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 夏の太陽の下で水と戯れ、秋の実りに感謝しながら大地に寝転び、冬の風に舞い散る雪の美しさに声を奪われ、春の訪れに緑の息吹を感じて歓声を上げた。

 季節の移ろいがそれほどまでに美しく、心を動かされるものであるとは、それまで知らなかった。彼らにとって自然とは自らの力の源であり、そう在って当然のものだったからだ。それらが牙を剥き、襲いかかることなどありえない。そこに、人と精霊との相容れない違いがあるのだ。

 人が自然に対して喜びの、恐れの、その意味と大切さを教えてくれたのは、その人だった。自然に宿る神や精霊に人が祈り、嘆き、歓喜する、その意味。それを知るだけで、世界は色鮮やかに姿を変えた。

 その人の言葉で、その人の存在がそこに在るだけで、何もかもが変わったような気がした。

 そうして過ぎて行く穏やかな時間以外に望むものなど、何もなかった。なのに、それだけでは足りなくて、持てる力の全てを捧げたいのだとねだれば、その人は困ったように笑った。

「……それは、どうかな。私は、そういうつもりであなたたちと関わったわけではないのだけど」

「でも、私たちはあんたのために力を使うのを躊躇うつもりはないわ。それは、駄目なこと?」

「駄目だとは言わないわ。でもね、本当に、私にはそんな力は必要ないの」

 この地は穏やかで、平和だから。生きて行くために、人の身に不相応な力など必要ない。人が本来持つべき力を凌駕する精霊の力を使ってまで為したいことなど、何もないのだから。

「じゃあ、せめて、言霊で私たちを縛って。あんたのため以外には力を振るうことができないように、あんたの持つその言霊で、私たちを眷属にして」

 躊躇うその人に、どうしてもして欲しいのだと詰め寄った。力を捧げることを望まれないのならば、せめて、その存在がある限りは付き従うことを誓いたかった。その言葉で、その声音で、名前という言霊を授けて欲しかった。

「わかったわ。あなたたちに、名前をつけてあげる。それで、いい?」

 何度となく重ねられた懇願に、折れたのはその人の方だった。苦笑しながらも、名前を授けて言霊で縛る誓約を交わすことを了承してくれた。その人の命がある限り、彼らが傍に在ることを許してくれた。

 名は言霊。名は縛り。それが、制約を捧げた相手から与えられたものであるのならば、それは彼らの存在そのものを支配する。

 精霊である彼らに、人から呼ばれるための明確な名はなかった。本質を顕す名は持ってはいるが、それだけのことだ。人は、彼らの名を呼ぶ術を持たないのだから、それはあってもなくても同じことだった。

 人の言葉で彼らの本質を置き換え、その人は優しい声で名を呼んだ。それは、彼らを縛り、使役するためのものではない。彼らの存在を護るための名であり、彼らが傍に在るための名だった。授けられた名を呼ばれるだけで、それは、至福の時だった。そうして、優しく穏やかに過ぎるときは、その人の命が終わるその時までゆっくりと積み重ねられていくのだと、信じて疑わなかった。

 けれど。

 別れは、突然にやって来た。

 人と精霊との時間の流れは違う。いずれ、永劫の別れの時が来るであろうことは、最初から知っていた。それでも、それほどまでに早くその時が訪れるとは、誰一人として考えていなかった。

 穏やかに過ぎて行くであろう時間を壊したのは、やはり、人の世の都合でしかなかった。

 俗世を離れ、その存在すら秘匿され、幽閉に近い状態で神域に閉じ込められて生きていただけのその人を、その存在を、都の人々は恐れた。何の力も持たず、何を望むわけでもなく、ただ、自然の理のもたらすままに穏やかに生きて行くことだけが望みだったその人を、咎人の血を引くというだけの理由で罪とした。生きていることさえ、生まれたことそのものが積みなのだと、何の根拠もなく決め付けた。その咎でさえ、陥れられた結果のものであったというのに。

「呼んで下さい……! 我らの名を! あなたのためであれば、我々は全ての力を捧げたとしても悔いはないのですから!」

 切り立った崖の上に追い詰められ、進むことも戻ることもできずに佇む影に向かい、声を限りに叫ぶ。狩りの獲物のように追い立てられ。血と汗と泥にまみれても尚、その姿は美しく聡明であり、その唇は穏やかな笑みを忘れてはいなかった。

 名を授けられ、その名の持つ言霊によって縛られた身では、彼の人が望まぬ限りは力を自在に振るうことができない。それを望んだのは自分たちであったけれど、彼女の危急のときにすら呼ばれないのであれば、何の意味も為さないのだということに初めて気づいた。

 そのことが悲しくて、悔しくて、そして、それ以上にこんなことを引き起こした人の世の理というものが憎かった。

 差し伸べた、手。たった一人のために捧げた、言霊に縛られる誓約。そのことを悔いるつもりはない。悔いるくらいなら、最初からそんなことは望まない。彼の人こそ、全てを捧げるに値する人であったことを疑ってはいない。けれど。

 この力を望まれないのであれば、彼の人の命を救うことも許されないのであれば、その誓約には意味などなかった。

「あなたが望むのなら、この国の全てを滅ぼしたとしてもかまわないのに……!!」

 血を吐くような叫びに、いつもと同じ、穏やかな笑みが返された。

「駄目よ」

 たった一言、そう、告げる。

 何故、と、声にならない嘆きが零れ落ちる。こんな結末を見るために、全てを捧げたわけではない。穏やかに笑って、死出の旅路に飛び込もうとする人を、何もできずに見送りたかったわけではないのだ。

 望んだのは、笑うあの人の傍に居ること。あの優しい声で、名前を呼ばれたかった。必要だと、そう言って欲しかった。笑ってくれるのなら、その声が聞こえるのなら、それでよかった。それだけで、よかったのだ。

 なのに、人が、それを奪う。

 幸福を、安らぎを、安寧を。ただ、そこに生を受けたという、ただそれだけの理由で。

 勝手に祈りを捧げておきながら、勝手にこちらの希望を奪い去る。そんな国など、滅びてしまえと思った。滅ぼしてもかまわなかった。あの人のいない世界など、失われたとしてもどうでもいいのだ。たとえ、それが国を守護する神を敵に回す大それたことであろうとも、授けられた名に懸けて命を削ることも厭わないのに。

「人に害を為すことに、あなたたちの力を使ってはいけないの。たとえ、一時の激情で為したことであったとしても、いずれ、そのことに傷つくのはあなたたち自身なのだから」

 そこまでも優しくて悲しいその言霊は、自らの命の終わりを目の前にしても、揺らぐことはなく。

「……愛してるわ」

 その先の言葉は、吹き抜ける風の音に紛れて聞こえなかった。唇だけが動いて、ひとつの名を刻む。

 聞こえない。何と呼んだのか、何を言ったのか、風の音に紛れて、何も。

 ……いや、知りたくなかった。

 その声が、その言葉が、最後だと思い知らされたくなかった。

「あ……っ」

 思わず、飛び出していた。自らを縛るはずの言霊の鎖を力任せに引きちぎり、その反動から来る痛みに眩暈すら覚えながらも空を駆ける。その命を繋ぎ止めたくて、失いたくなくて、そのためならば言霊に逆らう代償の苦痛など何も怖くなかった。

 目の前で、彼の人の身体が、ぐらりと揺れた。

 何をするのか、止める言葉を叫ぶ隙もなくその爪先が地を蹴り、激流の中にその身を躍らせる。

「あ……あっ、ああああああっ!!」

「嫌――……!!」

 水守の少女が、わが身の危険も省みずにその姿を追って流れの中へと姿を消す。けれど、彼女の支配下とは別の流れにある激流はその願いを撥ねつけ、何もかもを押し流して行った。

 伸ばした手も、迸った悲鳴も、何も、届かない。激流の中に消えた人は、二度とその姿を見せることはなかった。


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