仮題「うみわたり」
雨が降った。雨が降っている。
降り出した雨には目もくれず、遠子は黒板の文字に集中していた。国語の先生はチョークを握っているときも相変わらず達筆で、書き順を追っていなければ読み解きの困難な箇所がところどころある。前後の記述から予測する手法は、初見の文学作品では使えない。木偏に、旁は卓。「棹」という字だ。ノートには漱石の小説の冒頭が、先生ほどではない、そこそこ綺麗な文字で書かれている。雨のせいで紙が湿気って鉛筆の滑りが悪かった。
夕立へ視線を送ったとして、窓は磨りガラス、その上には防炎の厚いカーテンが広げられている。雨の影さえ通さない。
どうして教室という場所は、日も差していないのにカーテンを閉め切ってしまうのか。教室は余計に暗い。遠子は窓際の席に移りたかった。暗くて湿っぽい、濁り固まった空気の中にいると、息が詰まりそうになる。
「とかくこの世は澄みにくい」
と、いうやつだ。
冷え込んだ昇降口で遠子は途方に暮れていた。
夕立に仄暗く濡れ染まった景色に、華やかな一角。傘立てには可愛らしい傘が並んでいる。色とりどりに、鮮やかに。
その中に、遠子の傘はなかった。
自分の傘が盗まれるなんて、遠子は生まれてこの方考えたことがなかった。傘に限らず金銭や自転車のサドルが盗まれた人や、まさに盗難が行われている現場も遠子は幾度となく見てきていた。けれどそれは。喫茶店の外の傘立てから他人の傘が引き抜かれるのを、ソファーに体を沈めてコーヒーを啜り、ジャズにでも浸りながらちらと覗き見るような。遠子とは無関係の出来事だった。
いくら待っても雨は降り止んでくれなくて、遠子は諦めてしまった。
屋根伝いの家路を急ぐ。
学校を出て、ひとしきり濡らされたところで雨が上がった。遠子は内心穏やかでなかった。今はもう雲間から青空も見える。灼けたアスファルトと、籠もった排気ガスと、それから雨が連れてきた空のにおいに街は満たされている。
本通りのアーケード商店街に入ると、行き交う人は皆閉じた傘を提げていて、その先端から雨雫を落として足跡を残していた。
照明を落とした店舗のショーウインドウの前で遠子の足が止まる。一面のガラスが鏡のように通りを映し込んでいた。その中に遠子の姿もある。
後ろは二つ縛り。前髪は目の上で切り揃えられていて、濡れてぺったりと額に張り付いている。夏のセーラー服もぐっしょりといていて、薄くキャミソールの線が浮き出ていた。胸元の紺色のリボンは形が崩れている。
ぬれねずみ、ぬれねずみ、……
遠子は頭の中で繰り返し呟いた。
人のいない脇道に入り、リボンを整える。うまくできたか、遠子にはわからなかった。
そのまま脇道を進み、海岸通りに抜け出る。商店街ほどではないにしても、こちらも人通りは多かった。
遠子は真っ直ぐ前を見て歩いた。靴も靴下も水浸しで気持ち悪かった。
夏は暑さを思い出し、勢いを取り戻した陽射しは強く、街や遠子の肌から雨の名残を取り払った。
遠子は海岸通りのアイス屋へ立ち寄った。夏の木曜日、彼女の数少ない楽しみだ。いつもなら木製調度の店内で舌鼓を打つのだけれど。店の外のメニューボードに目を落としながら、遠子はスカートの裾を握った。水が滴るほどではない。でも、この格好でお店の中は……。
溜め息がふたつ。
ふたつ? 遠子は横を見た。長靴とレインコートの子供が肩を落としていた。レインコートのフードを目深に被っていて表情は窺えないが、ともすれば子供の落胆は遠子より深いかもしれない。
「どうかしたん?」
あまりに暗い表情をしていたので、遠子は心配になった。親とはぐれたのかもしれない。「……ゅうえん」
足下に転がった声は、遠子にはうまく聞き取れなかった。
「なんて?」
「……十円たりんのよ」
子供は本当に大真面目にそう言った。遠子もまだ幼い頃、同じような経験をしたことがある。だから、その子供の気持ち、銅色の硬貨が一枚がたりない悲しさがわかった。
あー、やだやだ。勝手に物を与えると、子供から目を離した無責任な母親が後から登場して「勝手なことしないで!」「誘拐犯!」とか金切り声で叫ぶんだろうなー。
なんて。
「十円でええの?」
「うん?」
遠子は子供の手を引っ張って、アイス屋のドアを開けた。
アイス屋の道路向かいの波止場に、背もたれに「からさわ」と刷られた木製の年季の入ったベンチが置かれている。遠子が手の平で触ってみるとうっすら雨の冷たさが残ってはいたが、座る分には問題なさそうだった。
二人隣り合わせに座る。海岸には十数の船が泊まっていた。潮風は強く、遠子の前髪を遊ぶ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
いただきますをきちんと言って、紙の包みから出したモナカアイスをその子供はかじった。パリッと、気持ちのいい音を立ててモナカが割れた。遠子も一口目をつけようとして、留まった。
「なぁ、名前、なんて言うの?」
「あした」
「あした? どういう字を書くん?」
「あしたはあしただよ」
あしたはアイスに口を戻した。遠子もそれ以上の質問はやめ、アイスに専念することにした。モナカはやはり小気味好い音を立てた。大きな欠片に割れたモナカに、遠子は少し困った。モナカに挟まれたバニラアイスは程良い冷たさで歯に触れ、後に残らない優しい甘さが舌の上で溶けた。
「美味しいね、お姉ちゃん」
あしたは楽しげに、ベンチから投げた長靴の足の左右を交互にぱたぱたと振っている。遠子も真似をしてみるが、ローファーのつま先や踵が地面に擦ってしまう。それでも遠子はなんだか楽しかった。
けれど、楽しい時間とは長く続かないものなのだと、遠子は思い知る。
ぺとり。
紺色のスカートに、白いアイス。
遠子は丸めたティッシュをアイスの包みにしまった。スカートには白く、確かにそこに落ちたのだという跡が残っている。隣のあしたは今はもう足を振るのを止めて、指に付いたアイスを舐め取っていた。
遠子は努めて下を見ないようにした。いくら見つめたところでアイスの染みは消えはしないし、俯くと溢れてしまいそうだったからだ。後から後から湧き上がって度を超そうとしてくる感情を、その度に遠子は嚥下した。
海岸に寄せる波に、通った船舶の残す一際大きな波が交ざり、泊められている舟が上下に揺れた。風に吹かれた前髪も鬱陶しく、何度も、繰り返し揺れていた。遠子は真っ直ぐその光景を見ていた。碧の海に夕焼けの色が落ちていく様を見つめ続けていた。
「お姉ちゃん」
あしたが呼ぶ。遠子はあしたへ顔を向けられなかった。
「格好ええよ、お姉ちゃん」
そんなことないよ。
遠子は答えたかった。格好いいと思うあなたの理想に、私は応えられないよ。
けれど、喉元まで駆け上がってきては飲み下した激情に、遠子の喉はすっかり焼かれていて。固く結んだ唇は解けなくて。遠子はとにかく俯いてしまわないよう、愚直に背筋を伸ばしているしか、そうする他なかった。
「お姉ちゃんはどうしてそんなに強くいられるの? お洋服が汚れたらとっても悲しいのに、お姉ちゃんはずっと真っ直ぐ。どうしてそんなに格好ええの?」
「格好ようなんか、ない」
引き絞った声は情けなく震えていた。
「私は人の目が怖い。自分がどんなふうに見えとるか、ちゃんと普通に見えとるかわからんから。だから、人の目を、顔を見んのよ。私は人と向き合っとらん。真っ直ぐなんとは違う。こんな私のどこが格好ええのよ。私はちっとも、強くなんかない」
「格好ええよ」
あしたは断言した。子供の、ひたすらに疑わない口調で。
「お姉ちゃんが言うたんよ。『自分がどんなふうに見えとるか』」
立ち上がったあしたは遠子の目の前に立った。遠子にはフードの中がよく見えた。二つ縛りに、前髪は眉の上でぱっつんと揃えられている。
「お姉ちゃんは、格好よう、見えとるよ」
幼い頃の遠子に、あしたはとてもよく似ていた。
あしたは海に向かって歩き出した。顔がまたレインコートに隠される。
「あした?」
不安になった遠子は堪らず子供の名前を呼んだ。けれど、あしたの足は止まらなかった。
「このままじゃあダメだって、お姉ちゃんもわかとるよね。お姉ちゃん、人の目に自分が普通に見えとるかわからんけえ怖い言うた。でもな、その人の目に映りよるお姉ちゃんは、お姉ちゃんが決め込んだお姉ちゃんなんよ。自分が嫌うとる自分の姿を見られよると思い込んで、自分から普通以下の枠に押し込まれとる」
あしたは突堤の端に立ち、くるりと踵で回って遠子へ向き直った。
「見て。お姉ちゃんはこの街に根付いとって、一生ここから出られんと思いよるかもしれんけど」
もう半周回ったあしたの体が傾いたかと思うと、突堤の下へと落ちていった。遠子の視界にはレインコートの裾が一瞬残り、すぐに消えた。遠子は慌てて駆け寄った。突堤の端に膝をつき、海を覗き込む。
そこには、海に立つあしたがいた。
長靴の底はぴったり水面に張り付いているかのようで、小波に合わせてあしたは上下していた。
「見えとらんだけで、道はあるんよ」
突堤にしゃがみこんでいる遠子を見上げ、あしたは微笑んだ。
夕焼けと、来る夜とが混ざり合った不思議な色の空の下。レインコートをひるがえし、境界、あわいに染まった海をあしたがとうとうと歩いていく。小さな波を踏みならし、大きな波は軽々跳び越えて。夕日に焼けた空も海も次第に夜の帳に冷まされて、街灯が点いたころには、レインコートの子供の姿はすっかり見えなくなっていた。
商店街。照明を落とした店舗のショーウインドウの前で遠子の足が止まる。一面のガラスが鏡のように通りを映し込んでいた。その中に遠子の姿もある。
二つ縛りに、前髪は眉の上で緩い弧を描いて切り揃えられている。少女は困り顔で、ちょっと太めの眉をひそめていた。頬はほんのりと照れたように紅い。
まるで幼い子供みたいだと、遠子は思った。
前髪を切る前と切った後とでは、街はまったく別のものに見えた。眩し過ぎるくらいに明るくて、擦れ違う人の表情がよく見えた。前と比べて俯き気味になることも増えたのだけれど、案外、前髪の掛かっていない景色というのは心地の好いものだった。