第一話 目覚め
第一話 目覚め
一体何が起こったのか。私には理解が出来なかった。
突然起こった出来事に抵抗することが出来なかった。
愛しい人を巻き込んで、親しい人に蔑まれて。
奴はあざ笑うかのような表情を、私に向けた。
あの忌まわしきもの、滅ぶべき存在。
私をここへ追い立てた憎しみの象徴。
「ガハッ、ハ、ハ、ハア」
息が止まっていた苦しみからか、目が覚めた。胸を打つ、動悸が激しく感じる。上体を起こして、荒い呼吸を幾度か繰り返し、深呼吸をして、しばらくすると、ようやく落ち着く。
窓に掛けられたボロキレのようなカーテンの先に見える空は、まだ薄暗い。だが、もう少しすれば白々としてくることだろう。
中途半端な時に目が覚めたものだ。あまり好きになれない時間。だが、毎日のように、この時間で目が覚め、出来ることなら、もう少しだけ甘美な眠りの中に潜り込みたいと思うものの、そうすれば次に起きる時は、完全に陽が昇ってしまう。それでは、流石に寝すぎだ。
しょうがないが、起きるとするか。
ぬくもりの残るベットを恋しく思うあまり、ノロノロとした動作で、ベッドの縁に移動して、ゆっくりと腰を上げる。
思いッ切って伸びをすると、全身の血が脳に集まる感覚がして、軽い眩暈を起こす。よく覚えてはいないが悪い夢を見ていたようだ。寝間着が汗を吸って、少し、着心地が悪い。
この時期の朝はまだ冷え込むので、普段は汗ばむようなことはない。寝間着を脱いで床に投げ、篭に放り込んである下着を着込んで、椅子に掛けてあった、コートを纏う。
温かいシャワーでも浴びて汗を流したいとこだが、この時間では無理がある。諦めるしかない。行水と言う手段もあるが、冷たい思いをしてまでするほど気持ちが悪いわけではない。
何はともあれ、火の支度をするために表に出て、薪を用意する必要がある。ついでに朝の日課を済ませてしまおう。
小屋の外に集積されている薪を適当に持ち、暖炉の奥にある、灰を掛けておいた残り火をかき出し、くべておく。赤々とした残り火から、薪に火が付くことだろう。
近くの湧き水から、水を引いてある。木のトイから、ちょろちょろと流れ落ちる水を、素焼きの水瓶に溜める。
それを待つ間に、家庭菜園の手入れと、家畜の世話をしておく必要がある。菜園には、キャベツと菜っ葉が育っている。アスパラガスも頃合いの物がある。摘み取っておくとしよう。
収穫したキャベツについた青虫を摘まみ取り、放し飼いされている鶏たちに向けて撒いてやる。鶏達は、夢中でついばんでいる。
種をまいた畑に水瓶からバケツに移した水を柄杓で撒き、余計な草を摘む。草は一ヶ所に集積をしておく。放っておけば、そのうち腐り、堆肥代わりにもなる。
鶏たちに改めて餌と水をやる。ついでに本日の卵を収穫しておく。最後に、ロバの一家にキャベツのクズ葉と水をやれば朝の日課は、お終いだ。
私一人で生きていく分には、多くの物はいらないから、ささやかな範囲で、つつましい暮らしを心掛ければ仕事量も少なくて済む。
冷える空気から逃げる様に家の中に入る。暖炉に火は灯り、部屋の中は暖かくなっている。ホッと息を吐き、落ち着いたところで朝食の準備を始めるとしよう。
暖炉におかれた五徳とスタンドに、フライパンと水を入れた鍋を置く。
フライパンに油を引き、割った卵の中身を入れて焼く。
鍋の湯が沸いたら、千切ったキャベツの葉と冬に仕込んだ塩漬け肉の薄切りを仕込む。塩っ気が肉から出るから味付けはしない。葉が柔らかくなればキャベツのスープの出来上がりだ。
儀式的に軽く手を合わせ、昨日の夜に焼いた薄焼きのパンと共にベーコンエッグを食べる。塩スープで身体が温まる。朝食が食べられるというだけで、十分に幸せなのだ。
ここ、アラスカ州ジュノー復興村ダグラス島北西に取り残された古い拠点の中で私は一人、黙々と朝食を食べる。
これから行う私――アラム・スカトリスの仕事、生きるための狩猟と、殺すための駆除のため、身体の内にエネルギーを蓄える。
部屋着から仕事着に着替えるため、支度小屋に向かう。この拠点を見つけたのは本当に幸いだった。このご時世、廃屋、うち捨てられた小規模農場の跡地等は、幾らでも見受けられる。
しかし、大抵が使い物にならない場合が多い。長い年月のあいだ人が住まない管理をしていない建物や土地と言うのはそれほどに、朽ちて、荒れ果ててしまうものだ。
この場所に着いた時、家屋の寝所の椅子に座りながら白骨化していた、以前の持ち主の管理が行き届いていた結果なのだろう。多少小屋の壁や屋根が朽ち始めてはいたものの、十分に修理が可能な範囲であった。
先住者の亡骸を離れた裏山へ埋葬し、祈りを捧げた後、私は今現在住んでいる、五百坪程度の拠点を改めて整備し、辛く苦しい放浪の生活に終止符を打つことになった。
支度小屋は石の礎石の上から丸太の柱を組み、やや高床式となっている簡素な丸太小屋だ。小屋の中で道具の整備を行うこともあるため、多少雑然としているが、必要な道具は壁に取りだしやすいように掛けてある。
小さい窓から差す明かりは心許ないが、部屋を照らす明かりとしては十分だ。衣紋掛けに掛けてある狩猟用の衣服を外し、作業用の背もたれに引っ掛けて、今着ている普段着を脱ぎ、下着とシャツのみの姿となる。普段着はきちんと、衣紋掛けに掛け直す。
厚手のデニム生地に獣の皮を縫い付けたズボンをはき、裾は狩猟用長靴の中に詰め込むようにする。厚手の綿製のシャツの上から革のベストとジャケットを着る。
紙薬莢を入れた小革包が取り付けられたベルト、背嚢を背負い、短剣を佩き、狩猟用のライフルを肩に掛ける。そして最後に、深
緑色の、使い古した鳥打帽を被る。
さあ、準備は整った。生きるために、そして、人類の生活を脅かす生き物達を排除するための仕事に向かおう。
拠点の貧相な木柵に設けられた粗末な門を潜り、空堀りに掛けられた丸太と板を組み合わせ、柵に立てかけられた簡素な橋を渡し直した後、さっさと渡り、再び橋を外し堀の中に立てかける。
目の前に広がる深い森へといつもと変わらずに歩を進める。通い慣れた場所なのだ。だが、油断をすることは出来ない。この場所で狩猟と駆除を始めて五年は経つが、いまだに対処すべき生き物達は数多くいる。
ダグラス島はジュノー復興村に接する唯一の島であり、西に点在する海に浮かぶ島々の生き物が、流れつく最後の島と言って良い。
島と島との間にできる浅瀬から、縄張り争いに敗れたものや、他の種との生存争いに敗れたもの、新たな餌を求め彷徨ったもの、様々な生き物がここに集まって来る。
この島より先は、先時代よりもかなりその範囲を縮めた人の住む領域になる。だが、今の彼ら--野生の生き物達は畏れることなく躊躇なく人の住む領域へ足を踏み入れる。私はそれを少しでも阻止する一員として、この島で狩猟を続けている。
ヘラジカや灰色熊、狼、様々な小動物に鳥たち。島沿いの海辺には海獣が集まり、陽に当たることも多い。以前の地球上では絶滅を危惧されていたという生態系も、かなり回復をしている。
皮肉なことだが、人類の大幅な減少によりもたらされた結果だ。まあ、それとは別に、彼らも又、新たなる脅威との戦いに巻き込まれているのだ。生きると言うことは、そう上手くいくとは限らない。
樹木の枝を短剣で払いつつ、私が踏みしめた道なき道を進む。進む道はその都度違うため、払われた枝や植物は、そのうち勝手に、生い茂ることだろう。
人の手が入らず、原生林のようになりつつある、広葉樹地帯と針葉樹地帯が入り混じる島の森は、自然淘汰の戦いに敗北した人を拒むように、深く、暗い。敗者へ、相容れぬ者に慈悲を掛ける程、自然は優しくはない。
私はそれでもかまわず、森の中へと進んでいく。ここに来て住み始めてから多くの獲物を狩り、拠点の蓄えはまだあると言って良い。
だが、獲れなくなる時期が、いつ来るのかは判らない。飢えれば動くこともままならなくなる。
そうすれば待つのは、椅子の背にもたれたまま白骨化していた、あの者と同じ末路なのだ。
幾年も誰にも気づかれることなく、自らの屍を晒し続ける。だが、それも、悪いことでは無いのかも知れない。何ものかに襲われ、無残な死を迎えるより、このヒトが生きることに困難な時代を苦しみもがきながら生き続けるよりも、ずっと幸せ事なのかも知れない。
――くだらないことを考えている場合ではないと自覚する。私の目の先に、一体の大型のヘラジカが見られる。平たくも、先が枝分かれした角を生やした雄鹿は、一頭で木の葉や若枝を食んでいる。こちらにはまだ気が付いていない。
単独でいると言うことは、若い個体か、縄張り争いに敗れた、いずれかであろう。角の大きさを見るとまだ若い雄鹿のようだ。その割には体つきは良い。三百キロは超えそうな感じのする良い獲物だ。
私は鹿を睨み続ける。捕えた獲物を逃すことはしたくない。もう少し先に行けば水飲み場となる小川がある。この鹿の目当てもそこだろう。鹿は葉を食むのを止め、ゆっくりと歩を踏み始める。
私も森に住む他の生き物と同じように、相手に気付かれることなく、慎重に、余計な音を立てることなく、周囲に紛れる様にして。
そう、私と言う人間を拒否し続ける、この森と一体化するかのように、そっと静かに、野生の鹿を追って行く。
小川に向けて首を下に曲げ、口を付け水を飲み始める鹿の首元に、銃の狙いを定め撃つ。銃声と共に硝煙が舞うなか、鹿から血が吹きバタリと倒れる。隠れた茂みからすっと立上り、小川へと歩み、冷たい水に浸かるように死んだ鹿を見る。
私も地球で生を育む生き物、手に文明の利器たる武器「銃」を持ち、身を隠して、気付かれないように攻撃をしなければ、君達、野生の動物とは真っ向から立ち向かえない、ひ弱な生き物だ。
私が生き残るため、無駄にはしないから、血肉となってくれたまえ。そう一言呟いてから、私は鹿の首筋に鈍い色をした使い込んだ短剣を深く突き刺した。
澄んだ小川の水は紅く染まって行く。鹿の動脈を切り裂いて流れ出る血を黙って見続ける。それは、今迄、牡鹿が生きていた証。
……そして、今は私の食糧となる、ただの肉の塊だ。