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遠く、遠い、昔。
神や精霊と呼ばれる者たちが、今よりももっと人々の身近に在った頃。
彼らは、自由に生きていた。他の何者に縛られることもなく、ただ、自然の息吹と戯れて暮らした。それが、当たり前だった。人の世の時の流れは、彼らにとって関係のないものでしかない。自分たちには関わりのない場所で忙しなく流れていく人の世を眺めていることは、時間を持て余した時の楽しみのひとつでもあった。
人の世の移り変わりは、面白い。
時の流れとは無縁の彼らにとって、人の一生は一瞬のものだった。瞬く間に命の火を燃やし尽くして消えて行く人の生き様は、彼らにとって眩しくもあった。
だが、積極的に人と関わることはしない。人の祈りに応えて力を貸すことはたまにあったが、それは、ほとんどが気紛れによって為されるものであり、彼らにとっての人とは暇つぶしの材料に他ならなかった。
そうして気儘に過ごしていた、いつかの季節。退屈を持て余していた彼らは、彼らの運命を変える人と出会った。
彼らの生きてきた意味も、それから先の全ても、何もかも全てをまるごと塗り替えてしまったのは、たった一人の人との出会いだった。
その人と遭遇したのは、偶然のできごとにしか過ぎなかった。彼らも、その人も、近づこうという意図を持って出会ったわけではない。
その場所は、人の世では神域と呼ばれる森の近くだった。
もちろん、それは人の世での呼び方であって、精霊である彼らには関係のないものだ。それでも、髪の息吹を感じられるその場所は、彼らにとっても居心地のいい場所であったことに変わりはない。神が確かにそこにいることを、はっきりと感じさせる空気に満ちていたからだ。
人がその空気をどう感じているのかは、知らない。だが、その周辺が神域と呼ばれ、奥深いその場所には滅多に人が分け入ってこないことから考えると、畏敬の念を抱いているのは明らかだ。だから、その場所に人が現れることは稀だった。
それゆえに、だったのだろうか。
鬱蒼と生い茂る木々に紛れて近づいてきたその影に、すぐ傍に近づかれるまで気づかなかったのは。
何故気づくことができなかったのか、今でもわからない。今思えば、あれは、必然だったのかもしれない。あの人と、この力の全てを捧げてもひとかけらの後悔も抱かぬほどの魂と出会ったことが、ただの偶然であるはずがなかった。
その人は何の案内もなく、人が入れば迷うはずの森から出て来た。鬱蒼と茂る森は昼でも薄暗く、道を知る者でなければすぐに方向を見失う。だというのに、その人は迷うこともなく歩いて来たようで、たいして疲れた様子もなく、おまけに、森の中を歩くには不向きすぎる軽装をしていた。
森が開けたそこには、澄んだ水を湛えた湖があった。その湖は彼らのお気に入りの場所で、年頃の人間の姿を取っての水遊びは、さほど珍しいものでもなかった。
いきなり何の前触れもなく現れた人間に、仮初めに取った姿のまま精霊たちは固まった。
少年の姿を取る精霊がいち早く我に返り、仲間を庇うようにして咄嗟の警戒の構えを取ったが、相手の敵意のなさに次の行動をどう取るべきかを選びあぐね、やはり固まったままでいた。
「……やーだ、水音がするから何かと思えば、精霊の水遊びの場所だったのね」
邪魔をしてごめんなさいね、と、屈託のない笑顔で行って、その人は水辺に腰を下ろした。
拍子抜けした、と言ってもいい。
彼らがいることを訝しく思うでもなく、それが当然のことであるかのようにふるまい、そして、そのことを差して気にもしていない素振り。その上で敵意も何もなく、こちらを警戒する様子もまるでない。のんびりとした調子で水の中を覗き込み、小さな魚を見つけたと言っては嬉しそうな声を上げた。
一体、何の目的でここに来たのだろう。その場に漂う何とも言い難い微妙な空気に、彼らは困惑した。
そもそも、普通の人間に彼らの姿が見えるはずもない。
彼らはごく自然にそこに在るが、人々がその存在を感じることはできない。それでも、人々は彼らの存在を信じ、敬い、時に怒り、祈る。豊穣を。安寧を。それらの願いの全てを、彼らが叶えられるわけではない。彼らは神ではないし、持てる力には限りがある。そして、たとえ神であったとしても、人の世に過度に干渉することは不可能なのだ。
人の世は人のもの。精霊も神も、そこに無闇な干渉はしない。それが、決して犯してはならない自然界の規律。
そうは言っても、生来の彼らは好奇心が強い。突然神域に現れたその人に興味を惹かれるのは、当然の流れであったのかもしれない。彼ら精霊が人に関わることそのものは、決して罪ではない。人の世の流れに手を貸し、その行く末を動かすことが禁忌であるだけだ。
その人は、数日に一度、ふらりとその水辺に現れた。
いつ来る、という明確な決まりごとはなかった。二日続けて現れることもあれば、一週間ほど音沙汰がないこともあった。そして、ここに来て何をするというわけでもない。最初は、生きる糧として魚を取るのが目的なのかと思ったりもしたが、何日経ってもその気配はない。
ただ、水辺でぼんやりと時を過ごし、時折、魚にちょっかいを出して水と戯れる。彼らがその光景を見ていようが見ていまいが、その行動に変化はなかった。
不思議だった。
何者なのだろう、という疑問は、少なからずあった。
精霊の姿を見ることのできる者は、限られている。それは、選ばれた巫女の血統を受け継ぐ者であることが多い。神に捧げるための祭祀を司り、神々の声を聞く役目を務める者がそれに当たる。この場所は神域に近く、神職にある者が近隣に居を構えていることそのものは不思議なことではないし、そういう者たちがいることは知っている。だが、彼らは外出を制限されているのが常であったし、漏れ聞いた噂によれば、その人に該当する巫女は存在していなかった。
その人は、そういう現世のしがらみとは無縁に思えた。
けれど、神職とかかわりのない者だと断じてしまうには、その人の纏う気配は徒人にしては色がなさ過ぎた。俗世とはかけ離れた気配を身に纏いながら、それでいて、正式な巫女とは決して呼べないその存在の不確かさは不可思議なものであり、中途半端な印象を受けた。
お互いに存在を知っていながら無関心を装った日々は、どれだけ続いただろう。つかず離れずの距離を保ったまま、どれだけの時が過ぎただろう。
それは、最初の邂逅から、季節をふたつほど越えたくらいだったかもしれない。
ついに我慢しきれずにその人の前に舞い降りたのは、彼らの中での主格を勤める、少女の姿を持つ精霊だった。
火の属性を持ち、火の姫と呼ばれる彼女は彼らの中で最も気が短く、我の強い性質を持っていた。確実にこちらに気づいているのは明白なのに綺麗に無視をするその人に、苛立ちにも似た感情を覚えていたのは彼女だけではなかったが、そうやって行動に移したのは彼女が彼女であったがゆえだろう。
「ねえ、あんた、何者なの」
相変わらず、のんびりとした様子で水の中に遊ぶ魚を覗き込んでいたその人は、彼女の誰何の声を聞いて顔を上げ、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「……私の勝ち」
「え?」
それは、全く予想もしていなかった反応だった。面食らってその先を続けられずにいる彼女にかまうこともなく、その人は先を続けた。
「さて、どちらが先日痺れを切らすのか、私としては我慢比べのつもりだったんだけど」
あなたの負けね、と、初めてここに来たときと同じ屈託のない笑みを浮かべ、その人は言ってのけた。
つまり、その人が彼らのことをはっきりとわかっていながら無視していたのは意図してのことだったのだ。彼らが我慢できずに接触して来ることを期待して、何かをするわけでもなく、のんびりと。
そのことに驚いて、腹が立って、なのに、怒る気にもなれなかった。
負けた、と思ってしまったからだった。
元来、精霊たちは好奇心が強いのだ。それを、うまく利用された結果だ。その好奇心ゆえに、彼らは気紛れで人の世と関わろうとするのだし、その関わりが度を越したものにならないように戒めるための禁則がある。精励は人の世に深く関わってはならない。それは、この世界の均衡を崩すものになりかねないから。
それらの全てをわかった上で、その人はふたつの季節を越えて待ち続けていたのだ。人の持つときの流れが精励のそれよりも短いことを思えば、それは驚くべきことだった。
「な……っ、あんた、わかって……!?」
「そりゃあ、そうよ。あれだけ興味津々に物陰から覗かれていれば、よほど鈍くない限りは気づくものでしょう? 私は、これでも巫女の血統を受け継いでいるのよ」
さも当たり前のように言うが、その人が巫女ではないことは明らかだった。そして、巫女ではない者が精霊を見るのは珍しいことくらい、その人だってわかっているはずだ。その言葉は、その人が巫女ではなくとも、そういう環境を当たり前のように目にしていることを示す証にも思えた。
「最初からわかっていて、私たちを無視していたの!?」
思わず叫んだのは、怒ったと言うよりも気恥ずかしさがこみ上げて来たからだ。からかわれているらしいことに気づいて、何とも言えない感情が渦巻く。こちらが気配を消して様子を伺っていたつもりだったというのに、向こうはそれすら予想して待っていたのだから。
「別に、無視していたわけではないのよ」
と、その人は笑った。
その笑みに、何だか毒気を抜かれたような気がした。
「精霊と人とは、関わらない。本当は、その方がいいの。それが、世の理というものなのよ。それでも、言葉を交わすことくらいは許されるわ。たとえ、私のような半端者であったとしても、ね」
「半端者……?」
首を傾げて問い返せば、そうよ、と言って、その人は自分の秘められた出生を教えてくれた。
神域の巫女を母に、都の高名な人を父に。
それは、決して生まれてはならない、人の世では認められることのない存在。それでも、父と母は心から愛し合っていた、だからここに私がいるのよ、と、語るその声はどこまでも優しかった。
人の交わす愛の何たるかを、精霊である彼らは知らない。理解できない。なのに、その人が語る父と母の物語はとても魅力的に思えて、精霊たちはその想いに憧れた。
父たる人は無実の罪で処刑され、母たる人はその咎を問われて巫女の任を解かれ、既にその身はこの神域から遠い都に在った。二度とこの世で相見えることは望めない。幼い頃に傍らにあるべき父も母もなく、都の祭りごとに関わることもなく、ただ、その血筋ゆえに殺すことを憚られ幽閉も同然に活かされているだけの日々。それでも、こうやって、一生を穏やかに過ごして行くのだとその人は語った。
半ば幽閉に近くても、父と母の身分ゆえにその存在は秘匿され、誰にも会わずにいることを強要されたとしても、ひとたびこの世に生を受けたのならば、と。
その想いに、その孤独に、それでも溢れて来る彼女の優しさと穏やかな心に焦がれ、想いを傾けた。
そして、それは、自然の理の中に生きる精霊であった彼らが初めて知る、他者への思慕の情だった。
互いに話すことは他愛もないことで、その人から何かを求められたことはなかった。人は祈り、何かを求めることが当然だと思っていたのに、その人は何も望まなかった。何か望むことはないのかと尋ねれば、何もないのだと穏やかに答えた。ただ、穏やかに生きて行くことだけが全て。
望むものも、求めるものも、そこにはない。
それは、心地のよい場所であり、時間の流れだった。無理難題を祈られ、それが叶わぬと知って嘆きと怨嗟の声を上げられることもなく、その人と過ごすだけの時間は優しく甘くそこに在った。