遺文 一~五枚目
「…『ドリアン・グレイの肖像』?」
初春、病院の一室。
VIPルームなので無駄に広い、ちょっとシンプルなホテルの寝室のような内装の病室が、俺たちの遊び場でした。
応接用のソファに座ったまま聞いたことのない小説のタイトルを聞き返すと、ベッドで体を起こしていた由生はおもしろそうに笑います。
春風を思わせるその笑顔はだいぶ長い間見ていますが、それでも未だに彼の笑顔を表現する単語として“春風”を使うほど、彼のそれは常々柔らかいものでした。
一般的にイメージする高校生よりも一回り小柄な体格。更に傍にいることの多い俺が長身のこともあって、人にはますます小さく見えるそうです。色が白いのも皮膚や髪が柔らかいことは、長い間病室暮らしをしている証明にもなるでしょう。
「そうだよ。知らない?」
「知らないなあ…。どういう話なの?」
柔らかい声に、柔らかく返す。
俺は決して、飛び抜けて育ちがいい訳ではありませんし、口がいい方でもありません。
…が、彼と話していると、どうしても俺も言葉遣いが普段より優しくなる気がするし、実際そうなってしまうのです。
そして、由生が小説のタイトルを持ち出してきた時は、聞いてやるのがミソでした。
彼は、自分が読んだ小説の内容を人に話すのが趣味のようなものだから、いきいきとストーリーを俺に話してくれるのです。
心の浮き上がりが体調の向上を導くことは、デマでも何でもなく実際の現象ですから、俺は極力由生を上機嫌の状態に保っておきたくありました。
その時に話してくれた、彼の話を要約しましょう。
『ドリアン・グレイの肖像』は、原作タイトルを『The Picture of Dorian Gray』といい、オスカー=ワイルドの長編小説でした。
どこかで聞いたことのあるタイトルと著者名だが、生憎そこまで本を読まない俺にはぼんやり思い出せるか出せないかというだけで、ピンとは勿論来ませんでした。
長編といっても、以前彼が話してくれたような『ジャン・クリストフ』のように三冊四冊続くようなものではないので、話を聞く限り、どうやら俺でも読めそうな長さのようでした。
享楽主義者で美術家な偽悪者を気取っているウォートン卿という奴がいて、彼を慕って影響を受けてしまった誠実であった美青年のドリアンが、自己愛や快楽を理由とした放蕩生活を始め、堕落していくというものです。
ドリアンのことを心から慕っていた親友の画家・バジルはこれを窘めるも、聞きはしない。そもそも、丹誠込めて描いたドリアンの絵画をウォートン卿に見せて絶賛され、モデルに会ってみたいという流れになり、嫌々ながらに交友を作ったのはバジルだったのです。
ウォートン卿は感化されていくドリアンを溺愛し、ドリアンは彼の人生観と生活スタイルに毒され、バジルはそれを後悔します。
最高傑作であるバジルの『ドリアン・グレイ』は、バジルの密かな恋心を込めて描かれました。
口に出来ない自分の恋と想い人の永遠の美貌を祈って描いた作品だったのです。
更に、今ではもう存在しない、卿と出会う前の誠実で無邪気であったドリアンがそこにある。だからこそ魔性の絵になってしまう。
現実のドリアンは時と共に老いることが無くなり、いつまでも若々しく美しく、その代わりに絵画のドリアンが老いていく。
しかし呪いが付いたようにドリアンの周囲には不吉なことが起こり、友人知人も次々と不幸に見舞われる。
ドリアンが背徳や堕落などを重ね心の醜さを得るにつれて、壁にかかった肖像画はどんどん老いてどんどん醜くなり、最終的には見かねたドリアンが肖像画を傷付けると自分も死亡……と、 ざっくりとそんな話でした。
どこかでタイトルだけは聞いたことがあるような『ドリアン・グレイの肖像』ですが、俺は内容を聞いて少し驚いたのを覚えています。
堅苦しい文学かと思いきや、話を聞いているだけで設定からしてなかなか面白そうでしたから。興味を持ちました。
「へえー。不思議な話だね。そんな、禁じられた恋みたいな感じだったのか」
俺が言うと、由生は肩を竦めて教えてくれました。
「オスカー=ワイルドがまず同性愛者だったみたいだから。出てくる人物も男が多いんだよ」
「へえ…。…んー。でも、確かに自分が仲介役しちゃった相手に想い人取られたら、そりゃあ嫌だろうね」
「え、そこなの?」
「ん?」
俺の感想に、由生は苦笑しました。
彼の視点からでは、この作品は別の教訓を抱えているということでした。
「違うよ、ヒロ。これは普通、“悪いこととか不真面目とか、快楽に溺れちゃいけませんよ。いかに外見が美しくても心が美しくないとね”って話だよ」
「ああ、そうなんだ? …なんだ。恋愛話の方にウエイトあるのかと思ったよ」
「もー。…まあ、そこがこの本の魅力でもあるけどね。より背徳感が増すんだよ、きっと」
くすくす笑いながら、由生は膝の上に置いてあったその小説の表紙を撫でる。
俺は、彼との視点の違いに気付かされ、嬉しくなりました。
彼が、既に“大人の視点”に片足踏み入れている俺と考えが違えば違うほど、俺には彼が輝いて見え、ますます彼が憧れの対象になりました。
「読んでみる?」
そう言って、由生は俺に本を差し出しました。
しかし俺はこれを断ります。
「うーん…。いいかなー」
「そう? 面白いのに」
「俺は小説苦手だから。由生からあらすじ聞く方が楽しいしな」
「本当?」
俺が言うと、由生は嬉しそうに顔を明るくさせました。
それから、布団の上に置いた右手を、ばたばたと上下させます。
「じゃあ、色々お勧め紹介してあげるから」
「そうだね。楽しみにしてる」
「…あーあ。でもいいなぁ。絵の中の自分かあ…」
「理想を不変のものとして残しておきたいっていう感覚は分かるよな。何となくさ」
重ね重ねになりますが、俺は絵を描くことが好きです。
写真や彫刻なども含め、美術系を嗜む人間にとっては、その感覚は多かれ少なかれ持ち合わせているところだろうと思います。
他の人間よりも“時の流れ”の影響を感じていると思うのです。
その急流の音が聞こえないのがおかしいくらい、時間は俺たちの周りをすさまじい速度で流れています。
美しいものや愛しいもの。
それだけではなく、醜いものや酷いものもですが…。
キモチが動いた瞬間を、固定する。
変じているもの、流れているものを、捉え、拘束し、額縁というカゴとタイトルという“名前”を付けて愛玩動物のように飼う。
そこが面白いところだと、俺は思っています。
表現が気に入らないのなら“心動いた瞬間を記録に残したい”などと美しく装飾もできますが、要はそういうことでしょう。
他の画家がどうかは知りませんが、俺は少しスタンスが風変わりらしく、例え美しい桜の風景を描写し、柔らかく優しく描けたなと自分で思っても、何故か顧問によく『小野寺の作品は意外と攻撃的だ』と評価を受けることがあります。
俺は絵を描くことが好きですが、単純に好きなのであって、詳しい美術的知識は殆どありませんでした。
学んで影響を受けてしまうのも嫌だし。
…とはいっても、普通に美術館とかは好きなので、当然多くの芸術家が俺という一個人の価値観に影響を与えているのでしょうが、自主的に誰に似たタッチで描こうとかはありません。
ですから、顧問が何を言っているのか俺には分からないし、彼的にはそこがいいらしいので、変えるつもりは当時からあまりありませんでした。
そもそも、俺の絵を攻撃的だとか評価するのは顧問くらいなもので、部員や他の観覧者などの口からはそんなこと一言も聞いたことがないため、気にしてもいないのです。
評価は人それぞれです。
同じものを見て何と発言するかで、その人のこれまでの人生が見えたりします。
更に、“俺”という個人を知っているか否かによっても、また大幅に評価は変化します。
だから俺は、正直な話、知人からもらう評価はあまり重要視していなかったりするのです。
そこがまた面白いところではあるけれど。
俺の作品を見てくれて、何と発言するかによって、俺は相手のこれまでの人生観と価値観を視ます。
割と顕著です。おもしろいものです。
「絵が動いたりしたら、面白いよね」
手元の本を眺めていた由生は、そう言って顔を上げました。
その意見には、流石に賛同しかねたものです。
「そうかな? …俺は、あんまり好きじゃないけどな」
「何で?」
「絵が変化したら、怖いし気持ち悪いじゃん」
せっかく額縁の中に捕まえた小鳥を空に返したくはないものです。
俺の言葉に、由生はまた苦笑しました。
「怖がりだなあ、ヒロは」
「だって嫌だよ。…まあ、変じていくものも、いい所はたくさんあるけどね。でも永遠とかもいいじゃない。俺は変わらない方が好き」
「ヒロが俺の制服姿を描いてくれれば、僕元気になるかも」
「あはは。そうなったりしてな。今度やってみるか。じゃあ、今度スケッチブック持ってくるから、由生を描こうっと」
「え…。いやでも、ヒロの絵はすごく好きなんだけど、モデルって何となく恥ずかしいからさ…。あと結構疲れるし…」
「ビックリするくらい体力勝負だよ、モデル」
「だよね」
「由生で一番描きやすいのは、やっぱ爆睡してる時だな。あんま寝相悪くもないしね。見舞いに来て寝てると人形っぽい」
「え…! 寝顔なんて描かないでよ!?」
「あ…。うそ、悪い。結構描いたかも」
「プライバシーの侵害だー!」
夢物語から始まって、そんなことを話し合いました。
ぎゃあぎゃあと珍しく焦っている由生の反応があんまりハイにならないうちに、どうどうと落ち着けて、今度証拠品を持ってくるからチェックしてもらうという話になってその日は終わったのです。
ふと腕時計を見ると、三時近くになっていました。
俺は席を立ち、由生を振り返ります。
「お茶にしようか。下のスタバ行ってくるよ。何がいい?」
「ありがとう。何か甘いもの」
「温かいのと冷たいのは?」
「温かいのかな」
「OK。…じゃ、待ってて」
「うん。行ってらっしゃい。カード使う?」
「いや、いいよ」
財布を持って病室を後にしました。
大病院なので、一階にあるフードエリアは半端なく店揃えが良く、カフェやらファストコーヒー系やらファミレスやら、案外何でも揃っています。
でも、例え揃っていても、あまり出歩くことを良しとされない由生にとっては滅多に来ない場所です。
本人は余裕らしいのですが、やっぱり周りが止めることは仕方がありません。
そして、少しベッドを離れると廊下入口のナースステーションで「何処へ行っていたのだ?」と度々聞かれれば、それは本人も自然と外出を控えます。
他人に心配されてそれを無視できる程、彼はクールではないのです。
ですから、その分俺が動きます。
言葉での表現力がないので馬鹿みたいな表現になりますが、俺は王子を守る騎士のような由生と自分の関係を気に入っていました。
日が暮れてくると同時に、名残惜しいが俺は由生の病室を出ました。
そしてその晩、夕食を食べ終わった後の時間に、部屋の机で絵を描くことにしました。
丁度、雑記用のスケッチブックが残り少なかったので、部屋の端にある程度溜めている新しいスケッチブックの中から大きめのものを一冊取り、表紙を開きます。
頭の一ページを飛ばすのは俺の癖のようなもので、最初の一ページの右下に今日の日付だけを付け、二ページ目の白紙を机の上に鎮座させます。
椅子に座り、雑記用の鉛筆をしばらく弄っていましたが、やがて取りかかることにしました。
人物画の練習として、俺はよく由生を描きます。
描き慣れていると言ってもいい。
だから、鉛筆は恙なく進んでいきました。
左手で頬杖をつきながら、躊躇いもなく線を足していく。
…由生が、もし普通に学校に来ていたら、彼は一体どんな生徒だっただろう。
誰と友達になっただろう。
当然、学校の授業は遅れっぱなしだけど、決して馬鹿ではないから、最初から普通に授業を受けていれば、たぶん俺たちと同じ特選クラスだったんじゃないでしょうか。
そうすれば、例え何かあっても俺が面倒を見られるし。
…ああ、いや。そうなっていない設定での想像ですから、面倒を見る必要なんて無いのか。
どうも彼が健全な姿というのは想像が付かなくて困ってしまいます。
仮に由生が通学するとなると、友達として打って付けな相手を探すため、俺は頭の中でクラスメイトの顔を並べました。
「…守田とかかなあ」
ぽつりと無意識に呟きます。
守田というのは俺のクラスのリーダー格の男です。
明るくていい奴です。
これといってすぐに短所が思いつかないくらいには。
文武両道で面倒見がよく、人からよくよく好かれます。
HR委員もあいつですから、由生のような、どちらかといえば気弱な生徒がクラスにいたら担任にも頼まれるだろうし、性格からいっても進んで面倒を見るでしょう。
何度か顔も合わせているはずですし、あいつだったらぴったりかもしれません。
「んー…。でも、ちょっと守田は元気過ぎるかもしれないな。結構口も悪いし…」
独りごちて、考えを改めます。
良くも悪くも元気でノリが良い奴だから、由生の周りにはあまりいないタイプで驚くかもしれません。
だったら、クラスメイトの犬伏とかの方が返っていいのかもしれません。
あいつの方が面倒見という点では尚良さそうだと思うし、読書好きでいつも休み時間とか必要がない限り一人で本を読んでいたりするし、そのくせ人見知りはあんまりせず…。
本好き同士で話が合うかもしれません。
…などと、そこまで考えていてはたりと我に返りました。
所詮想像だ。
何を真面目に、「if」の話で由生の友達のことを考えているのか…。
「…あいつの制服、埃被ってんじゃないかな」
自分の馬鹿さ加減に苦笑して、無意識だったスケッチブックに意識を戻しました。
いつの間にか、自動描画をしていた絵はできあがりつつありました。
いつか病室のベッドで本を読んでいた由生をスケッチしたことがありましたが、その服と背景を制服と教室にし、窓辺に立つ彼の姿を描いていました。
白黒の濃淡で描写された雑記スケッチは、ぼんやりとした輪郭を持っていたが、なかなか気に入ったのが正直なところです。
「…うし。こんなもんかなー」
鉛筆をペン差しに戻し、とんとんとスケッチブックを無意味に立てて机を叩きます。
何かに出展するなら下書きくらいはするが、雑記如き、基本的に一発描きなので、消しカスも一切出ません。
俺のちょっとした自慢です。
…今度病院に行く時、持っていこう。
由生に見せてやれば喜んでくれそうだ。
スケッチブックを閉じ、机端のブックトラックに置いて、風呂に入りに部屋を出ました。
落書きが仕上がってから一週間後くらいでしょうか。
土曜日に病室に行ってスケッチを見せると、由生は案の定喜んでくれました。
「おおー。すごーい!」
「あはは。らくがきだけどねー」
布団を挟んだ膝の上にスケッチブックを置いて、由生がそれを指先で撫でます。
「俺、制服着てるね」
「今度は私服にする?」
「え、本当に…!?」
「ちゃちゃっと描くよ。余裕」
「…どの私服がいいかな」
「この間買ったやつでいいんじゃない? カッコイイジャケット買ったじゃん」
「でもあれ冬用だから、もう季節的におかしいんじゃない?」
「じゃあ、今度買い物行くか?」
さらりと出た俺の言葉に、由生の顔がみるみる明るくなっていきます。
そわそわと落ち着き無く布団の上で左右の指を組み合わせて絡めました。
そんな仕草が愉快で、俺もついつい笑ってしまいます。
「いや、でも…。先生に聞かないとさ…」
「そりゃそうだけどさ、すぐそこの横断報道渡った先にあるじゃん、服ある店。…まあ、専門店って感じじゃないしブランド店でもないけど、そこならいいんじゃない?…っていうか、駄目って言われたことないでしょ、ここから駅前くらいなら」
由生が入院しているこの病院は、大学病院です。
しかも、そんじょそこらの大学病院とは訳が違う。
国…というわけではないのですが、北は北海道南は沖縄の地方自治体が協力して設立した団体が運営しており、実際隣接している大学の方では毎年各都道府県から二名ずつ、優秀者を基本学費無料で推薦枠として医学部に入れるようになっているらしい。
敷地はかなり広く、病院やそれに不随する建物が建ち並んで渡り廊下で繋がっている他、レストラン街、スーパー、服屋、郵便局、コンビニ、ヘリポートなど、都心の病院なんかより田舎な分よっぽどあります。
勿論、敷地外の周辺もそれなりに栄えていました。
近くの元国鉄の駅名がこの病院の名前になる程度には大きい。
そして、そんな駅と病院の正面玄関とはあまり離れておらず、徒歩十五分か二十分といったところでした。
この程度の距離であれば、外出禁止なんてことはあまり無い。
それは由生が一番良く知っているはずでした。
だが、彼は照れ臭そうに笑い、今さっき告げた理由を口にします。
「でも、ほら…。期待して、駄目って言われたら哀しいじゃん。だから、まずは“駄目”って思っておいた方がいいだろ?」
「……」
そんなことを、哀しげに…ではなく、照れ臭そうに笑いながら言い、俺は笑顔を引っ込めてしまいました。
我慢とか自虐的とかな笑みでは一切ありません。
もうそんな浅い場所に、由生はいないのです。
叶うだけでなく、望むこと自体が、実は幸せで強欲なことだと無意識に学んでしまっているのでしょう。
そう思うと俺は哀しくなりかけますが、本人が哀しくないのなら、俺が哀しくなったってそれは同情です。
随分前にそれは止めると決めたから、俺は再度笑みました。
しかし脳天気に笑い飛ばすのは無理だったので、微笑で。
「駄目だったら、通販って手もあるだろ。春物は売ってる時期短いぞー?」
「ぱ、パソコン取ってパソコン!」
「どーこに置いたっけなー?」
「ちょ…戸棚の中って知ってるだろ…!」
慌て出す由生の声をからかいながら、たらたらとわざとゆっくりノートパソコンを戸棚から取りだし、サイドテーブルへ置きます。
コンセント入れてやって電源ボタンを押した段階で放置し、暫くはソファでスマフォを弄っていましたが、滅多にパソコンなど使わないせいで…しかも服の買い物なんて相当幅広いジャンル見ようとしてるわけですし…当然、WEB内で迷子になったようでした。
このご時世でこの年齢で、日常ネットすら弄らないというのだから驚きですが、“ハイテクよりもアナログが好き”というその好み自体、由生を少年の世界に留めている要因の一つであるから、俺は返っていいと思っています。
あんまり多くの楽しみを知っても、できないんじゃ返って辛いだけだと思いますし。
だったら知らない方がいいでしょうから、彼のご両親もネットをあまり推奨しないのでしょう。
「どこがいいか分かんない…」
「どれ。じゃあ俺がよく行くブランド見る?」
「やってー」
テーブルの上を、由生がパソコンこっちに押し退けます。
ソファを立って、傍まで行き、横からノートパソコンへ手を伸ばします。
カタカタとボードを打つ俺の指先を、妙味深そうにいつも由生は覗きます。
「ヒロ、打つの早いね」
「そう? 普通だよ」
「…パソコンって目が痛くなるから苦手だ」
両手の平で左右の目を擦りながら、小さくぼやきました。
…確かに、俺もパソコン始めた頃は苦手だったかもしれないと、思い起こした。
でも、それはもう本当に随分前だ。
小学生とかレベル。
例えば年齢が一緒でも、由生と俺やその他の同級生の間には、このように十年程度の差があるというわけです。
こんな表現は失礼でしょうが、小さな子どもを相手にしているような感覚が生じます。
「黒がカッコイイかな」
「あんまり薄着は止めた方がいいと思うよ」
「じゃあどれがいいかな」
「自分で決めなさい、自分で」
「えー」
間延びした声で批難するも、由生は一晩かけて服を選んだようでした。
後日、彼が選び、俺がGOサインを出した洋服が病室に届きましたが、それよりも先に主治医の外出許可が出て、学校にお情け程度に行ってもいいということに彼は狂喜乱舞していました。
取り敢えず一日という話でした。
学校はどうかとご両親は主張しましたが、由生が断固行きたいというので、俺は彼の両親からくれぐれも頼みますと依頼をされました。
登校日数日前に担任にその旨を伝え、斯くしてその日はやってきました。
俺の登校時間は早い方でもなければ遅い方でもありませんが、由生のいる関係上、その日は随分速い時間帯に登校しました。
由生は勿論運転免許を持っていませんが、車と運転手を持っています。
俺はそれに便乗し、一緒に登校しました。
早朝の学校は殆ど人気も無く、駐車場で車から降り、校門をくぐって校舎がある坂の上へと、短いですが歩きます。
埃を被っているだろうと予想した彼の制服は、とんでもない、新品のように綺麗でした。
パジャマや私服ではそんなこともないのですが、小柄なせいもあって、制服姿だと彼は一年生に見えます。
生憎の雨でした。
傘を差しながら、俺たちは歩きました。
どうやら由生は雨男のようだ…などと、内心思っていました。
「いきなり教室で本当に大丈夫?」
「大丈夫!」
俺の質問に、鼻息荒く由生は答えます。
…普通、彼のように何らかの事情があって不登校の場合、ライフルームというそういう生徒専用の教室が用意されているので、まずはそっちでいいような気がしましたが、由生は断固として自分の教室に行くというのです。
あまり登校をしない由生とクラスメイトは、ちらちら会ったことはありますがほぼ初対面です。
それでも何故、彼が俺のいる成績重視の特選クラスの一組であるのかというと、それは彼がいざ登校した場合を考え、俺と同じクラスにするという学校側の配慮でした。
うちの学校は割とその辺柔軟です。
彼が登校する日は本当に希であるが故にできた処遇なのだと思います。
ですから、例え教室に入ったとしても俺が傍にいれば知り合いが一人もいないという状況にはなりませんが、それにしたって知らない奴に周囲を囲まれれば所在ないんじゃないかと俺なんかは心配でした。
「まあ、由生がいいならいいけど…。どちらにせよ、まずは職員室だから」
「ラジャー!」
「あー…。でもまだ先生来てないだろうなー…」
八時五十五分から始まるHRまで、まだ一時間近くあるのです。
おそらくうちの担任はまだ出勤していないでしょう。
朝練組はすでに活動してあるところもあるようで、体育館や第一・第二運動場などからざわざわとした人の気配はするのですが、目で確認できる生徒数はまだ殆どありません。
ですが、いざ他人に囲まれたら、たぶん彼はいっぱいいっぱいになるだろうと俺は予想しました。
「まずは、教室行くか。場所曖昧だろ。七時二十分くらいになったら職員室行こうな」
「うん」
「…」
言いながら、ナチュラルに隣を歩いていた由生が手を握ったので、俺は一瞬固まってしまいました。
買い物に出る時など、不安の為か慣れない為か、よく人の袖を掴んだりはする奴ですが、手を握られたのは久し振りでした。
それに、寝間着でなく制服姿でいる彼にそうされると、酷く違和感を覚えたのです。異常なことのように思えました。
おそらく、寝間着という庇護義務を刺激するものをまとっている時と、日常の代名詞のような制服をまとっている時では、受け手側として俺の視覚的感情が違ったのでしょう。
…流石にこれはないなと思い、割と冷静に、俺はその手をやんわり解きました。
「手を握るのは止めような」
「何で?」
「学校だから」
きょとんとした顔で由生はいましたが、俺はきっぱりと断言して笑顔を向けました。
“学校だから”というその魔法のフレーズによって、彼は大概のことは納得しました。
由生の日常が俺の非日常で、俺の日常は由生の非日常なのです。
「分からないことが多いだろうから、俺の傍にいるといいよ」
「分かった」
「俺のクラス、他と比べてもかなり落ち着いてるし、いい奴が多いから安心して」
「うん」
かなりテンション高めの状態の由生に軽い不安を覚えながら、俺は自分の教室がある昇降口へと入っていきました。
殆ど使われていない由生の下駄箱を彼が開けると、待ち望んでいましたとばかりに新品の上履きが出迎えました。
教室に入り、最初の暫くは上機嫌のままでどきどきわくわくという様子でしたが、次第に教室に数人、早い登校の奴が入ってくると、由生は露骨に様子を変えました。
楽しみだと、大丈夫だと言っていましたが、当然、緊張が出てきたのでしょう。
二十分になり、俺たちが揃って教室を出て職員室に行く頃には、クラスの半数の生徒が来ていましたから、なかなか賑やかになってしまい、あちこちから繰り返し由生のことを聞かれ、集まる視線に彼は挙動不審になりつつありました。
「…僕、やっぱり教室にいるの止めようかなぁ」
職員室に向かう廊下で、俺の影に隠れながら由生はぽつりと呟きました。
向かいから擦れ違う生徒が苦手なのか、俺の斜め後ろを歩きます。
肩越しに振り返り、俺は軽く息を吐きました。
「『大丈夫!』だったんじゃないのか?」
「…駄目かもしれない」
「早い早い」
「だってみんな知らない人だし…」
そんな当然のことを呟いて、由生は俯きました。
彼の中のイメージでは元気に挨拶をしてはきはきと自己紹介して、友達をたくさん作ろうというプランがあったらしいのですが、現実にはそう上手くはいきません。
人と知り合おう、親しくなろうと思えば、タイミングを計って社交性を見せつけなければなりませんが、培ってこなかった由生にそれは難しいでしょう。
「確かに、さっきはみんな凝視だったもんな。…一気にたくさん同級生見たから、驚いただけだって。一人一人紹介してやれば、友達になれるよ」
「…うん」
「失礼します」
職員室の前に到着し、俺はドアをノックしました。
ガラリと遠慮無くドアを開けると、HR前の職員室は教室同様にざわざわしつつも各々がてんでバラバラに動いていました。
担任の席へ顔を向けると、椅子に座っている担任の傍にクラスメイトが一人立っていました。
例の、欠点らしい欠点を持たないという守田です。
うちのクラスというか、学年全体のリーダー的存在の奴で、当然の如く彼はHR委員長も務めています。
彼が職員室にいる頻度は結構高いのです。
…教師どもをかき分け、由生を連れて担任の席へと向かいました。
「先生。おはようございます」
「ん…?」
「おう、小野寺、新田。おはよう」
声をかけると、担任はすぐに気付きましたが、俺に背を向けていた守田は一瞬遅れました。
しかし一歩退いて振り返ると、ちらりと後ろの由生を一瞬だけ見た後で、いつものように挨拶してくれました。
「おーっす、小野寺。おはー」
「おはよう、守田。…先生、言っていた通り、今日は新田が来られたので一応報告までに来ました」
「…おはようございます」
それまでと比べると小さな声で、由生が慌てて頭を下げました。
担任は朗らかに、いつもと比べるとやはり柔らかめの気遣いをしている声で彼に声をかけます。
「おはよう、新田。今日は来られて良かったな。親御さんからも連絡もらっていたから、待ってたぞ」
「は、はい。宜しくお願いします…」
「いきなり教室で大丈夫か?」
「あ…えっと…。……はい」
その辺はまだ迷っていたらしいのですが、結局自分の意見を主張できず、そのまま頷くだけに留まりました。
担任は頷いて、俺へ視線を向けます。
「細かいことは頼むぞ、小野寺」
「はい」
「新田は無理しないようにな」
「あ…はい」
「で、守田」
「ほいよ」
続けて守田の名前が呼ばれると、彼は待ってましたとばかりに妙な合いの手で話題に乗っかってきました。
担任が、由生の方を手でしめして軽い紹介をします。
「新田が今日学校来られたから。お前も、フォローしてやれよ」
「オッケー。りょーかいっすー」
「…」
教師相手の守田の返し方は由生の中では意外だったのか、一瞬僅かに驚いたように守田の方を見ました。
担任と守田の話は既に終わっていたのか、そのまま守田は俺たちへ爪先を向け、今度は一瞥などではなく直で由生を見た。
「新田、久し振り。おはよーな。俺のこと覚えてるか?」
「え? …あ、えっと」
びくっと肩を震わせ、おろおろと由生が狼狽を始めます。
…まあ、覚えていないだろうなと苦笑しました。
他の生徒たちからすればレアキャラである由生の顔はそれぞれが一発で覚えるものですが、逆に、大して親しくもない大人数である他の生徒達の顔を、彼が逐一覚えているはずもありません。
「覚えてないよなあ、由生。前に学校来たのだって二年の春頃だったもんなー?」
「あはは。そりゃそーか!」
「…え、あれ? …二年の時も同じクラスだった?」
「守田はそうだね。うちのクラス、あんまりクラス替えとか関係ないから、半分くらいはずっと同じ奴だよ」
「学校来られてよかったじゃん。これからずっと来られんの?」
守田は直球な奴です。
普通はちょっと遠慮するそんな質問も、さらりと一番始めに投げてみせました。
返ってその方が、壁を感じずに済んだのでしょう。由生は控えめにしつつも自分で返せました。
「えっと…。取り敢えず、今日一日だけ、許可が下りたから…」
「へー。そーなんだ、よかったじゃん。分からないことあったら俺とか小野寺に聞きまくれよな。何か俺らで注意することとかある?」
そこで守田は俺を見ました。
由生が、自分に集中する視線が苦手なことに気付いたのかもしれません。
何にせよ細かい洞察力の優れた奴です。
集団の頭としては打って付けな、兵隊をよく見る指導者タイプ。
うちの学校は付属大の関係からいって医療系を目指す奴が多いですが、俺は彼には教育者になって欲しいものだと常々思っています。
守田の問いに、俺は軽く首を振りました。
「いや、特には。…薬は飲んできたよな?」
「うん。それに、持ってるから…大丈夫」
「あ、でも勿論過度な運動は禁止。体育も休むから」
「おっし。了解。…ざわざわされんのも嫌だろ、新田。俺、先教室戻って連中にお前のこと伝えてくるから、小野寺と後から来いよな」
「え? あ、うん」
「んじゃー、先生。俺先行きやーす」
「おう。宜しくなー」
「じゃあな、新田。教室で」
名簿を持った片手を軽く挙げ、守田は一足先に職員室を出て行きました。
おそらく、教室に戻って登校してきたクラスメイトに由生が来たことと、彼の性格を考慮したフォローの一言でも添えてくれるのでしょう。
不安げな由生に、俺は一言かけました。
「大丈夫だよ。守田は巧いから」
「…? 何が?」
「人をいい方へ引っ張るのが」
俺が言うと、担任は苦笑して賛同してくれました。
教師陣からもああいうタイプがいるとやりやすいことは、子どもの目線から見ても分かります。
「由生も引っ張ってもらうといいよ」
「分かった。そうする」
思ったよりも明るく、由生はそう返事をしました。
どうやら彼の中で守田は“友達”になったようであったので、俺は小さく安堵して肩の荷が少し下りたような感じがしました。
教室に俺たちが戻る頃には、クラスメイトの自然は随分落ち着いていました。
教室を出る頃と違って、相当に自然な空気になっているのを見て、ほとほと俺は守田の手腕に感心したものです。
HR終了から一限目が始まる間に、窓から吹き込んできた風に興味を持った由生が窓枠に両手をかけて外を眺めました。
うちの学校は山の中腹にあるので、見晴らしという点ではなかなかでした。
雨でなければもっと気持ちいいでしょうが、その雨も今は随分小雨になり、雲はひいて天気雨の状態でした。
「気持ちいいなー」
「坂の上にあるからね。風が上ってくるんだよ」
「でも、夏とか蒸しまくるんだぜ」
窓際に立つ由生の隣で、守田が窓枠に片手をかけて笑いかけました。
「そうなんだ…。暑い?」
「死ぬよな、小野寺?」
「死ぬねー」
山だから涼しいだろうなどという安易な想像は止めていただきたい。
山といっても標高としては低く、校舎はその中腹にあるのです。
周りにこれといって川もなければ海もない。
下部にある町でたまった熱気が、上に上ってくるのです。
「クーラーはあるんだけど、根本職員室で牛耳られてっからさー。いじれねーの。限界値二十度」
「そうそう。今時、夏場の体育帰りに二十度とかさ…「馬鹿だよなあー」」
俺と守田の声がかぶり、そろってうんうんと頷く。
その様子に、由生は吹き出した。
守田の気遣いがきいたのか、その一日だけでも由生は度胸を出せば自分から喋りかけられるくらいの相手を数人見つけることができました。
その日、俺は理由を告げて部活を休み、由生と帰りました。
送迎の車は呼びましたが、学校の駐車場ではなく、学校の坂を下りた所にあるファーストフード店で飲み物を買い、更にその横にある本屋で少しの買い物をしてから呼びました。
由生は始終明るく、特に発作も起きず、本当に楽しかった。
家に帰り、楽しかった記憶を早速留めておこうと、スケッチブックを開いた時に、すっかり忘れていましたが、以前描いた教室と制服姿の由生の絵が視界に飛び込んできて、思わず小さく笑いました。
“すごいぞ。現実になった。”
半分皮肉、半分本気で、俺はそう思いました。
偶然とはいえ、このタイミングの良さは魔法のようでした。
…ええ。
魔法のようでした――。
それから、奇跡的なことに、由生が体調の良い日々が続きました。
勿論食事の制限や薬、運動禁止令など様々な制限付きではありましたが、一週間に一度くらいの頻度で学校に登校するようになり、既に由生の顔を見るだけで物珍しい顔をするような生徒もいなくなりました。
由生の両親は心配そうでしたが、主治医は同級生との交友を推奨しており、由生自身は相変わらず非日常である学校を楽しんでいるようでした。
俺には美術部の方で絵や作品の提出義務がありましたが、由生がいる限り、題材には困りませんでした。
まさしく絵に描いたように輝きの中で動く彼は、素直に魅力的だったので。
楽しいことがあれば、俺は家に帰って彼を描きました。
俺が部活の時は、由生もよく部室に付いてくるようになりました。
顧問が許諾し、部長も許諾し、加えて美術部はかなりの個人主義者ぞろいなので、一定期間に作品を出して評論会をする時以外は、完全に出入りも自由だし美術室への来る来ないも自由でしたから、その点かなり融通が利きました。
「…ねえ、ヒロ。守田くんって優しいね」
由生は、守田が非常に気に入ったようでした。
俺といる時間が勿論多かったのですが、守田によく懐いていました。
大きなキャンバスに、正面の椅子に座っている彼のスケッチを取りながら、必然的に棒読みになってしまう声で俺は返しました。
「そうだね…。守田はいい奴だよ」
「あとカッコイイよね。テレビ出てる俳優さんみたい。ドラマとか出られそう」
「あー、うん。カットモデルとかしてるらしいし、ぶらついてて雑誌に載ったことも何度かあるみたいだよ。見たことあるし」
「今度遊ぼうねって言ってくれたんだ。でもバスケが忙しいんだって」
「だろうねえ」
「守田くんね、“スリーポインター”なんだって。“ふぇーどあうぇい”っていうすごいのができるんだって。ヒロ知ってる?」
「知ってるよ。うちのバスケ部の名物だし」
「それって何?」
「守田は左右もできちゃうらしいけど…。バスケの技で、こう…。ジャンプシュートの時に敵に邪魔されないように後ろにジャンプしながらするシュートっていうか…」
話題についつい乗ってしまい、俺が鉛筆持つ右手共々両手を挙げつつ、微妙に重心後ろにかけて椅子の上で背を反らし、マネしてみせます。
バスケにはあまり詳しくないが、それが難しいシュートで、更にそれをスリーポイント範囲からやってのけるのは相当珍しいのだといつか聞いたことがありました。
すると、更に俺のマネをして、由生は両手を挙げて俺と同じように椅子の上で背を反るように重心を後ろに傾けました。
その様子にそのまま背中から転びそうな予感がして、はたと我に返ります。
「…て、こらこら。動くなよ。戻って戻って」
「もー飽きたよー」
緊張の糸が切れたのか、由生はだらりと両腕を下げて目を伏せました。
…困ってしまって、俺は何とか彼を宥めようと鉛筆を指揮棒のように振って見せました。
「終わったらジュース奢ってやるから。次のコンクールまで何とか付き合ってくれよ」
「だって、ヒロ描いてる時はあんまり喋ってくれない。…上の空だしさ」
思ったよりも、由生の声は沈んでいました。
単純に疲れただけだと思っていた俺は少し意外に思いつつ、さっきよりも多少本腰を入れて彼を宥めにかかりました。
確かに、俺は絵を描いている時は普段よりは当然無口になり、喋ったとしても棒読みが多くなります。
仕方がありません。集中していますから。
自分でそう思うのですから、他人から見れば更に顕著でしょう。
「あ…ごめん…。やっぱりついつい無口になっちゃうよな」
「…うん」
「ごめんて。拗ねるなよ」
「拗ねてないけど疲れたからもうやだ…」
ふて腐れた様子で由生が呟きます。
…まずいなあ。
ここでモデルを嫌がられてしまっては、絵の完成はできません。
例えポーズが一緒でも、一見表情が同じに見えても、モデルのその日の機嫌は相当に絵に出てきます。不思議なものです。
彼にはいつも上機嫌でいて欲しいものです。機嫌の良い時の彼が欲しいので。
俺は焦りを感じ、その日は鉛筆を置きました。
それじゃあ帰ろうかと伝えると、彼の機嫌はすぐに戻ったようで、俺は安堵しました。
疲れから、臍を曲げてしまっただけのようでした。
これからは、疲れて嫌になるぎりぎりの時間を計測しながら頼まなければならないでしょう。
校舎を出ると、その日もやっぱり雨が降っていました。
雨男認定の由生は傘を持ち、俺は鞄の中から折りたたみ傘を取りだした所で、廊下の奥から数人の生徒の足音が聞こえてきました。
そしてその中の一人に、守田がいました。
その時、どうしてなのか分かりませんが、俺は彼に声をかけませんでした。
向こうも部活の友達といるようで俺たちに気付いていなさそうな様子でしたし、そのまま帰ろうと思いました。
しかし、彼の声は非常に明るいので、よく通るのです。
彼も一種少年の輝きが強い奴ですから。
その声に、由生が気付きました。
「あ、守田くんだ」
「…ああ。本当だ」
一瞥してすぐに嬉しそうに振り返り、そう言います。
俺は彼に頷いて、さも今気付いた風を装って同じように振り返りました。
あっちが俺たちに気付いたと同時に、横で由生が手を振ります。
気遣いのできる男である守田は、当然それまで一緒にいた部活の連中と別れると、小走りでこっちへやってきました。
「よう、新田、小野寺。今帰りか? お前らにしては遅いんじゃないか?」
「俺だって部活はやってるんだって」
「今まで、ヒロが絵を描いてたから。俺、モデルなんだ」
「へー。すげーじゃん。小野寺の絵とかマジでキレーだもんなー……って、雨かよ!?」
話ながら昇降口を出たところで、守田が声を上げて灰色の空を見ました。
…いくら部活をしているのが体育館内で校舎と渡り廊下があるとはいえ、ここまでの道中窓なんていくらでもあったろうに、どうやら彼は今まで空の模様は気にしていなかったようでした。
守田の反応に、隣に立っていた由生がぱっと顔を明るくさせたのが、別に視界に彼の顔を捉えたわけでもないのに分かりました。
「も、守田くんってさ、あの…」
「くっそ、予報曇りだろ、曇りー!」
「ぁ…の……」
由生のかけた声は小さすぎて、こんな近距離でも空を見ている守田の耳には届きませんでした。
そこで、由生はちらりと助けを求めるような目で俺を一瞥しました。
俺は、その段階で彼が何を言いたいのか、長年の付き合いから分かっていたはずでした。
守田が徒歩組なのか電車組なのか、あるいはチャリ組なのかを、おそらく俺に聞いて欲しかったのでしょう。
ですが、俺は疑問符を浮かべ、軽く首を傾げてみせました。
…何故そんなことをしたのか、自分でもその時は分かりかねましたが、あまり深く考える前に、とにかくそういう反応をしていたのです。
それから守田へ雑談を振りました。
「俺が朝見た天気予報は雨とか言ってたけど?」
「マジかよー」
「天気怪しいときは、昼休みにも一度見といた方がいいかもなー」
「でもさ、朝に傘持ってきてねーと既に手遅れじゃね?」
「降りそうなときは早めに部活切り上げるとか…」
「いやウチの部そんな自由度ねえし」
「…」
「あー…ッたく!」
由生は何か言いたげに左手の人差し指を右手で掴んで数秒間沈黙していましたが、守田が携帯を少しの間弄り、それをポケットにしまって鞄を持ち直し、腕を上げて頭の上でそれを傘代わりにして、今にも校門のバス停へ向けて駆け出そうというところで、とうとう口を開きました。
「あ、あの…!守田くん!」
「へ?」
「…」
余程勢い付けて言葉を口にしたのか、急に飛び出した由生の声に俺も守田も驚いて彼を見ました。
俺たちの視線に一歩後退しつつ、一歩のみで踏みとどまって由生はおそるおそるという調子で誘いを口にします。
「傘ないなら…その…。僕、家まで送るよ。車の迎えが来てるし…」
「え? …あ、マジで?」
守田は雨の中を飛び出すのを止め、傘代わりにしようとしていた鞄を下ろして由生へ向き直りました。
雨の中バス停でバスが車で待つなんて誰でも手間です。
守田が乗り気なのは目に見えて分かり、由生は表情を明るくして、やはり俺へ同意を求めるように一瞥しました。
俺は同じように彼を見てから、守田へ向きました。
「よかったじゃん、守田。乗せてもらえよ。雨だし、バスも混むだろ?」
「いいのか? 運んでくれんならすげー助かちゃうんだけど…。お前ら駅方面行くっけ? 遠回りさせちゃうと悪ぃじゃん」
「ううん、いいよ。大丈夫だから、下まで一緒に行こう。傘が無いなら僕のに入って」
「おーう、サンキュー。…あ、じゃあ俺傘持つわ」
急げば急ぐだけもたもたと手にした傘のつまみを押そうとしている由生の手から、守田はあっさりと傘を奪うと、昇降口先に出て傘を開き、右肩にかけていた鞄を邪魔にならないように左肩にかけ直しました。
「ほい」
ひょいと傘を持つ守田の右手が誘うように軽く上がり、空いた右のスペースへ、由生が嬉しそうに入り込みます。
歩き出した二人の後ろを、俺も付いていき雨の中へ踏み出しました。
「家の人迎えに来てくれたん?」
「ううん。運転手がいるから、その人が」
「運転手…!? 何だそれ!」
前を歩く二人の会話が、雨に途切れながら俺の所まで流れてきます。
俺はそれを見て聞いて、微笑しました。
けれどその時の俺の感情は微笑ましいのではなく、何だかとても面白くなかったはずでしたが…。
それでも、まるでそうするのが義務であるように、のんびりと微笑しながら二人を眺めて付いていきました。
家に帰ってからの俺の自己嫌悪といったらありませんでした。
こんなことは思いたくはなかったのですが、俺は確かに不快でした。
何に対して不快だったかと問われると、それは由生と守田が仲の良いことに対してで間違いはありません。
考えたら俺は、由生が俺以外と親しくしているところを見たことがなく、親しい友達がもっといれば彼も楽しいだろうにと願っていたことはあっても、現実にそれが何を招くかを考えたことはありませんでした。
ちょっと考えれば分かることでした。
人間は所詮人間で、時間も行動も心にも限界があります。
ある個人の関心の幅を限界100%とすれば、対象が増えれば増えるほど分け減っていくのは道理過ぎました。
由生のことは勿論嫌いではない。学校に行けて良かった。友達ができて良かったと思っています。
守田のことも勿論嫌いではない。彼は由生が馴染めるように配慮をしてくれた。いい奴なんです。
…それでも、俺はこうして不愉快になっている。
好意と悪意と喜びと嫉みが、手を繋ぎ輪をつくっている。
何て酷い奴なんだろう。
そうは思いませんか?
よく考えて。よくイメージしていただきたい。
想像がつくだろうか。
どろどろとした粘度の高い沼のようなこの感情。
思わず過呼吸にでもなりそうな自身に対する嫌悪感。
どくどくと脈打つ心臓が速まる。
…俺は、自らを騙すように、その晩由生と守田が雨の中帰る後ろ姿をスケッチブックへ描きました。
俺にとってこれは、“喜ぶべき風景”である。
全く嫌なものではない。だから絵に遺す。そして由生に見せる。
彼は喜ぶだろう。
そして、俺はそんな彼を見て喜ぶだろう。いつものように。
そう思いながら、描きました。
次の休日、由生の母親に呼び止められたのは病院前の横断歩道でした。
手渡した守田とのスケッチがすっかり気に入り、後で守田に見せるのだとはしゃいでいた彼に同調する振りをして内心落ち込んでいましたから、彼女は病室から正面玄関までの何度かを呼び止めたらしいのですが、その一声にすぐに足を止めることはできなかったらしいのです。
由生の母親に声をかけられ、俺は病院傍にあるカフェに入りました。
彼女が俺を病室外で呼び止めることは希でした。大体は病室で話しますから。
おそらく、由生には聞かれたくない内容なのだろうと察しはつきました。
体調が悪化したのかと血の気が引きましたが、彼女の口から出てきたのはそういったこととは少し離れた内容でした。
「ごめんなさいね、弘くん。ちょっと聞きたいのだけど…。今日、由生に渡していた絵にもう一人、クラスのお友達?…が、描かれていたんでしょう?」
「ああ…はい。守田ですね」
「そう、その守田君だけど…。その、どんな子なのかしら…」
「どんな子?」
「由生は最近その子と友達になったみたいでよく話に出てくるのだけど、私はその子を見たこともないしよく知らないから…。その…危ない子ではないわよね? 何でもバスケットをやっているというから、ちょっとヤンチャな子なんじゃないかと思って少しだけ心配で…」
彼女の話は、聞き慣れないクラスメイトの“守田”がどのような人物なのか、不良なのか良い奴なのかという話でした。
確かに、病弱な息子が学校で勝手に作ってくる友達の名前というのは心配なものがあるのでしょう。
バスケ部というだけで不良のイメージがついて回るところには失笑しかけましたが、俺なんかのように美術部なんて根暗で地味げな部活と比べると、新田家のような所謂温和しめのセレブリティな階層の人間からすれば、荒々しいイメージがあるのかもしれません。
おそらく頭の中にある守田のイメージは、長身で肩幅があり、テレビのニュースで時折見るようなバスケ選手なのでしょう。
実際の守田を見れば、そんなイメージはすぐに消し飛ぶでしょうに。
同年代もそうですが、彼の年上の女性受けが彼は特段に良いのですから。
奇麗事を言うつもりはありません。容姿が良いことは、特技であり間違いなく財産の一つです。容姿がいいだけで、半数の人間が好感を持ちますから。
けれど、話を聞くだけでは不安は拭えないのは当然で、今から俺が話すことによって彼女の中の“守田”のイメージを形成できます。
「…そうですね」
俺は、そこで一瞬、考えてしまいました。
守田はいい奴です…が、ここで悪意をもって彼を紹介することもできます。
そうすれば、少なくとも彼女は俺の傭兵となり、より強固な城の門番となるでしょう。
女は心配性ですから、今まで以上に城門の錠前を厳重なものにするはずです。
…けれど、俺にはそれができませんでした。
俺の中の良心がそれを許さなかったのです。
これを後々後悔しますが、少なくとも今は、俺の中の感情の沼は粘土がまだまだ薄く、嘘八百を並べる程までに由生への執着を感じていたわけでもなければ、守田へ対する嫉妬もそこまでではありませんでしたし、更に俺自身、守田を不良とイメージしているのなら、それを払拭したいくらいに彼へ友情を感じていました。
一瞬つまりはしたものの、俺は彼女に告げます。
「守田は、おばさんが心配するような奴じゃありませんよ。確かにバスケ部ですけど、運動神経が良くてもマッチョってわけじゃありませんし、寧ろなかなか普通にいい男ですよ。うちはバスケ部が強豪なので、逆にバスケ部に不良はいませんし。礼儀から教わりますから。それに、守田は委員長としてうちのクラスをまとめています」
「委員長…?」
「はい。頭もいいし、人望もありますよ。現に俺も好きですし。…それに、由生がクラスに馴染めるように配慮してくれていますから、俺もかなり助かっています。由生が懐いているのはその関係ですよ」
俺がそう言うと、彼女は露骨に肩を下ろして安堵の溜息を吐いた。
緊張気味だった空気が緩和する。
「あ…委員長さん…。そうなの。よかった…」
「心配ないと思いますよ」
「ええ、安心しました。…ほら。あの子の口から他の子の名前が出たことなんてあまり無かったから、ちょっと心配になっちゃって。調子に乗って危ないことをしていないかと…。学校のことは本当に弘くんにばかり頼ってしまっていて、ごめんなさいね。色々と気を遣ってくれてありがとう」
「いいえ」
「今度その守田くんって子にもご挨拶しなくちゃいけないわね。…あの子ってば、最近体調もいいし新しいお友達もできたし、本当に良かったわ。何か変わったことがあったら教えてちょうだいね」
「分かりました」
由生の母親は真面目にそんなことを言ってから、コーヒーカップに明るい色したグロスを引いた唇を寄せました。
俺は白く反射する桃色が好きではありません。
門番は門を開けることにしたようです。
俺はそれを歓迎すべきだと自分に言い聞かせ、店を出ました。




