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「……今のが、そうなのですか」

 桜の後ろ姿が遠ざかって見えなくなると、再び少女――緋月はそこに降り立った。

 音もなく降り立つ彼女の後ろには、ひっそりと寄り添うように立つ影がもうひとつ。住宅が立ち並ぶ日常の風景のその場所にはまるでそぐわない、神職にある者を彷彿とさせるその衣装を纏ったその姿は、緋月が身に着けたありふれた高校の制服とは全く相容れない。けれど、緋月に付き従うかのように立つすらりとした長身は、どこか優美な印象を持って彼女の雰囲気に寄り添っている。彼らは、まるで絵画に描かれた一対の完璧な恋人同士か何かのようで、それでいてどこまでも遠い関係を思わせる不思議な感覚を纏わせてそこに在った。

 だが、周囲を通る人々は、誰一人として彼らに注意を払うことはない。彼らがいるのに全く見えていないような素振りで、誰もが足早にそこを通り過ぎていく。

 それも、そのはずだ。彼らの姿は、普通の人間には見えていない。彼らの美貌がどれほど際立っていようとも、普通の人間の目にその姿が映ることはない。彼らは、自然の中に在る精霊としてここにいた。

 緋月に対して穏やかな問いかけを発したその影は、ひどく秀麗な容貌を持った少年だった。いや、少年と呼ぶには些か遅いのだろう。だが、青年と呼ぶにはまだ少しばかり早い。少年と青年との境の、少年の頃合を脱し始めたアンバランスな印象。それでも、緋月と同様に場違いなほどに美しい造形をしていることに変わりはない。おそらく、見た者誰もが感嘆の溜め息をつきそうなほどに整った容貌にきつさを孕み、彼は苛立たしげにその先の言葉を紡ぐ。

「僕は、認めたくはありませんね」

「あら、随分と頑ななことを言うのね」

 緋月が返したのは、どこか、からかうような声音だ。青年は憮然とした表情でそれを聞き流し、再び口を開く。

「彼女を、認めるおつもりなのですか?」

「……それは、まだ、わからないわ」

 そう言って、軽やかに緋月は笑う。

 それはとても楽しそうなものにしか聞こえず、青年はわずかに表情を歪めた。

 自分には、今の状況を楽しめる余裕など髪の毛一筋ほどもありはしない。だというのに、妙な余裕を見せ付ける緋月の態度がひどく腹立たしかったのだ。

「どうせ、覚醒もしていない半端な存在なのよ。あなたがそれほどまでに気にするほどのことではないわ。彼女が本当にそうなのかどうかなんて、まだわからないことじゃない」

「……では、何故、彼女の前に姿を見せたのです?」

「面白そうだからよ」

 当たり前のように即答され、彼は面食らったかのような表情を浮かべた。

 何かを言いかけたものの、それを忘れてしまったかのように口をつぐむ。そんな様子を見て、緋月は更に楽しそうにくすくすと笑いを漏らした。

「あなたは真面目に考えすぎよ。ずっと退屈していたのだもの、少しくらいは楽しもうと思ってもいいでしょう? もしも、あの人があの人であるのなら、そう言うはずよ。たとえ、彼女がそうでなかったとしても」

「彼女は、その器に値すると思っていますか」

「さあ、どうかしら。それは、私は決めることではないから。でもね、私は今までとは何かが違うと思っているわ。だからこそ、私たちはここにいる、って。蒼樹そうじゅがそう言ったのよ」

「……でも」

「あなたは、何がそんなに不満なの?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、緋月は下から彼を覗き込むようにして問いかける。

「別に……僕は、不満というわけでは」

 彼は答えに詰まり、緋月の眼差しから逃れるように目をそらし、視線を彷徨わせる。

「まあ、あなたの気持もわからなくもないのよ。あの人との絆が一番深かったのは、あなただものね、イナミ」

「……その名前で僕を呼ぶのはやめて下さい」

「ふふ、どうしようかしら」

 緋月は笑って、空中でくるりとターンした。制服の短い裾が翻り、うっかりすると下穿きさえ見えてしまいそうだ。緋月本人はそんなことを気にもしていないだろうし、誰かに見咎められることはないのだろうとわかってはいても、その仕草に苛立ちが芽生える。

 もし、ここにあの人がいたのなら、緋月の行動をはしたないと言って諌めるだろう。そして、怒られたことに不満そうにしながらも、緋月はその言葉に従っておとなしく振る舞う。自分には、緋月に助言を受け容れてもらえる器はない。それは、以前からわかりきっていたことだ。

「ところで」

 と、緋月の全身を眺めやって、彼は眉をひそめた。

「その格好は何の真似ですか」

 イナミ、と呼ばれた彼の纏うそれとは、まるで意匠の違うものを緋月は纏っている。そんなに短い下衣で足元は寒くないのだろうか、下穿きは見えないのだろうか、と、余計な心配をしながらも、イナミはそう尋ねた。

「高校の制服よ」

「それは、見ればわかります。さっきの彼女が通っている高校の、ですよね。ですが、何故、あなたがそれを?」

 緋月は、高校生ではない。それどころか、人間ですらないのだ。そんな彼女には、この世界での年齢での分け方など、些細な違いでしかない。見た目は高校生と呼んでも差し支えのなさそうな容姿をしてはいるが、彼女はこれでも高位の精霊である。

 そんな彼女が、わざわざそんなものを着ることに意味があるとは、とても思えなかった。

「高校生というものを、せっかくだから体験してみようかと思って」

「……はい?」

 あまりにも唐突に、それでいて当然のことのように告げられた内容に、イナミは自分の耳を疑った。

 彼女の行動が突拍子もないのは昔からだ。それに困らされたことも、一度や二度ではない。それは、知っている。経験として、嫌と言うほど充分に。だが、いくら何でも、そういう方向へと話がすっ飛んで行くとは、夢にも思わなかったのだ。

「嫌とは言わせないわ。大丈夫よ。簡単なことだから」

「か、簡単って、何が」

 ずい、と詰め寄った緋月の大きな瞳に真正面から覗き込まれ、思わずたじろぐ。

 この眼差しに見つめられると、動けなくなる。動くことを許されないような、そんな錯覚に襲われる。

 それは、彼女の方がイナミよりも高位の精霊であるということ、潜在的な力の質量において圧倒的な差を誇ることも大きな原因だが、何よりも彼女自身が持つ魅力によるところが大きい。圧倒的な力の差と、彼女自身の魅力の前には屈するしかないのだ。

 力を持つ者には、抗えない。それは、自然界の掟だ。そして、彼らはそれに縛られて生きていて、世界はそういうふうにできていた。

「彼女がそうであるのか否か、値するべき器なのか否か、近くで見てみなければわからないのではないかしら?」

「それは、そうかもしれませんが……。わざわざ、そのようなことをする意味はあるのですか?」

「だって、退屈なんだもの」

 またしても、当然のように胸を張った答えが返ってきて、イナミはげんなりとして溜め息をついた。

 そうだ、彼女は、こういう性質だった。と、改めて思い出したからだ。

「あら、何か文句でも?」

 そんなイナミの様子を見て取って、彼女は問う。その問いかけに何とはなしに不穏なものを感じずにはいられないが、今は、気づかなかったことにした。

「いえ、ありませんが」

「じゃあ、何も問題はないわ」

 緋月はあっけらかんと言い放ち、にっこりと笑った。その笑みは眩しささえ感じさせる明るいもので、彼女の持つ本質をよく現している。

 彼女はまるで太陽のようね、と、あの人が言ったのは、正にその通りだ。彼女は火を司り、世界を統べる力を持つ。その本質を一瞬で見抜いてそう評したのは、あの人が稀有な存在であったからに他ならない。それは、世界の理のひとつだ。

「私はね、ただ時を待つつもりなんてないの。そんなの、時間の無駄だわ。待つしかないなんて、そんなのは嫌。私たちが再びこうして会うことができたのは、何かの意図があるのだと思っている。だから」

「……全ては、あの人の意思、とでも言いたいのですか」

 もちろん、その可能性を否定するつもりはない。否定してしまえば、自分たちがここにいることそのものが否定されてしまう。けれど。

「さあね。そんなこと、とりあえず、私の知ったことじゃないわ。あの人の意思なんて、今は関係ない。これは、私自身の意思よ」

 以前から変わることのない意志の強さを垣間見せ、緋月はきっぱりと言い放った。

「だから、あなたも一緒に通うのよ」

「は?」

「楽しみね! じゃあ、また明日、学校でね!」

 人の話など何ひとつ聞いていない素振りで一方的に宣言すると、緋月は姿を消した。

「え?」

 後に残されたイナミはぽかんとして緋月の消えた空間を見やり、わずかに首を傾げる。

「学校……?」

 何の話だ、それは。

 緋月の残した言葉を自分の中で反芻し、その意味することに気づいてイナミは青ざめる。そして、そのことに対して自分に拒否権はない。彼女が自分たちの中の主格を務める以上、その言葉に抗うという選択肢は、存在しないのだ。

 彼女の言っていることは、わかっている。

 自分たちが、こうして再び集うことができたことには、必ず意味がある。

 それは、誰かに言われるまでもなく自分の中にある確信だ。

 再びここに集まることが叶って、既に半年あまりが過ぎた。その間に大抵のことは学習できたと思うし、それなりにこの場所の知識は身につけたと思っている。それでも、自分の知っていた世界とは全く様相を変えてしまった世界に対する、戸惑いは大きい。緋月は元々珍しいものが大好きだからあっという間に受け入れて楽しそうに振る舞ってはいるが、イナミにはそれができない。だから、この世界の人々には極力関わりたくないと思っていたのに。

「誰か、嘘だと言って下さい……」

 かぼそくつぶやいた声は、誰に聞き取られることもなく宙にほどけて消える。しょんぼりと肩を落としたいナミの存在に、周囲を通り過ぎていく人々が注意を払うことはない。人々は、そこには誰もいないかのように近くを素通りしていくだけだ。

 実際、だれもいないのだ。人々は、そこに確かにいる彼らを認識しない。認識していなければ、そこには誰も存在していないのと同じことだ。

 人々の目には、彼らの姿は映らない。それは、当然の規律であり、覆されないものだ。

 彼らの姿を自然に視界に映すことができるのは、ごく一部の選ばれた血筋の者であることが多い。それは、自然との対話を生活の中に取り入れたわずかな血統の持ち主であることがほとんどで、桜と呼ばれた少女が緋月の姿を見たということは、その資格を彼女が有するということに他ならない。

 彼女は、あの人ではないのに。

 あの人は、とうにいないのに。

 なのに、期待してしまう自分が悲しくなる。

 当然のことながら、彼らは人間ではない。自然の力を糧に生きる、精霊である。

 いや、元々の彼らに、その概念は存在していなかった。ただ、そこに在るから存在する。それだけのことだった。精霊という名で呼んで親しんでくれたのは、かつての主だ。自然の気の流れを読み、彼らと当たり前のように対話する術を生まれながらに知っていたあの人は、おそらく、普通の人間とは少し違った存在であったのだろう。

 あの人は彼らと会話を交わし、その力を知り、そして、名前を授けてくれた。その声で呼ばれる名はとても心地よくて、心が浮き立つのを感じたものだ。

 あの人のつけた名は彼らの本質を現し、その存在を縛る言霊でもあった。

 それでも、彼らはあの人を愛していたし、敬い、主と定めてその命令には何の躊躇いもなく従った。主が死して後もその魂の行方を求め、悠久の時の流れの先にその救いを求めて眠りにつくほどに。

 眠りは、長かったのだと思う。

 彼らの感覚からすれば、それは、あっという間のことだったのかもしれない。人の世界の時の流れは、彼らにとっては瑣末なことだ。だが、目覚めた時に感じたのは驚愕だった、見知っていた世界とはまるで違う、あの頃の面影を欠片も見出せない世界。精霊という存在すら、とっくに忘れ去ってしまった人々の群れ。かつて在ったあの場所では、その目に彼らの姿を映すことはなくとも、人々はその存在を信じていたというのに。

「僕は、どうしたいのでしょうね……?」

 答えなど、ない。

 あるいは、そんなものは最初から求めていないのかもしれない。

 何故なら、あの人はここにいない。

 遠い昔に、あの人は失われてしまったから。

 ならば、何故、自分はここにいるのだろう?


『イナミ』


 あの人が呼んだその名は、今もこの身を縛る言霊として在るのに。

 果たされることなく潰えた約束はそのままで、それに縋って今もその面影を追いかける。今となっては得られないものなのかもしれないのに、諦めきれない想いがそこにある。

 イナミは唇を噛み締め、何もない中空を睨み据える。

 そうしてから、軽く宙を蹴るようにして彼はふわりと空へ舞い上がった。

 どこに行くという当てなど、ない。

 今更、どこに行ったとしても同じことだ。何かをするという目的はなく、何かをしたいという欲求もない。ただ、あの人の縁を追い求めるだけだ。もしも、緋月のようにこの世界に興味を引かれて気持ちを切り替えられたのなら、少しは違っていたのかもしれないけれど。

 当てもなく空を駆けながら、ただ風の導くままに宙を滑りながら想うのは。

 自分の名を呼ぶ、優しい、ただ一人の声。

 遠い時の向こうに消えてしまった、たった一人の愛しい人の面影だった。


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