活ではなさそうでした。

どちらかといえば、部活終了後の自主連か、誰もいない体育館でのお遊びか…といったところでしょうか。

絶対無関係だろうと思いつつも窓から覗いてみて本当に良かった。

そこに由生がいたからです。

いつだったか、ネットで買った黒い服を着て。

それから守田と、袴田と…あと名前は不明ですが、他クラスでバスケ部の奴がもう二人いました。

格子窓の向こうで、こちらに背を向けてコート中央に立った由生がバスケットボールを持ち、ゴールを睨んでいるようでした。


「おらー!体のバネ使え、バネー!!」

「うー…。……ッおりゃあ!」


少し待ってみると、日陽が脳天気な声を張り、由生は両腕を上げ、真新しいシューズで高い音を立てて床を蹴ってジャンプすると、ゴールに向かってボールを投げました。

…が、当然、彼の腕力と脚力ではボールはゴールに届きはしません。

てーん…、という表現が正しくでした。ボールは弧を描きつつも、ゴールへの距離の半分程手前で床に落ち、そのまま跳ねました。

その瞬間、どっとその場にいた連中が吹き出して笑い出します。


「うっわ、低!」

「ぎゃははは!届かねええー!」

「おいおいおーい、新田ぁー!何でお前そんな腕力ねえんだあ? 高さねえし届かねえしって致命的だぞー!」

「えー? …おっかしいなぁ」


空になった両手で、由生はもう一度フォームを確認するようにその場で両手を上げてジャンプします。

弾んで体育館の端まで行ったボールを拾いに行った守田が、ボールを弾ませて笑いながら戻ってきました。


「お前まず筋トレ決定だな。決定的に腕力がねえんだって。…てか、全身足んねー感じ?」

「えー…」

「あと前に投げるんじゃねえんだよ。上な、上。…ほら、もっかい腕上げてみ?」


近づいた守田が、ボールを持った片手を上げ、由生はそれに合わせて再度両手を上にあげ、守田の持つボールに両手を添えます。


「屈んで。…そう、膝んとこな。…で、ケツを出さない!体を前にしない!」

「…む、むずかしい」

「胸張れって」

「うわ…!」


守田が片手の平全てを由生の胸に添えてぐっと上へ持ち上げ、猫背であった彼の背が仰け反りました。

その瞬間、ぷつん…と何か、頭の奥の方で細い細い配線か、若しくは少しだけ固い凧糸が一つ切れたような音を、俺は確かに聞きました。

なかなか小気味良い音でした。

…しかし、聞いたからどうということはなく、俺は淡々と格子窓から顔を離すと、体育館へ入るためにぐるりと壁伝いに回り、出入り口の方へ歩いていきました。

正面入口は両開きの扉が二枚縦に並んでいるのですが、どちらも全開になっていました。

やはり、バスケ部の午前練習が終わった時間を使って、遊んでいたのでしょう。

靴を脱いでアリーナ入口に立つと、先に名前も知らない他クラスの生徒と目が合いました。


「由生」

「…?」


彼の口が俺の名前を呼ぶ前に、俺は嘘を吐いてこの場にいる親友の名前を呼びました。

呼ばれた瞬間、ボールを持った由生はきょとんとした顔でこちらを振り返ると、いかにもしまったという顔で冗談めいて表情を歪めました。


「…うわぁちゃー」


彼は縮こまって肩を上げ、一歩後退して、さり気なく守田の影に隠れてみせました。

これもまた冗談めいていましたから、おそらく彼は俺の中にある怒りも不安も何もかも理解してなどいなかったのでしょう。まあ期待はしていませんでした。

その横で、守田が彼から手を離し、俺へ向けて片手を上げます。


「よう、小野寺―。どうしたお前。迎え?」

「…そう。迎えー」


素直に頷いてから、こちらもまた冗談めいて、半眼でじろりと彼の後ろに隠れている由生を睨んでみせました。

腕を組んで、敢えて眉を寄せてみます。呆れた調子で。


「嘘吐いて遊びに出てるお坊ちゃまのお迎えに参上したんだよ」

「嘘…?」

「あ、あはははー…」


守田の後ろで、由生はへらへらと笑っていました。

少し離れた場所でだれた様子で座り込んでいた袴田が、やはり不思議そうに片眉を上げました。


「嘘ってなんだよ、新田ぁ」


奴の由生に対する呼び方には心底吐き気がしました。

最初からでしたが“新田ぁー”と、何とも間延びしていて耳障りで甘ったるい気色悪い呼び方をするからです。

守田の肩に後ろから両手を置いて俺から隠れながら、由生は彼の方を一瞥しましたが、自分から言うつもりはなさそうだったので、俺が続けました。


「…由生は、家族に嘘吐いてここに来たんだよ」

「なぬ…!?」

「…あ、あっはっはっはー」

「…新田ぁ~」


俺の簡易な説明に当の本人は笑うだけで、その代わり守田が目付きを変えて、背後にいる由生を振り返りました。

彼の真剣めいた眼差しに、流石にへらへらしていた由生も表情を引き締め、彼の肩から手を離すとそのまま数歩後退しました。

後退したその後ろにいる袴田が、素っ気ない調子で軽く顎をあげました。


「へえー。そーなん?」

「嘘吐いて来たのか? …お前、ちょっとの運動ならいいって医者が言ったって言ったじゃん。だからバスケ教えろって」

「う、嘘じゃないよ…!」


守田に嫌われるのが怖いのか、由生は更にそんな嘘を着きました。

…何だか、俺の方が呆れてしまって、口を挟む気力もありませんでした。

小さく息を吐いて、取り敢えずこの場が収まるまで傍観を決めました。


「嘘じゃない?…じゃあ言え。どっからどこまでが嘘なんだ?」

「ちょっとの運動はいいって本当に言われたよ!」


ほほー。それは初耳だ。

だって俺は絶対安静だと聞いていましたから。医者から。

小さく息を吐いた俺を、どうやら守田は嘘発見器として一瞥していたようでした。

さっきより強い視線で由生を睨みます。


「じゃあどこが嘘なんだよ」

「…。今日、は…。ヒロと散歩に出かけるって、言ってきた……」


消え入りそうな声で、由生が声を紡ぐ。

日頃、病弱な彼の周囲には無条件に彼を案じる人間が多いから、叱られることなどは滅多にいません。

ぬくぬくと真綿の布団と窓越しの柔らかい太陽の光で、彼は育ちましたから。

そんな中、守田の態度は由生にとって軽い衝撃だったようでした。

更に追い打ちのように、他クラスの生徒が言葉を入れます。


「それってさぁ、マズイんじゃないの?」

「何、本当はバスケとかあんまよくねーの? やばくね?」

「…」

「おい、新田。お前の母さんは、小野寺と一緒だと思ったからOKしたんじゃないのか? 俺たちと違って、お前のこと知ってるから、無茶しねーと思ったんだろ。…なのに、母さんと、それに小野寺にまで嘘吐いて、俺らといちゃマズイだろ?」

「……」

「マズイよな?」


強い守田の言葉に、由生は彼から顔を背け、俯きました。

焦った時にする仕草として、ボールを抱えたまま、また胸の前で左右の指を弄っています。

正確には、彼の行動はまずおばさんに嘘を吐き、俺に嘘を吐き、更に一緒に遊んでいた守田たちにも嘘を吐いていることになるのですが、無意識なのか意識的なのか、守田は最後の自分たちのことはカウントしないようでした。

…やっぱり由生には、事の重大さが分かっていなかったのでしょう。

内心煮えたぎっていましたが、俺はそれらのマグマから発する熱量を外へ逃がすようにゆっくりと目を伏せて息を吐くと、瞼を開けました。

組んでいる腕を解いて、守田へ向きます。


「…悪いね、守田。騒がせちゃって」

「いや、いいって。お前のせいじゃないし。…つか、ごめんな。俺らも不注意だったわ。お前が一緒にいないって時点で、ちょっとおかしーなとは思ったんだよ。メールしときゃよかった」


彼は本当に巧い男です。

その言葉で、俺の守田に対する批難の気持ちはどこかへ消し飛びました。

俺は、彼の後ろで俯いている由生へ視線を向けました。


「ほら、由生。帰るぞ。おばさんが心配してるんだから」

「…」

「新田。帰っとけって」

「そーだよ。その方がいいって絶対」

「バスケはまた後でやろうぜ。な?」

「…。……後で?」


それまで拗ねまくって聞き流していた由生が、最後の生徒の言葉にぴくりと指先が震えました。

胸の前で弄っていた両手に、力が入ったのが誰の目から見ても分かりました。

…地雷だ。

その場に全員が一瞬で察して、妙な緊張が体育館に走りました。

“後で”は、彼には酷く遠い単語なので、心に刺さったようでした。

緊張に構えている暇はなく、間を置かずに由生は勢いよく息を吸うと――、


「――っ、後って何だよ!!」


年齢にしては高い声でそう叫ぶと、持っていたボールを両手で足下に叩き付けました。

孤独に声とボールの弾む音が響く体育館の中、由生は駆け出すと俺のいる正面玄関へ駆けてきて、そのまま俺の横を通過すると外へ出て行きました。

…あんまり走らない方がいいのに。

冷静にそう思ってから、俺も体育館を出ようと爪先を外へ向けた時に、ひゅ…と俺の横をもう一人が、駆けて外へ出ました。

袴田です。

彼は、室内シューズのまま駆けていった由生の後を追って、唯一その場から出て行きました。

体育館前の数段の改段を飛び降りると、そのまますぐ校舎の向こうへ由生を追って見えなくなりました。


「…」

「小野寺…」


二人が駆けて行った方を見ていた俺へ、近寄ってきた守田が背後から声をかけ、俺は振り返りました。

彼は、置いていかれた由生のバッグを俺へ差し出しました。

その背後には、気まずそうにしている他二人もいます。


「悪ぃ…。新田が落ち着いたら教えてくれよ。電話するわ」

「分かった」


俺は守田の言葉に頷くと、由生のバッグを肩にかけて体育館を後にしました。

どうせ遠くには行っていません。

学校内から出ず、また詳しくもなく、この周囲ですぐに逃げ込め、且つ人の目が無い死角となると場所はかなり限られますから、俺は何の疑問も持たずに体育館を出て斜め前にある図書館の裏へ向かいました。

早く由生を宥めて、病院に戻さなければ。

そう思って歩んで行くと、案の定、図書館裏にある裏口階段に座って膝を抱えている彼を見つけました。

…が、僕は一歩踏み出したその足をすぐに引いて、角の壁に背を預けるて身を潜めました。

何故かと問われれば分かりませんが、座り込んでいじけている由生の正面に屈み込み、袴田が我が物顔で彼に何か言っているようで、単にそれが視覚的に不愉快だっただけなのかもしれません。


「…」


…さっさと何処かに行かないだろうか。

宥めて、おばさんに連絡して、連れて帰らなければいけないのに…。

その場で少しの間待っていると、急に袴田の声がしました。


「よし…!」

「…!」


区切りをつけるようなそんな明るい声色の後、パン…!と手を打ち付けるような音が響き、足音がこちらへやってきます。

俺は慌ててその場から身を引き、さも今やってきたという調子で、彼らのいた図書館裏へ飛び出しました。


「由生!」

「…!」


まだ距離はあるものの、急に出てきた俺に、二人は少し驚いたようでした。

前を歩く袴田の後ろで、由生は目元を赤くした顔でこちらを見ます。


「…ほら。もう帰ろう。おばさんも心配してるから」

「……」


泣き顔には触れずにそう言うと、由生は沈黙したまま俯きました。

その背中を、袴田が乱暴に叩きます。

どん…!という音の後、由生が蹌踉けて前に数歩出ました。


「おい…!」

「……」


かっと来て入れた俺の声は流され、由生は袴田を一瞥すると、おずおずと前に出てきました。


「……ごめん。……ヒロ」

「…」

「ほんとごめん…。バスケとか、やってみたくて……。でも、母さんもお前も、絶対ダメっていうから……」

「…。何で駄目っていうか、分かってる?」


俺が質問で返すと、由生は益々申し訳なさそうに小さくなりました。

けれど、しっかりと返してくれました。


「…俺のこと、心配してくれてるから」

「…」


そこが分かっているのなら、もう俺から言えることはありません。

二度と同じ事をしないでくれれば、それでいいのです。俺は。


「……帰ろう。…な?」

「…うん」


彼に道を譲って横に退くと、由生はとぼとぼと力のない足取りで図書館裏から表へと歩き出しました。

その後ろを、俺も着いていきます。

袴田はその場に残って、ただ俺たちの方を眺めていました。

本当なら、彼に感謝の一言でも投げた方が良かったのでしょうけれど、俺はどうしても彼にカケラの好意も持てなかったので、存在が癪に障り、感謝の言葉なんて思いつきもしませんでした。

一刻も早くこの場を去って、接点をブツ切りたいと思う程でした。

しかし――。

…そう、しかし、ここで由生は足を止めて振り返り、言ったのです。

最悪の一言でした。

一字一句、間違いなく俺はこれを覚えています。


「…袴田くん、本当にありがとう。…君がいてくれて良かった」

「…」


横で、俺は息を呑みました。

衝撃的でした。

全身を雷が走った。

絶句する俺の視界の中で、距離のある袴田が両手をポケットに入れたまま軽く肩を竦めます。


「うっわ、うぜ。ゲロ甘―。…はは。バーカ。いいって。…ま、誰だって無茶したくなる時ゃあるよなー」

「…また遊んでね」

「さあな。気分次第」


言い捨てて、袴田は俺たちとは逆方向へ向かって歩き始めました。

図書館裏にはグラウンドへ下りる階段があるので、そちらに向かったのでしょう。

彼の姿が見えなくなるまで、由生はそっちを眺めていました。

そして見えなくなった頃、ようやく俺を見たのです。


「…帰ろ」

「…」

「どうしよう。母さん絶対怒りまくる…。やだなあ。…終わるまで横にいてよ、ヒロ」


割とポーカーフェイスの自負はありますが、その時、自分がいつものように相槌を打てたかどうか、今はもう覚えていません。

頭が真っ白だったような、煮えたぎっていたような、何だかとにかく“普通じゃなかった”ことは覚えています。

俺は、シンプルに悔しかった。

だって、知り合って半年にも満たない奴に投げられた言葉を、俺は言われたことがなかった。

俺よりも奴の方がいいのか!……なんて、馬鹿なことを本気で考えていました。本気で考えていて、尚かつ全てでした。






今思えば、あっさりと強請れば良かったんです。

「俺はそんなこと言われたことない。俺にも言って欲しい。何だよ、最近袴田袴田って…!」と、一言拗ねてみせればよかった。

…けど、俺にはそれがとてもできない人間でした。

思いつきすらしなかった。

暗い感情は、決していいものではない。それを聞く側だって楽しくないしいい気持ちはしない。だから蓋をして然るべきだと思って生きてきましたから。

不機嫌を不機嫌として素直に親しい相手に表現できることは、一種の才能だと思うのです。

俺には、その才能が一切無い。

いつも笑顔で、穏やかでいるべきだと当時は考えていました。

我慢するのはいつも俺ばっかり。

俺はこんなに心配してるのに、勝手にほいほい友達をつくりやがって…!






他愛もないが、強烈だったその些細な嫉妬は、由生を送り届け、彼の母親を宥め、家に帰ってから爆発しました。


「…」

「あ、兄貴おかえ…り……」


大股でずかずかとリビングを横切り、アトリエに行くと、まず出かけに描いていた絵を台ごと蹴り飛ばしました。

ガラガラン…と物が連鎖して床に倒れ落ちる音を聞きながら、そこから二階の自室へ戻ると、部屋の端に隠してあった鍵付きトラックから、そこにあった数冊のスケッチブックをごっそりと取り出しました。

…俺は、過去の物を取り溜めておこうとはあまり思わないタイプですが、それでも気に入ったものはどうしても捨てるには忍びなく、こうしてひっそりと隠し持っていたわけです。

隠している理由としては、自分の描いたものを気に入るなんて、ちょっと自惚れ入っているから知られるのが恥ずかしいということの他に、その気に入っている絵というものの六割が、由生の絵であったことが原因でした。

勿論、他の風景画や人物画もあるのですが、ぱっと見どうしても彼が多い。

何だか、まるで親友相手に叶わない恋愛でもしているみたいな自分のこのチョイスがバレるのが嫌で隠しているのですが、憧れである人物として描き、必然的に出来が良くなり、気に入ったものが殆ど彼なのですから、意図的に集める気が一切なくてもこの収集の結果は仕方無かったのです。

若しくは、彼は俺の長い間の憧れであったから、寧ろ捨てずに取っておく絵が彼に偏るのは当然だったのかもしれません。

溜めておいたのは、病室で爆睡している時とか、町に出た時とか、こうであったらいいなとか…そういう、落書きじみたものでしたが、それでもやはり気に入っているものでした。

その中には、由生が描いて欲しいといって描いた、制服姿の彼の絵がありました。

それに、この間描いた由生と守田の絵も。


「……」


それらを束ねて、とんとんと床を叩いて揃えると、俺は庭に出て火をおこし、それらを焼却することにしました。

気に入っていた絵をスケッチブックから切り離し、火を着け、ぺっと捨てます。

後は何枚か束ねて切り離し、燃料として次々と火種にくべていきました。

ただひたすらに、淡々と。

…そんなことを俺がしていたものですから、当然、謙吾けんごが庭に繋がる窓からこっそりと顔を出しました。


「あの…。にーちゃん……」

「…」

「その絵…。全部燃やしちゃうの…?」

「…そーだよ」


法律で、この地区間では私有地での勝手な焼却が禁止されていることは知っていましたが、それならさっさと発見して注意しに来てみろよという心境でした。

両腕に力を込め、またスケッチブックから数枚まとめて切り離し、くしゃくしゃに丸めて火の中にくべます。

沈黙して見ていた謙吾が、タイミングを見計らって声をかけました。


「あの…。燃やすんなら、俺…欲しいな……。なんちゃって…」

「嫌だよ」

「あ…そう……」


夕暮れの空に、煙が上っていくのを、よく覚えています。

そうしてあの嫉妬心も。

…結局、由生は俺が彼を見ているのと同じくらいには、俺のことなど見ていないのです。

いっそ嫌いになれたら良かったのに、それでも、俺の心は彼から離れなかった。

新田由生とい少年は、相変わらず守るべき俺の王子様であり、輝きの中にいて、俺が捨ててきたものを全て持っていて、あの我が儘っぷりや視野の狭さ、無意識下の俺様っぷりも含めて、やはり俺の憧れでした。

だからもう、接してくる方に嫉妬するしか無かったんです。

…全てのスケッチを焼却し終え、後始末を謙吾に任せて、俺は部屋へ戻りました。

新しい画材を用意し、今度はそこに、病室で横たわる親友を描くことにしました。

…そもそも、あの白い部屋から出たのがいけなかったんだ。

制服姿、教室なんて描いたから良くなかった。

彼の住まう場所は、やはりあの狭く整った、白い、窓からの景色が美しいあの部屋が一番いい。

限られた人間と限られた行動。

そうでなければ、あっという間に彼は汚染されてしまう。そんなのは耐えられない。

それに、あそこにいてくれと願うのは、彼の体調の安定を願うことでもありました。何がいけないというのでしょう。

俺のしたことは罪ですか?

法律で何か禁じられていますか?

言いたいことがあるのなら面と向かって言って欲しいくらいです。なんなら殴ってくれても良かった。

誰か俺に、「そんなことは間違っている」と、声を大にして言って欲しかった。

俺だってあんなことはできることなら止めてみたかったのですから。

…けど、不幸なことに、俺を止める人間は当時誰もいなかった。

見つけてくれる人もいなかった。

俺は病弱な親友が病弱である姿を、その日は夜通し描き続けました。

元気な彼なんていらない。

俺は気弱で病弱で、常に受動的な彼を紙の上で飼いたい。

描いても描いても怖くて、何処かへ逃げてしまいそうで、汚染されてしまいそうで、俺以上の友達をつくってしまいそうで、ただひたすら怖かった。

…誰か檻を。

檻を下さい。俺に。

堅牢たる檻を。

由生を閉じこめるか、若しくはこんな狂気じみてる俺を閉じこめて欲しい。

彼がこれ以上変化するのを見たくない。

けれど離れることもしたくない。

どうしていいか分からずに、惨めで狭小な自分を呪いながら、時々激情に負けて壁を殴ったり手近な小物を投げたりしながらも、俺は筆を走らせました――。






それから、奇跡的なことに、由生が体調のを崩す日が続きました。

目眩に吐き気に嘔吐に過呼吸などは当たり前で、頭痛下痢不眠疲労感発熱に合わせての肺炎など、今まで良好だったツケが一挙に来たかのように、病室から出られなくなりました。

俺は、また頻繁にそこに足を運びました。

日常が戻ってきたのです。


「…『ドリアン・グレイの肖像』?」


初夏、病院の一室。

VIPルームなので無駄に広い、ちょっとシンプルなホテルの寝室のような内装の病室が、俺たちの遊び場でした。

応接用のソファに座ったまま聞いたことのない小説のタイトルを聞き返すと、ベッドで体を横たわらせたまま、由生はおもしろそうに控えめに笑います。

春風を思わせるその笑顔はだいぶ長い間見ていますが、それでも未だに彼の笑顔を表現する単語として“春風”を使うほど、彼のそれは常々柔らかいものでした。

医療用酸素マスクを付けているため、籠もった声で彼が続けます。


「そうだよ。…知らない?」

「…んー。知らないなあ。どういう話なの?」


柔らかい声に、柔らかく返す。

俺は決して、飛び抜けて育ちがいい訳ではありませんし、口がいい方でもありません。

…が、彼と話していると、どうしても俺も言葉遣いが普段より優しくなる気がするし、実際そうなれるのです。

そして、由生が小説のタイトルを持ち出してきた時は、聞いてやるのがミソでした。

彼は、自分が読んだ小説の内容を人に話すのが趣味のようなものだから、いきいきとストーリーを俺に話してくれますから。

…例えそれが聞いたことがあるタイトルであっても。


「えーっとね…」

「うん」

「…あれ? ……どういう話だっけ…」


ふわふわと浮いた声で、由生は首を捻りました。

何度目かになる発熱が、ようやく下がった頃でしたから、たぶん頭の中の整理がつけられていなかったのかもしれません。


「…ごめん。忘れちゃった」

「おいおい」


笑う彼に合わせて、俺も小さく笑いました。

笑うという行動は意外と体力を消耗するもので、由生は短く笑った後、すぐに口を噤んで、横たわったまま天井を見上げました。


「…でもね、何かね。…絵の話だったんだよ」

「まあ、『肖像』っていうんだからそうなんだろうなあ」

「おかしいなあ…。俺、それを読んで…ヒロに描いてほしいものがあった気がするのに……」

「へえー。何だろう? …でも、思い出せなきゃ伝えられないな。頑張って思い出せ」

「――あ、そうだ」


不意に思い立ったように、由生はソファに座っている俺の方へ顔を向けました。

首を傾げて、「ん?」と聞き返してやると、彼はきらきらした目で俺を見ました。


「ねえ。いつかの、絵は完成した?」

「――何だっけ?」

「ほら。嫌がる俺をモデルにして、何か大会があるかっていって、大きな絵を描いてたじゃない」

「…ああ」


それは、部活の方で描いている絵のことでした。

美術館に彼を引っ張り込み、時間を奪って描いていた人物画。

由生が学校にいる間、場所を同じくしたくて描いていたものだったけれど、出だしは良かったのですが、彼が動いている間は、実の所その進行度は暫くの間止まっていました。

けど、最近、また描こうとする意欲が、俺の中に戻ってきていました。

…少なくとも、彼がこうしてベッドにいる間は、俺はあの絵を描き進めることができるでしょう。彼が美術室で目の前に座っている時よりも、ずっとずっと早くに。


「もうちょっとだから」

「…本当?」

「いい感じだよ。構図がファンタジックだからね。たぶんあんな直球に夢見がちだと賞は取れないと思うけど…。まあ、取れなくてもどーでもいいし、俺自身気に入ってるよ。由生も絶対気に入ると思う。世の中全て由生のもの的に描いてるから」

「えー? 何それ。想像つかない」

「完成したら、持ってくるよ」

「…制服着てる?」

「着てるよ」

「誰かが一緒にいる?」

「いないけど、場所は教室」

「へえー…。そっかぁ…。楽しみだなぁ……」

「…」


顔を綻ばせ、ぼんやりと続けながら、そのままふ…と由生は目を伏せて眠り込んでしまいました。

…少し、話しすぎたかな。

窓の外へ目を向けると、空は朱色の綺麗な夕空でした。

いい感じに練られたオレンジ色が、世界の半分以上である空を染め上げています。

綺麗な夕空でした。

…疲れさせてしまうのは本意ではなく、俺はそれ以上の会話を止めてソファの背に身体を預けると、同じように眠ることにしました。



斯くして、由生は死にました。

夜になり、俺だけが目を覚まして、静かな病室で彼の死を確認し、暫く彼を眺めてから、ナースコールを押しました。

体調不良が続いていたと言っても、引き金となった直接の原因が何であったのか、今でも不明です。








葬儀はしめやかに行われ、短い触れ合いであったにもかかわらず、クラス代表で来た守田は泣いてくれました。

袴田は通夜に来て、少しだけ話をしましたが、彼の弟がやはり病気で入退院を繰り返し、肺炎で亡くなっていたことは、その後風の噂で聞きました。

彼は由生に弟を重ねていたのでしょう。

だからといって侵略を許す理由にはなりませんが、まあ納得はしました。

ご両親は勿論涙し、特に母親は泣き伏せていました。

…俺はというと、不思議なもので、由生が亡くなった時も、通夜の時も葬儀の時も、涙を忘れたかのように、ただただ、特記するようなこともなく、存在していました。



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